三章 3話

 翌朝には、ベルは屋敷を発っていた。


 シンシアとふたりきり。しかしそれ以外は、一日目と何も変わらない。

 強いて違いを挙げれば、食事の味が濃くなったことくらいだろうか。

 だらだらと過ごしているうちに、夜になり、そして更けた。


 

 三日目も、同じことをした。

 夕方ごろになって、ようやく瓦礫の清掃が終わってくれた。

 これで一段落だね、とシンシアは喜んでいた。

 アッシュにとっては、もちろんどうでもいいことである。



 四日目も、五日目も、六日目も。

 似たような雑用を押しつけられては、てきとうに片付けて。

 かといって、脱走してからの算段など、どうにも見通せなくて。

 空虚でくだらない時間だけが、ただただ過ぎ去っていった。



 ――本当に、くだらない。



 ◇◇◇



 それを見つけたのは、七日目の夕食後だった。

 書斎の掃除をしていたときのことである。


「なんだよ、これ」


 数枚の書類。

 そこに記されている文字から、アッシュは目を離せない。


「ユーリア養護院、経理書類――」


 手に取った理由は、些細なものである。

 たまたま視界に機密っぽい書類が入ったのだ。

 だから、ちょっと覗いてみようと思った。それだけだ。



 ――それは、アッシュが卒院した孤児院の、経理書類だった。



「なんで、こんなものが、この屋敷に」

 わかっている。


 そんなもの、ひとつに決まっているじゃないか。

 だけど、アッシュの思考は、それを拒絶しようとしてくる。


「…………」


 ぱらぱらと書類をめくる。

 この屋敷にある貯金の何倍もの額が、毎年毎年、どこかに支払われている。

 そしてもちろん、それらは全て、ユーリア養護院の経営費だった。


「は、ははっ……そういう、ことかよ……」


 ユースティス家の、貴族として致命的なまでの貧困。

 その理由が今、はっきりとした。


 ――つまり、シンシア=ユースティスは。

 両親の遺産も、蓄えた財産も、騎士団の収入も。

 その全額を、ユーリア養護院の運営に充てているのだ。


「どういう頭してんだよ、あいつは」

 正気じゃない、と思う。

 この世界では、金こそ全てだ。なのに、


「なんなんだよ、そりゃ。意味、わかんねぇよ……ッ」


 貴族としての裕福を捨ててまで、他人の幸福に尽くす少女を、知ってしまった。

 ずきりと、頭が痛む。



 ◇◇◇



 ふらふらと部屋に戻って、そのまま枕に顔を埋めた。


 思考が永遠とぐるぐる渦を巻いていて、ものすごく気分が悪い。


「ほんっと、なんなんだよ……」


 昔のことを回想する。

 幼いころのアッシュは、今日を生きようと必死だった。実際に何度も死にかけたし、明日を諦めてしまおうかと絶望したことだってある。そして、ついに死の淵に片足を突っ込むことにもなった。


 そんなときに救いの手を差し伸べてくれたのが、ユーリア養護院だった

 くたばりかけた少年の命を、無償の善意で救ってくれた、そういう場所だ。


 その経営者があの少女だということは、つまり――。

「なにが、優しすぎる変人だよ」


 寝よう、と思った。

 幸いなことに、意識はすぐに暗い底へと沈んでいってくれた。

 まどろみの中、固く閉ざしたまぶたの裏では、ひとりの少女が笑っていた。



 ◇◇◇



 途端に、意識が覚める。

 アッシュはうっすらと目を開いた。


 まず最初に、半開きのカーテンが視界の端に見えた。どうやらまだ夜中であるらしく、ほのかに月の光が射しこんできている。ふと、その先を追って見てみると、



 絹のような金色の髪が、淡く美しく煌めいていた。



「……綺麗、だな」

 無意識のうちに、口が動いていた。

 ぼんやりした寝起きの頭が、ゆっくりと鮮明になっていく。

 何者かが、こっちを心配そうに見つめている。

 誰だ、と思う。


「シンシア……?」

 そこでようやく、アッシュは右手で何かを握っていることに気づく。

 温かくて。柔らかくて。だけど繊細で。

 そんな心地いい感触が、ぎゅっと手を握り返してくる。


「うん、わたしだよ?」

 にへへ、と、あどけない笑顔が見えた。

 その瞬間に、ひとつの記憶が蘇る。

 ユーリア養護院の経理書類を、見つけてしまった記憶。


「ん、どうしたの? わたし、ヘンな顔してたりするかな」

 言われて、はっと気づく。桜色のネグリジェ姿のシンシアから、目を逸らす。

 行き場を失った視線の先が、自分の手元に注がれる。


「……なんだよ、これ」

「だって、酷い顔だったんだよ?」

 あっさりとした、シンシアの声。


「なにか嫌な夢でも見てたんじゃないかな。きみ、けっこう苦しそうだったから。……でも、ごめんね。わたしにしてあげられることって、これくらいしかなくて」

 その言葉だけで、アッシュは理解する。


 この少女が、どうして今この場にいるのか。きっと、例の大嫌いな夢を見たアッシュがうなされる声を聞いて、いてもたってもいられずに駆けつけてきたのだ。そして、どうにかしてあげたいと考えた末に、とりあえず手でも握っておこうと決めたに違いない。


 シンシア=ユースティスは、そういう性格の少女だ。

 優しすぎる変人と称されるくらいには、他人を想わずにはいられない少女。


「……今、何時だよ」

「え? んーっと……」

 ちらりとシンシアは壁掛けの時計を見て、


「ありゃ、もうこんな時間だったんだ……」

 深夜三時を示す針から目を離し、にへへと苦笑い。


 握られた手を振り払って、アッシュは、

「なぁ……なんのために、あんなこと、してるんだよ」

「あんなこと?」

「ユーリア養護院のことだ」


 ぴくり、とシンシアの華奢な肩が跳ねる。


「……そっか、見つかっちゃったか。いちおう隠してたつもりだったんだけど――」

「俺が聞きたいのは、そういうことじゃない」


 遮る。

 自然と、語気が尖る。


「お前が階級の低い貴族だってのは知ってる。でも、だからこそ不可解だ。金がねぇのに、どうして孤児院なんざ経営してる。どうして、そこまで他人のために金を使う」

「それって、そんなにヘンなことかな?」

「当たり前だ」


 だって、この世界では、金こそ全てだ。

 それを投げ捨てることが、どれだけ愚かな選択であるだろうか。


「……わたしはさ、思うんだ」


 シンシアは、穏やかに語る。


「幸せになる権利は、誰にだってある。

 だけど、この世界って、けっこう残酷でしょ? お金がないってだけで、ちゃんとしたご飯を食べられないような人もいる。そうやって理不尽を強いられてるひとたちの力に、わたしはなってあげたいの」


「……お前、自分がどんな立場の人間だかわかってんのか、ザコ貴族」

「うへぇ、相変わらずズバっと言うよね、きみ……」

「お前のそれは、ただの偽善だろ」


 言うべきじゃなかったとは、わかっている。

 だけど、どうしても言わずにはいられなかった。


「お前ら貴族がどういう連中かって話だよ。

 生まれが良くて、金があって、不自由のない幸せがあって。お前だって、そういう連中のひとりだ。俺たちみたいな平民以下の人間どもを踏み台にして笑ってるクソどもの仲間なんだよ。

 なのに、今さら誰かのために金を使うだなんて……ふざけるな。俺たちをバカにするのも、いい加減にしろよ」


「そんなの、わたしには関係ないし」

 怒ったような声だった。

 だけどどうしても、優しさが隠しきれていない。


「わかってるよ。わかってるけどさ。でも、どうだっていいことでしょ? 

 わたしは貴族だし生まれもいい。位階さえ上がれば権力くらいもらえるだろうし、そうじゃなくても養護院を解体しちゃえば、たぶん一生幸せに暮らせてたと思う」


「ッ、だったら、どうして――」


 窓際から、ふいに風が吹いた。

 美しい金色の髪が、凜々しく揺れる。



「そんなの、くだらないでしょ?」



「――――」

 思考が止まる。

 アッシュは、言葉を返せない。


「わたしはね。ただ、きみを幸せにしてあげたいの」

 それは。

 どういう、意味だろう。


「きみがユーリア養護院にいたこと、わたし、じつは知ってたんだ。

 だからさ。きみを幸せにしてあげる責任が、わたしにはあるでしょ?」

「……関係ねぇだろ、それは」

「あるよ。わたしにとって、きみは子供みたいなものだもん」


 歳はひとつしか変わんないけどね、とシンシアは微笑む。


「……やっぱ変人だよ、お前は」

 乾いた笑いを、アッシュは返した。



 あぁ――そうだったのか、と思う。

 今までまるで理解できなくて、理解する気もなかったが、彼女の思考にほんの少しだけ歩み寄れたような感覚がある。


 騎士であり、いちおうは貴族でもあるシンシアの行動の意味が、やっと掴めた。


 本質的には、アッシュのそれと同じ。

 セントシア王国への反逆の心が、彼女の魂に根付いてるのだ。


 それが、アッシュとは違って、〝優しさ〟という形になって体現しただけ。

 この世界に不満があって、だから緩やかに刃向かおうとする、そのための〝優しさ〟。



「……俺、は」

 か細い音が、こぼれ落ちる。

 それはやがて、声に変わった。


「俺は、お前に救われた」

「うん」

「お前は、俺の命の恩人だ」

「うん」

「だから……もう、俺に構うな」


 くしゃ、と音がした。

 布団を強く握りしめていたのだと、遅れて知った。


「……なんで、そうなるの?」

「俺は悪だ。理由なんて、それだけでいいだろ」

「わたし、きみのこと、ただの悪いひとだなんて思ってない」


 あっけらかんとした声を、シンシアは返してくる。


「きみだって、きっと考えがあって盗みとかしてたんでしょ? なんとなくだけど、わたしにはわかる。きみのこと、ただの悪いひとには見えなかった」

「考えなら、そりゃあるさ。それでも、俺が悪だって事実には変わらねぇよ」

「じゃあ、それを聞かせてよ」

「…………」


 シンシアの顔を、じっと睨む。

 改めて注目してみると、ただ美しいだけの顔には見えなかった。その翠玉色の瞳には、確かな意思の炎が灯っている。強い覚悟があって、そして反抗的な色をしていた。


 アッシュは、やや大げさに息を吸って、



「――セントシア王国を、滅ぼすためだ」



 静寂を保って、そう告げる。


「こんな金こそ全ての世界なんざ、とっくに腐ってる。

 だから、この俺がブッ壊してやるんだよ。貴族どもから金を盗みまくって、怪盗『灰仮面』っつう恐怖の存在を造り上げる。そうして盗んだ金を使って、今度は俺が権力を握る。ズル賢い貴族どもを、ことごとく利用してやるんだ。

 最終的には、王国の権威体制を崩壊させる。不平等な幸せを、俺が滅ぼし尽くす。

 ――それが、俺の〝野望〟だ」


 途方もないことだとは、理解している。けれど、誰かが大きく動かない限り、この王国は変わってくれない。


 その大役を、アッシュは買って出た。

 それこそが、アッシュなりの反逆であり、人生への復讐なのだ。


「ハッ、どうだ? 俺は悪だろ?」


 つとめて不敵に、笑ってみせる。

 シンシアの真剣な顔つきが、柔らかく緩む。

「そっか。きみ、けっこうかっこいいんだね」

「……何を聞いてたんだよ、お前は」


 ため息をつきながら、アッシュは顔を手で覆った。

 んしょ、とシンシアの立ち上がったらしい声が聞こえる。


「……これでもう、わかったろ。俺は悪党だ、助けるだけ損なんだよ。お前のやることを否定するってわけじゃねぇけど……もう、充分だろ」

「もう、ずっと言ってるじゃんか。わたし、きみを幸せにしてあげたいの」

 もぞもぞ、と布団の中に誰かが潜り込んでくるような感覚。


「ッ、だから、俺は――」

 ふと、声を荒げようとして、気づく。

 ベッドの中が、やけにあったかい。おまけに、花畑のような甘い香りがする。

 不思議に思って、顔を覆っていた手を外してみる。

 シンシアの顔が、やけに近くなっていた。


「…………何してんの、お前」

「ん、見てわからない?」


 息のかかる距離。シンシアが聞き返してくる。


「……わからねぇから聞いてんだよ、こっちは」

「じゃあ、教えてあげるね――」

「…………っ!?」


 ぐい、と後頭部に手を回される。

 そのまま、ぎゅっと胸元に抱き寄せられた。


「こういうの、添い寝って言うんだって」

 どこか悪戯っぽく、シンシアは囁く。

 ぎゅっ、さらに強く抱きしめられる。


 アッシュは何か反論をしようとしたが、もごもごと発声することしかできない。呼吸がちょっとだけ難しくなる。息苦しい。


「こら、くすぐったい」


 だったらこんなことするな、と言おうとした。


「――きみはさ。もっと、ひとに甘えてもいいんだよ?」

 優しい手つきで、よしよしと頭を撫でられる。


「なんでもかんでも、きみひとりでなんとかできると思わないの。きみの人生って、きみだけの人生じゃないんだよ? きみが幸せなら、わたしだって幸せだし。そのための手伝いを、わたしがしたいだけなの」


 とくん、とくん、と。

 少女の心臓が、穏やかな音色を奏でている。


「だからさ。今日くらい、わたしに甘えてほしいな」


 吐息が、アッシュの耳をくすぐる。

 この体勢の気恥ずかしさを、改めて実感する。

 ばしばしと布団の上を叩いて、緩めてくれと訴える。


「あ……ごめん、苦しかった?」


 若干だけ力が緩んで、胸元からは解放される。

 しかし、後頭部には手を添えられたままだ。至近距離で見つめ合う体勢は変わらない。こうして間近に顔と顔が迫った状態では、むしろ気恥ずかしい。


 彼女の美しい瞳や艶やかな唇に、意識を持っていかれそうになる。


「……お前は、さ」


 声が、震えた。


「どうして、そんなに優しいんだよ。どうして、ここまで他人を気遣える」

「む。そういうこと言うなら、やっぱり離さない」

「なん…………でっ!?」


 視界が揺れる。

 むぎゅう。またしても胸元に抱き寄せられる。


 ふんわりとした膨らみの感触は、とにかく心地がよいものだった。あったかくて、甘い香りがして、やわらかくて。人肌というやつは、こんなにも気持ちがいいものなのか。


「他人とか、さみしいこと言わないでよ。わたし、きみのこと大切に思ってるんだけど」


 アッシュはもはや、抵抗をしない。

 この体勢を受け入れて、どうにか返事を探す。


「……なぁ、シンシア」

「うん?」

「お前、このまま寝るつもりかよ」

「だってきみ、嫌がらないし。このまま一緒に寝て欲しいのかなって」


 よしよし、と丁寧に撫でられる。


「なわけ、ないだろ。抵抗する気力がないだけだ」

「あ、その言い訳、すごくきみらしい。ひねくれここに極まれり、って感じがする」

「……うっせ」


 抵抗する気力がないのは、本当のことだ。

 どういうわけだか、全くもって湧いてくれないのだ。


「もしかしたら、きみを素直にさせることが、幸せへの第一歩かもね」


 シンシアの唇が、耳元に寄せられる。

 距離が、近い。


「きみ、して欲しいこととか、ないの?」

「疲れてんだよ。いいから、寝かせろ」

「そっか、わかった」


 目を閉じた。

 ゆっくりと体が動いて、シンシアに抱かれたままの頭が、枕元まで移動する。


「わたしは、ずっときみの味方だからね?」


 知るか、と思う。

 どうにか眠りにつけるまで、アッシュは瞳を固く閉ざし続けた――。

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