心の在処
東京の
「おじいちゃん、急用って何だろうね」
運転席のジルは前を見ながら答えた。
「本当に。昨日連絡した際には、リオ様のお越しを楽しみにされているようでしたのに」
「部下の人が疫病がどうのって騒いでたけど、まさか……」
「そうであれば総二郎様から直接リオ様に連絡が入るでしょう。
「そっか……」
しばらくの沈黙の後、ねえジル、とリオは不安げな声を漏らした。
「撫子が、私の家族を捕らえたって言ってたでしょ。アルバたちのことだから、藤野組の下っ端に捕まるなんてことはまずないと思うけど、もしかして」
「有り得ません」
「……」
「リオ様」
路肩にゆっくりと車を停めたジルが、ぽんぽんと助手席のシートを叩く。
リオは大人しく車から降り、彼の隣に座り直した。
「藤野撫子が誰を捕らえたのかは、今別の部下に調べさせています。今夜中に答えは出るでしょう」
「うん……」
「それに、アルバ様たちとの通信が途絶えた理由にも、少し予想がつき始めているところです」
「えっ、そうなの!?何で、むぐっ」
リオの口にチョコレートのかけらが突っ込まれた。甘い。ジルは甘いものを好まないので、これはリオのために用意されたものだろう。
パキッ、パキッと次のカケラを用意しながら、ジルは続けた。
「ファロ様です」
「ファロ?」
「我々がこれだけ何の情報も得られないということは、徹底的な情報統制が行われている可能性が高い。つまり、あえて居場所を隠しているのではないでしょうか」
「……何で私にまで隠すの?」
「……逆に、リオ様にだけ隠してるとしたら?」
「……まさか!」
リオがはっと目を見開く。
「私が行きたいって言ってたミラノ行きの任務、かわりにDeseo全員で行ってるとか……!?それはあんまりにもひどすぎ、むぐっ」
「お馬鹿さんめ」
リオの口に残りの全てのチョコレートを突っ込んだジルは、再びギアをドライブに戻してゆっくりと車を発進させた。
あいかわらずリオは、自分が彼らにとってどれほど特別な存在か、これっぽっちも理解していない。アルバのあの異常なまでの溺愛具合をもってしても「大事にしてくれて嬉しいな」くらいの認識なのだ。馬鹿すぎる。
(困った方だ)
しかしこれは、彼らがリオを溺愛する程度と同じくらいに、リオが彼らを特別で愛すべき存在だと認識している以上仕方がないことなのかもしれない。
自分が最も尊ばれる存在――という前提が、そもそも理解できないのだから。
「あなたほど、藤野撫子の
「……褒めてる?」
「褒めてます。追加のチョコレートは?」
「もういらない」
そうですか。ジルは微笑んで、あたたかい紅茶の入ったマグボトルをリオに差し出した。
「リオ様、今日はどうかゆっくり眠ってください。戦場での不眠は重大なミスにつながる。それは、Deseoにとって最善ではありません」
「……そうだね。ありがと、ジル」
「部下として当然のことです」
ほろ苦く笑ったリオが「ジルが一緒にいてくれてよかった」とこぼすのに、ほのかな誇らしさを感じたことは、秘密にしておくことにした。
「ああ、そうだ」
リオがなにげなく口を開く。
次の言葉にジルは固まった。
「今日もホテル戻る前に寄ってほしいところがあるんだ」
「………リオ様」
「すぐ済むから。お願い」
静かだが有無を言わせぬ口調に、ジルは「はい」と頷き、ハンドルを握る手に静かに力を込めた。
ミラー越しにそっと少女の顔を見る。
窓の外を見つめる、リオと一度も目が合わなかった。
**
自殺未遂による多発骨折。
サイドテーブルに置かれているカルテを読み直したあとで、リオはそれを元の場所に戻した。
「……今日も来たよ、朱音」
リオは、薄青く変色した親友の頬に手を添えながら優しく語りかけた。
(大丈夫。まだあったかい)
ピッ、ピッ、と継続的な機械音にも慣れてきた。
目を覚さない朱音に語りかけ続けることにも。
「今日、驚くことがあってさ」
「志摩が自分で撫子の本性見抜いたんだよ。すごいよね。たぶん、彼は野生の勘が鋭いんだと思う」
「殺し屋だったら凄腕になれてたかもね」
「まあ剣道バカだから殺しはやんないと思うけど。そもそも、誘わないけど」
「ていうか、朱音、学校の近くに可愛いカフェあるの知ってる?さっき帰る時に見たの」
「元気になったら一緒に行こうね」
「その時はもう私、帝明の生徒じゃないかもしれないけど。こっそり制服着るからさ。アルバに内緒でまた日本に来るから」
「……だから早く元気になって。ね、朱音、約束」
「………」
「……」
「………ごめんなさい」
廻神や伊良波がどれだけ協力してくれても。
志摩が撫子の正体に気付いたって。
リオの中の復讐の念が少しも鎮火せず、いつまでも激しく燃え続けている理由は、これだった。
「ごめんなさい、朱音……っ!」
リオは朱音の手元に額を押し付け、後悔に奥歯を噛み締めた。
「朱音……。私。だめだねぇ」
「今日、東に絵をあげたの。授業でね」
「それに山口が絵の具をかけて、東が、びっくりするくらい青ざめてたから、つい……大丈夫だよって。言っちゃった。
あいつは、朱音を追い詰めたのに。憎いのに。嫌いなのに……ごめんね」
リオはそれからしばらく黙り、傷ついた朱音の姿をその目に焼き付け続けた。
彼女の痛みを脳裏に思い描く。
あの屋上から一歩踏み出した、その恐怖を。
屈辱や怒りを。
復讐の念を心に打ちつける。
こうでもしないと、誰にでも心を許しそうになる自分に、リオは心底嫌気がさしていた。
(恨みを)
クラスメイトと、五十嵐、東は、
まちがいなく朱音の心を引き裂いた当事者だ。
撫子が黒幕だったから彼らが悪くないなんて、絶対に言わせない。
(恨みを)
撫子を憎むのは簡単だからいい。
同じ闇の中の、いっそう深いところを泳ぐ彼女への嫌悪感は自然と湧き上がってくるから。
(恨みを)
でも、彼らはどうだ。
垣間見える弱さが。垣間見える優しさが。
リオのなかに迷いを生じさせる。
彼らを傷つけることが本当に正しいのか、分からなくなる。そんなの考えるべきじゃないのに。ないのに。
(恨みを)
リオは、朱音の怒りも恨みも、常に胸に抱き続けていなければいけないのだ。一瞬でも、忘れる瞬間などあってはいけない。だって
だって、優しい朱音は、きっと彼らに復讐しないから。
だから目覚めたら、朱音は許すだけがいい。
復讐はリオが済ませておきたい。彼らが朱音への罪悪感で身動きが取れなくなるほど、息ができなくなるほど、しっかり、思い知らせておきたい。そうじゃなきゃ、朱音が抱え続けたあの痛みが、苦しみが、報われない。
ここ数日で、リオはその準備をしてきたのだ。
あとは実行するだけのこと。
「………明日は、ちゃんとやってみせるから」
長い
「ただいま。ジル」
「……お帰りなさいませ」
「もう戻っていいよ。ありがとう」
微笑みを浮かべつつ、目の奥の光がくすんで消えてしまったリオを見て、ジルは願った。
(――アルバ様、早く)
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