死地にて②

 シュー、シュー、と自分の息遣いが煩い。

 ガスマスク越しの狭い視界で目的の部屋を見逃さないよう、リオは意識を凝らして周囲に視線を巡らせた。

「!」

 角を曲がった瞬間に現れた少数部隊に、考える間もなくマシンガンの銃口を向ける。装填そうてんの手間を考慮して連射はしない。数弾ずつ的を絞って射撃すれば、五人のうち二人が身体を跳ねさせて仰向けに倒れた。

 銃弾の横雨がすかさずリオを襲い、身をひるがえして曲がり角に身を隠す。

 打ち崩されたコンクリの壁が粉をふいて降りかかってくるが、リオは再び半身を覗かせて残りの三人も撃ち殺した。

 むっと濃くなる血の匂いの中を走る。

 一瞬、彼らのガスマスクを外してアルバの後を追うことも考えたが、既にアルバが毒ガスを吸っていれば無駄足になってしまう。


 ――今は一刻も早く、解毒剤を見つけるしかない。


 リオは敵の屍を飛び越え、「化学薬品室」と書かれた扉を押し開けた。


 幸いなことに中は二重扉になっており、内扉の奥はガスの浸食を間逃れていた。マスクを外し薬品の並ぶ棚に飛びつく。

「PAM、PAM……」

 当たり前だが解毒剤には解毒剤などという親切なネームシールは貼っていない。はじめに毒を知り、それを分解する成分を摂取するのだ。



「――サリンだ」

 格納庫を出た瞬間、アルバは自身の指先に走る痺れ、そして瞳孔の収縮から毒ガスを断定し、リオに告げた。次の瞬間、二人は反対方向に向けて風のような速さで走り出す。

 サリンは神経系の毒ガスだ。

 もたもたしていると、アルバは屋上まで辿り着けない。


 PAM(プラリドキシム)は体内酵素に結びついたサリンを引き剥がす作用を持っている。これはススピロによる毒薬講座の際にリオが頭に叩き込まれた知識だった。


「嘘、なんで……っ!?」


 しかし、どれだけ探してもPAMの薬瓶が見つからない。

 焦りで震える手を握り締め、もう一度、と見た棚を引き返しはじめたリオは、ふと部屋の隅に信じられないものを見つけた。

(……嘘だ)

 粉々に割られた瓶の欠片が1箇所に散乱している。

 願うような気持ちでそこに近寄れば、割れた瓶のシールに「pralidoximeプラリドキシム」の表記が見えた。

 敵襲を察知した科学者たちが、毒薬が散布されることを予見してあらかじめ全て割っておいたのだろう。他にも、痙攣や呼吸困難、神経毒に効く薬はあらかた割られていた。


「どうしよう……」

 絶望で目の前が真っ暗になり、リオはその場に膝をついた。

 

 ススピロなら何か策を講じてくれたかもしれないが、彼女はここから数キロ離れた駐屯地で後方支援のために待機している。格納庫を出た途端に現れた毒薬の反応速度を思えば高濃度である可能性が高い。

 駐屯地まで、アルバは生きていられるだろうか。

 呼吸難に喘ぎ、喉から血を吹き、自由の効かない身体で悶え苦しみながら……。



「今決めろ、リオ」


リオははっと顔を上げた。


「解毒剤を見つけて俺を救うか、探し出せずに殺すかだ」


 溢れかけていた涙を手の甲で乱暴にぬぐい、立ち上がる。――そんなこと考えるまでもない。

 アルバを救うのだ。

 彼のいない未来を、私たちは許せないから。


 リオはデスクの上に置かれていた紙の束を乱暴に払い落とし、そこにもう一度基地の平面図を広げた。何か見落としはないか、何か他に、考えられる策は――――。


 それに気付いた時には、リオは既に駆け出していた。

 アルバが定めたヘリの離陸時間まで、残り八分を切っている。






***




「くそっ、遅えな!!!」


 屋上に続く階段の最後の踊り場で、アドルフォは激しく悪態をついた。もうすぐ弾も底尽きる。これ以上押されたらあっという間に屋上に敵が雪崩れ込み、最悪の結末を迎えることになる。

 手持ち最後の手榴弾を下に投げ込んだ時、屋上の扉が開いて目立つ赤毛が飛び降りてきた。敵の戦闘服に身を包んだノーチェだ。長らく指揮官に変装していたが、その男の死が明るみになってからは無意味になったらしい。


「アド!あいつ来た!?」

「まだだ!アルバはどうだ?」

「……ちっとやべーかも」


 ノーチェの声が沈み、アドルフォも黙って歯を噛み締める。

(アルバ……)


 散り散りになっていたDeseoの面々はそれぞれ別ルートで屋上に向かっていたが、到着するなり言葉を無くした。

 数十人の死体の中央に、返り血を浴びたアルバが一人立っていたからだ。

 ここにもこれだけ敵が詰めていたとは――。

 空中で滞空していたヘリが、ゆっくりと高度を落とし始める。



「アルバ、お前……!!」


 アドルフォがアルバに向かって一歩踏み出した瞬間、アルバの身体が血の海にくずおれた。

「首領!!!」

 珍しく声を荒らげたノーチェと共にアルバに駆け寄る。

 激しく痙攣する手足。呼吸さえままならないのか、ハ、ハ、と短く吸吐を繰り返している。


(――毒ガスか……!!)


 アドルフォたちは途中でガスの蔓延するエリアを回避してきたために到着が遅れた。まさか、アルバはあの渦中にいたのだろうか。


(クソッ)

「アルバ、待ってろ!今解毒薬を探しに――」

 アルバの手がアドルフォの腕を強く掴んで引き留めた。言葉を発することはなく、代わりに、唇だけで少女の名前を告げた。


「……リオ、あいつが、薬を探してんだな!?」


 そうだと告げるように、アルバの腕が力無く下がる。ヘリを着陸させたファロがこちらに駆け寄ってくるのが見えた。

 アドルフォは立ち上がり、ファロとノーチェに言い放った。


「あいつが来るまで耐えるぞ!!!!」





 血まみれのリオがバレリアに担がれて屋上に運ばれてきたのは、それから数分後のことだ。


「おまたせ〜〜!!」

「あ!?バレリア!?お前何でここにいんだ!!バイクで離脱して先に合流地点に行くって言ってたろ!?」

「あんたのせいよアド!」「ごっ」

 額に青筋を浮かべたバレリアがアドルフォの脛を蹴っ飛ばす。


「あんたとリオが逸れたらしいってファロから無線で聞いてそっこー引き返したのよ、この馬鹿!何でちゃんと見てないの!」

「ぐっ、お、俺だってなぁ」

「言い訳は結構!あとでススピロからもこってり怒られてちょうだい!」


「何してるお前ら!!揃ったなら早くしろ!!」


 怒鳴るファロにせっつかれてヘリに乗り込む。瞬間に離陸したヘリから、身を乗り出したノーチェが肩に構えたランチャーの引き金を引いた。


「アルバとリオは!?」

 炎をあげて燃え盛る基地にはもう目もくれず、アドルフォはタンカに寝かされる二人のそばに膝をついた。

 アルバは呼吸器に繋がれているが、顔は既に死人のようだ。

 ファロがバレリアに尋ねる。

「リオの出血はどこからだ」

「脇腹よ。ここに向かう途中に撃たれたみたいで……。急所は外れてるけど早く手当しないと」

「ファ、ロ……」

「リオ!」

「これ、アルバに」


 リアが差し出した薬瓶は、pralidoximeではない。かわりに「atropineアトロピン」の表記がある。


「医療室に行ったの……PAMを探しに、でもやっぱり割られてて、でも、それがあって……」

「アトロピンって確か」

 バレリアがファロの顔を見る。

「……〝アトロピンは神経末端のリセプターでAChを追い出すことにより分泌液増加、気管支攣縮、徐脈、縮瞳などのムスカリン作用および中枢神経作用に拮抗する〟――ススピロのあのバカみたいな厚さの指南書、ちゃんと読んでんのはお前くらいだ」


 ファロは薬瓶を握り直し、リオに向けて微笑んだ。


「十分だ。これでアルバを救えるぞ」


 よかったと。ため息が溢れた。

 リオが意識を保てていられたのはそこまでである。




「……ん」

 次に目を覚ました時。リオはアルバの腕の中にいた。

 ――ベッドの中で。

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