第18話 爆撃投稿

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『生徒会殿

 史上最悪のコンピュータウィルスである『FATAL9』を開発した。そのプロトタイプを添付したので是非とも確認願いたい。光風学園が我々の期待する水準に達していないと判断された際には、『FATAL9』に感染機能を持たせ、全世界に向けて発信するだろう。

                             ――Ndqlwvxxbxnlqr』


 一通り読み終えた誠二は呆れたように細川を見上げた。

「何だ、これ?」

「送信アドレスは偽装されていた。最初は単なる悪戯とも考えたけど、実際に添付ファイルを開いてみたらまんざらでもなかったわ」

「開いたって、お前・・・・・・!」

 怖いもの知らずというか、細川は大人しそうに見えて案外こういうことに手を出したがる。それを知っていたとはいえ、まさかウィルスと知ったファイルを自分で開けるのにはさすがに度肝を抜かれる。

「大丈夫よ。廃棄するパソコンをネットワークから隔離して開いているから」

「それでもどんなマルウェアかわからないだろ?」

 臆する様子も見せない細川の前で誠二は溜息をついた。

「単なる悪戯じゃないのか? ジェネレータみたいなツールを使えば、高校生でもコンピュータウィルスくらい作れるし」

「それを確かめる意味もあって試しに感染させてみたの」

 その結果、誠二を呼び出すまでの事態と認識したことになる。誠二もいかばかりか表情が硬くなった。

「どんなウィルスなんだ?」

「言葉で説明するより実際に見てもらった方がいいと思う」

 細川は机に置かれていたノートパソコンを起動した。確かこのパソコンはコンピュータ室で教師が生徒にプレゼンテーション資料を見せるために教卓に設置してあったものだ。ブルースクリーンのデスクトップにはそのための教材資料が無造作に散らばっている。ここまでのところ、特に異常はない。

「普通に起動するようだが?」

「そのファイルを開けてくれるかな」

 白く長い細川の指の先に書かれたデフォルト名のファイルを開くと、無秩序に並んだ数字の羅列が画面中央に展開した。見覚えのある数字かと思えば、円周率を数百桁まで計算した数字だ。

「この数字をよく覚えておいて。それから添付ファイルを開いてみればどうなるかわかるから」

 平時から円周率の数字を大体10桁まで記憶している誠二はすぐにFATAL9の実行ファイルをダブルクリックしてさっきのファイルを開く。

「なるほどな」

 円周率を現わしていた数字のうち9の数字がなくなり、代わりに1が埋め込まれていることは一目でわかった。

「他のファイルも全部、9の数字が1に変わっているの。しかも、アプリケーションソフトの種類とは無関係にね。つまり、FATAL9はあらゆる数字の9を変えるファイル改ざん型ウィルスってことよ」

「・・・・・・そういうことか」

 たかが数字の一つを変えるくらいのウィルスだが、実際にそれを作るのは容易ではない。市販ツールによる自動生成はまず不可能と言っていい。一からプログラミングを始めるにしても、OSの基本構造を熟知していなければ到底作れる代物ではない。それができる相手だからこそ、この場に誠二が呼び出されたのもうなずける。

「このウィルスは見かけ以上に危険よ」

 細川が急に真剣になる。

「たかが数字の一つを変えるくらいって思うでしょ? でもこれはものすごく危険なことよ。だって、数字を変えるウィルスが流行しているという噂が広まるだけで、企業の業績も明日の降水確率もあらゆる数字が信用できなくなるんだから。実際にウィルスに感染しているかどうかなんて関係ないわ」

「世界は数字にこだわっても、数字を疑う人間は数少ないからな。でも何で9だけなんだ? ファイルを改ざんするくらいなら、いっそ全部の数字を変えてしまうアルゴリズムの方が効率的な気もするが」

「そこがこのウィルスの厭らしいところよ。あのさ、ベアフォードの法則って知っている?」

「ランダムな数字列のうち、1の出現確率が最も多くて9の出現確率が最も少ないってやつか?」

「そう。その法則を念頭に置いて考えると、9の数字を1に変えることは、他の数字のケースを考えるよりも確率的には少ないでしょ?」

「だったら、なおさらだ。変えるとすれば、9を1にではなく、1を9に変えるべきだ。その方が被害は拡大しやすい」

「確かにそうよ。でもね、犯人の狙いはそこじゃないの」

「もったいぶらずに教えてくれ」

「このウィルスによって数字を改変される確率は決して高くないわ。でもね、その確率はゼロじゃないの。もし数字列の中に1を見つけたとして、それが改変されていない保証がどこにあると思う?」

「なるほど。実際にデータを破壊するよりも、数字に対する猜疑心を抱かせるのが目的か」

「数値データを修正しようにも、本来から1の数字とFATAL9によって改変された1なのかの見分けがつかないから復旧も難しいわよ。実際、ベアフォードの法則によれば前者の方こそ確率が高いわけだから迂闊にデータを修正するのは危険だわ」

「よく考えたな。コイツは」

 誠二は相槌を打ちながらメモ用紙に視線を落とす。差出人の名前は意味のない英文文字列。大概にハッカーはその種の文字列を好む傾向がある。それを考えるだけでも、手紙の差出人がその業界の人間であることが推察された。

「こんなウィルスをしかも、光風学園でばら撒いたらそれこそ死活問題よ」

 同情を請うかのように細川の視線が誠二を直視する。

「それで俺にコイツを何とかしろと?」

 何か目的があることは彼女の思慮深い双眸を見る前から覚悟はしていた。それでもこんな話が飛び出すことなど、さすがの誠二にも予想できようはずがなかった。

「あったり!」

 無邪気に笑って細川が手を叩いた。

「この学園でコンピュータウィルスが拡散されたなんてスキャンダルは絶対に許されないのよ。警察沙汰になる前に犯人を捕まえないと」

 細川がそう宣言するのは、単なる生徒会役員としての責務感だけではない。実は彼女はこの学園の理事長の娘であり、学園の評判は家業にとっての死活問題でもあった。ちなみにその細川と従姉弟関係にある誠二は理事長の甥にあたる。

「学園の敵はパパの敵、パパの敵は私の敵なのよ。そして、私の敵は尾上君の敵でもあるはずよ。だから協力してくれるよね? 尾上君」

「ああ、勿論だ。叔父さんには世話になっているし」

「尾上君ならそう言ってくれると思っていたよ! よかった! さすがは私の騎士様ね」

と、誠二の主は朗らかに胸を撫で下ろした。

 騎士と君主――細川は誠二との関係をその様に定義した。しかし誠二はむしろ、剣とそれを振るう騎士という関係の方が実態に沿うと考えている。剣である誠二は傷つける相手を選ばない。それは経済界のトップ官僚を目指す細川が決めることであり、誠二は自分が振り下ろされたその瞬間に備えて、ただひたすらに刃を磨き続けていればいいからだ。誰にも頼らず磨き上げた、ハッカーという名の孤高の刃を。

「しかし、手掛かりがこの手紙だけでは。犯人の目星はついているのか?」

「目星ってほどでもないけど、このメールがヒントかな」

「言っておくが、送信元メールサーバのホスト名は偽装されているから意味がないぞ」

 メールの送信元はインターネット上にあまた存在するメールサーバを中継することによって偽装は容易い。世界中を飛び回る迷惑メールでよく使われる手段だ。

「確かに、送信元メールサーバのホストは簡単に詐称できるけど、ネットワークアドレスだけは偽装できないはずよ」

 細川は得意げに答えた。

「どうだかな。この学園内でプライベートに使われているネットワークアドレスを一時的に改変したかもしれないぞ」

「その通りよ。調べた結果、このメールを送った送信元のアドレスは学園内で使われていない番号だったわ」

「だったら手詰まりじゃないか。どの端末から発信されたのか特定のしようがないぜ」

「と・こ・ろ・が! それがヒントなのよ」

「どういう意味だ?」

「いい? 私はこのアドレスが使われているかどうか、最初から知っていたわけじゃないわ。でも犯人はどうして、使われていないネットワークアドレスがどれかを知っていたのかしら?」

「学園のネットワーク構成にアクセスが可能だったから。そう言いたいのか?」

「それが可能な組織は学園で一つだけ。この学園のネットワークを監視するSCCだけよ」

「ちょっと待て。要するにSCCの中に犯人がいると? お前はそう言いたいのか?」

 確かに学校の中でも屈指の実力者が集うSCCならば、コンピュータウィルスの開発くらい能力的にも状況的にも造作がないだろうし、校内セキュリティーの実情も知り尽くしているから隠蔽も容易いだろう。だがそれは「比較的」という意味であって、一般の光風学園の生徒にも可能だ。


 木の葉の色めく秋も終盤に差し掛かり、拓人も加わった甲機部はデバッガ・ストラグルのたけなわにあった。

「皆、首都防衛大学校とのストラグル戦、お疲れ様」

健在するエクスフォールの下で、夏樹が乾杯の音頭を取った。デバッガ・ストラグル初戦の相手は防衛装備の研究者を育成する首都防衛大学校。青と白のシャープな装甲が印象的なシュナイダーⅢには風を切るような羽飾りが全身に設えられており、外見では一番人気の甲機だった。その外見からもわかる様に小回りの利く機敏な動きを得意とし、機動性ではエクスフォールを上回っていたが、それはオペレータの操作技術に見合わない過剰仕様だった。高い機動速度の割に操作性が極めて煩雑であり、オペレータの操作技術が追いつかなかったのだろう。結局、無駄の多い動きは空回りを繰り返し、エクスフォールに抑え込まれた挙句、エクス・ドライブも使わず勝利をおさめた。

「今回は、アタシの活躍だったかな」

「そうだな」

鼻高々の佑子に拓人が相槌を打った。

「でも、やっぱり山城君はすごいわ」

夏樹は感心しながら自分のコップにジュースを満たす。

「いや、俺がやりやすいのは小坂先輩のシステム環境のお陰で」

拓人が尊敬の眼差しで矢那を見遣る。

「別に、当然の事をしたまでだわ」

矢那はおっとりとした口調でポテトチップスをつまみながら謙遜した。

「それより山城君、どうしてそんなに遠くに居るの?」

「えっと」

拓人は輪になって座る甲機部からやや距離を置いていた。それは出会った頃の様に主義主張に隔たりがあるからではなく、今まで女子だけでやってきたためか、甲機部員達は特にこういった打ち上げになるとはしゃいで胸元やら足の開きのガードが緩くなる為だ。

「実はね、次の対戦相手ももう決まっているの」

和やかな雰囲気が続いたのも束の間、夏樹が切り出した。

デバッガ・ストラグルには国内の企業や大学から総勢、三十二機の甲機が参戦し、勝負はトーナメントリーグ方式で決定される。つまり、あと四機の甲機に勝利すればデバッガ・ストラグルを制覇できる。どんな相手が待ち受けているかもわからない拓人達にとって、それは遠くも近くも感じられる目標だった。

「で、相手は?」

「この国の最高学歴、王都大学の工学研究室よ。ロボット工学の第一人者にして甲機の名前はアイアン・トム。仕入れた情報によると、今度は鉄壁の防御が特長よ」

「防御だったら氷室先輩の装甲だって負けてないですよね」

「え? うん、そうだね・・・・・・」

梓は気のない返事をした。

「梓、一体どうしたの?」

「何でもないですよ。何だかんだ気を揉んでいたら、初戦の相手を倒して一気に疲れただけかもしれないです」

(そりゃそうだよな)

甲機部の中で、矢那以上に仕事の負荷が多いのは梓だった。一万を超える部品の強度やら適正荷重を全て手計算で求め、せっかく仕事を終えたのに夏樹が基本設計を変えたことで振出しに戻ってしまう。そんないじめに近い仕事を任されているのに、梓は愚痴の一つもこぼさなかった。それどころか、多忙な身にも拘らず拓人達が早急に作ってほしい部品を頼めば、工作機械を巧みに扱って快く作ってくれさえした。梓がどこで工業科にも遜色のない技能を身に着けたかは知らないが、甲機部に入ってから数か月の拓人はそんな梓の健気さに心打たれていた。

「今日は早く休んだ方がいいよ」

矢那が思いやる様に声を掛けた。

「そうですね、そうします。明日はバイトもあるし」

「シフト詰め過ぎですよ。 体壊したらどうするんですか?」

「いいの、私、とにかく働かなきゃならないし」

梓はすぐに荷物をまとめて帰宅した。こんな時くらい、自己主張してもいいものだ。やはり梓はその目からもわかる様に純粋なのだ。

「パフォーマンスには影響してないとはいえ、梓の様子は気になるわ」

「氷室先輩は無理し過ぎですよ」

思い詰める拓人とは対照的に、夏樹達はそれほど気にかけていない。

「あの子はね、家の為に働かなきゃならない理由が有るらしいの。最も、本人はそれが何なのか、詳しくは教えてくれないけど」

「他人の心配よりアンタ、はしゃぎ過ぎて風邪なんかひかないでよ」

佑子が横槍を入れた。

「俺の事は気にするなって。はしゃがないし」

拓人は梓を憂慮しながら、勝利の一夜を過ごしたのだった。


(やべえ、俺としたことが)

翌日登校した拓人は既に誰も居なくなった下駄箱を、そして廊下を疾走した。大口を叩いておきながら、昨日のツケが回って翌日遅刻する始末である。佑子のそれ見たことかと言いたいばかりの顔が思い浮かぶ。

「危ないから走るなよ」

校門を閉める教員が呑気な口調で声を掛けた。デバッガ・ストラグルに参戦しているとはいえ、その事実は一部の教員と当事者のみが知る極秘事項だ。甲機開発に携わる安全への配慮から、防護省から厳しい箝口令が敷かれている。だから拓人の日常は今まで通りと変わらない高校生活のままだった。当然、拓人の偉業も讃えられはしない。

「おっと!」

「きゃ!」

学校の廊下というのはどうしてこうも見通しが悪いのかと考えたくなる。直角の曲がり角から歩いて来た女子生徒の姿が目に映ると、拓人はそこに覆いかぶさるように転倒した。

「ごめん!」

「あのぅ、そこ退いてくれません?」

少女は面罵も悲鳴もなく、のんびりとした口調で言った。拓人は自分が彼女に対して騎上位で、両手がその胸に触れているのを知ってのけ反った。不慮の事故とはいえ、こんな所を教師に見つかれば大問題である。

「本当にすいません! 怪我はなかった?」

ぶつかったのは拓人と同じ一年生である。ライトブラウンの髪を短めのついテールにまとめて、佑子と同学年にしては胸がとにかく大きい。どの角度から見ても彼女の両胸が強烈な印象と共に視界に飛び込んでくる。厳密には胸だけでなく、ぽっちゃり体型まではいかないが、顔の輪郭も体も豊満だ。

「大丈夫よ。それよりクラスに戻ったら? 遅刻するから」

発音の一つ一つを丁寧に話す、ストレスのない話し方。少なくとも拓人に対する嫌悪感を抱いていないのは確かだ。

「そうだった、本当にごめんな!」

拓人は再び走り出すが、数歩の所で立ち止まる。

「そういえば君は?」

「わたし? 武庫川(むこがわ) 春奈(はるな)よ」

「いや、名前を聞いたんじゃなくて、ホームルーム始まるのにここに居てもいいの?」

その言葉が彼女に理解されるのに数秒のラグがあった。

「そうだった、急がなきゃ」

彼女は彼女なりに急いで教室へと駆け出すのだった。口には出さないが、あの調子では間に合いそうもない。

「何だろう、あの子」

本人は急いでいるつもりかもしれないが、拓人から見ればそれでも悠長な動きだった。拓人もまた、それを見届けたがために遅刻するのだった。


「山城拓人!」

その日の放課後、倉庫を訪れるなり佑子のがらっぱちな怒声が飛ばされた。

「あれだけ羽目を外すなって言ったでしょ!」

「俺は帰りたかったのに、お前から付き合いが悪いとかいって引き留めなかったか?」

「二人ともいい加減になさい」

遂に夏樹の制裁が加えられた。そんな騒ぎの横で矢那だけは黙々と作業を続けている。

「山城君だけが悪いとは言わないけど、もう少し自己管理に気をつけなさい」

「・・・・・・すいません」

「それと佑子、エクスフォールの機動性能について一つ聞いていいかしら?」

夏樹はクリップ留めされた書類の束を差し出した。グラフやら、線と図形の張り巡らされたネットワーク図で埋め尽くされた難しそうなその文書の正体は、どうやら先日交戦したシュナイダーⅢの仕様書だった。それは対戦相手から得た戦利品ではなく、デバッガ・ストラグルを観戦する夏樹の観察眼でまとめたものだ。あの戦いを拓人は画面の中でしか見ていないが、それだけでこれほどのデータを抜き取るとはさすがだ。

「何ですか?」

「この前の対戦相手の機動力がエクスフォールを上回っていたのは覚えてる? あの後、エクスフォールとシュナイダーⅢの駆動系に使われた部品要素を比較してみたのだけれど、主力部品のアクトロンも含めてほとんど違いはなかったわ。重量当たりの機動性能にここまで差が有ったのはなぜ?」

「アタシのレイアウトに問題があるっていうんですか?」

「それを聞いているのは私よ」

「いいじゃないですか! あんなに速度を上げたってオペレータの反応速度には限界があるんですから! 事実、それが向こうの敗因だったし」

「矢那のシステムと山城君の操縦スキルがあればもっと上を目指せるはずよ。シュナイダーⅢまでとは言わないけど、もう一度駆動系のレイアウトを検討なさい」

「速度を優先すれば確実にパワーは落ちますよ。自動車のギヤが推力と速度を両立できないのと同じです。アタシは今のエクスフォールこそ、その最適バランスを実現していると考えていますから!」

「佑子は自分の仕事に自惚れているだけよ」

夏樹はエクスフォールの傍まで歩み寄り、その鎧をそっと撫でた。

「梓の設計したこの装甲を見て。リジウム合金は非常に頑丈な物質だけど、とても重いのが難点でね、旧世代のエンジンではすぐに過負荷になってしまうわ。だから動力源として人工筋肉を使っているのよ。これはリジウム合金を使い続ける限り絶対に解決されない究極の問題。でもね、梓はそれでもエクスフォールの起動力を高めるために、エクスフォールが完成した今に至っても装甲に改良を加えている。この滑らかな曲線は、コンピュータ計算で無視されがちな空気抵抗や応力集中まで全て手の込んだ計算で考えたものよ」

「氷室先輩、忙しいのにそこまでしていたなんて」

拓人は目に見えぬ梓の努力にただ脱帽するばかりだ。

「甲機の開発は常に日進月歩よ。出来のいい物を作っても明日にはそれを上回る物が生まれている可能性だって否定できないの。そんな世界で一度作った物と自分の努力に満足して後は何もしない事がどれほど危険だと思う?」

「わかりました」

佑子は不満げな表情のまま作業に戻った。

「そういえば、氷室先輩はまだ来てないのですか?」

狭い倉庫の中だというのに、いまだ誰もそれに気づいてなかったらしい。

「そういえば、今日は甲機部に来る日よね?」

甲機部の中で一番顔を合わせる機会が少ないのは梓だった。バイトとの兼ね合いが原因らしく、その分甲機部に参加出来る日には遅くまで活動をしていた。

「確かそうよ。さっきここに来る時に校庭の方へ歩いて行くのを見たから、先に来ていると思ったんだけどね」

言い終えると矢那は再びパソコンの画面に顔を沈める。

「山城君、悪いけど探してくれないかしら。今の話で梓の意見も聞きたいわ」

「わかりました」

拓人は寒風の吹きすさぶ校庭へと梓を探しに行った。放課後が始まると同時に倉庫に駆け付けたのだが、既に日は傾きかけていた。他の部活動では大学受験を控えた三年生が引退し、戦力になりつつある一年生が活躍し始めている。考えてみればデバッガ・ストラグルがどんな形で終わるにせよ、夏樹も矢那も引退しなければならない。基本設計担当とシステムエンジニアの辞職は甲機部にとって大きな痛手となるだろう。実は夏樹もそれを見越して梓に基本設計を、拓人にシステムの引継ぎを始めている。

(俺がもっとしっかりしないとな)

拓人は一刻も早く梓を見つけようと校庭を隈なく探した。ところが梓の姿は見当たらない。校庭を一周しても見当たらなかったので、すれ違いかと思って戻ろうとした時だ。

「・・・・・・ちょっと待って下さい」

声を潜めているが、間違いなく梓の声だ。拓人はその周囲を調べて、校舎の裏側に建つ焼却炉の片隅でうずくまる梓を見つけた。

「・・・・・・それはわかります。でももう少し、考える時間を頂けないでしょうか?」

小さな手には携帯電話が握られている。秘密の電話なのか、一体電話の相手は誰だろう。

「それでは、今日の所は失礼します」

電話を切った梓が立ち上がると、拓人を見つけてその大きな目を更に丸くした。

「山城君? どうしたの?」

「先輩こそどうしたんですか? 甲機部に来ないから部長が心配していますよ。さっきの電話は何です?」

「別に、何でもないから」

しらを切ってすれ違おうとした矢先、貧血を起こした梓は華奢な身体を拓人に預けられた。

「大丈夫ですか?」

「ごめん、やっぱり私、無理しているのかな?」

「そう思います。さっきの話も、もしかしてそれに関係しているんですか?」

梓はしばらく答えに苦しんだ挙句、観念したように神妙な態度をとった。

「あの電話は、サイバーエクス社のヘッドハンティングです」

「ヘッドハンティングって・・・・・・」

「ドラマとかで聞いた事あるでしょ? 他の会社に居る優秀な技術者の引き抜きです」

「それに梓先輩が?」

「サイバーエクス社も今回のデバッガ・ストラグルには参戦しています。同時に甲機の装甲設計のノウハウが欲しくて、社員を送り込んで他の出場枠の甲機を観察させているうちにエクスフォールに目を留めたらしいのです」

「でも、先輩は俺達と甲機部で戦ってくれるんですよね?」

梓は首を縦にも横にも振らなかった。

「私ね、家が物凄い金銭債務を抱えているんです。しかも皮肉な事に、債権者はサイバーエクス社よ。お父さんが昔技術者としてそこで働いていたんですけど、開発方針をめぐって会社と一悶着あってね。結局お父さんは会社のプロジェクトに損害を与えた事で会社から賠償金を請求されたのです。もっとも、会社側も技術者のお父さんを失いたくないから、お金を払えってわけじゃなくてタダ働きなんだけど。だから、私が生活費を稼ぐしかないんです」

「それでこんなに無茶なアルバイトを?」

「もうすぐ受験も控えているので以前よりは減らしたつもりです。これでも工場の手伝いをしていた時もあったんですよ。工作機械の扱いはそこで覚えました。それで、私がサイバーエクス社の甲機開発に協力すれば債務を帳消しにするって言われました」

梓は言い終えると開き直ったように笑った。

「私なんか甲機部に居ない方がいいのかもしれません。山城君の志に比べて、お金のために甲機部で戦っているのですから。山城君もそう思うでしょ?」

何も言わない拓人の顔を梓が覗き込んだ。

「先輩がそんなお金の問題を抱えていたなんて、意外だなって思って」

「山城君、前人を見た目で判断するのはよくないです。外から見えてわかることなんて、所詮は表面的ですから」

「すいません。それでその事を知っているのは・・・・・・」

梓はかぶりを振った。

「少なくとも俺、先輩の事を悪い人だとは思いません。借金の事だって仕方のない事情だし、それに俺は先輩も含めて甲機部の皆に助けられたし。でも、優しい先輩が居なくなるのは寂しいです。出来れば先輩とこれからも甲機部で戦いたいです」

 梓の表情は一瞬戸惑ったようだった。しかしそれも束の間のうちに消えて、いつもの朗らかな笑顔に変わった。

「ありがとう。さ、戻りましょうか」

梓は無理に笑顔を作って甲機部の倉庫へと戻り、普段通りに黙々と作業を進めていた。

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