第6話
◇
グレンも家事に精通しているわけではない。
王族に仕える前はなんてことない家庭の人間だった。
その時の名残があるだけで、口出しできるほど達者だった試はない。
それでも生の野菜を齧るよりはましな夕食を終え、入浴を各々済ませ、就寝の支度に入ろうとしていた。
「ちなみに、お察しの通りなのですがベッドは一人分しかありません。昨日も、明日も、私は一人のつもりだったので」
「なら家主のお前がそっちだな」
「お断りです。だって、貴方怪我人ですし」
「ご心配なく。床で寝るのは慣れてるんで」
「存じてます。察してはいましたが、やはり水掛け論ですか。……仕方ありません、折半しましょう」
「ソファーぐらい置いとけよ」
「仕方ないでしょう……。必要だと思わなかったんですから」
不必要だというのもあるが、ものをあまり置きたくない理由はここにどれ程滞在するか自分でも分かっていないからだ。
間借りしているだけの場所に自分の痕跡を多分に残していきたくはない。
出た先で万が一があった場合のことを想定すると猶更。
そんなことないに越したことはないが、あながち遠い話でもないはずだ。
自分は戦闘に優れた人間でも先見の明があるわけでもないのだから。
レイユは微かな虚無感を感じながら濡れた頭髪を拭く。
成人した男女がいる。
どちらも風呂上がりである。
ただそれだけの状況なのだが妙に緊張してしまう自分を内心で叱咤する。
「……そういえば、貴方。髪は切られなかったんですね」
「あ?」
同様に自身の黒髪を粗雑に拭くグレンを見て、ふと気づく。
彼は死刑囚だった。
そういった人たちは髪を刈られると聞いたことがある。
だが久しぶりに見た彼の髪はむしろ前に見た時より伸びているようだった。
「そうされそうになった時もあったが、そうすると掴みにくいらしくてな。だから適当な長さにされてたんだよ」
「……そうなんですか」
「そういやあんた、さっき売り飛ばされそうとか言ってなかったか?」
「え? そんな経験ありませんよ?」
「……ふーん?」
壁際に座り込んでいたグレンがのっそりと立ち上がり、訝し気な表情のままレイユの顔を覗き込む。
「あの、グレン? 近いんですが……」
「うるせぇ」
グレンはレイユの両の頬を片手で掴み、彼女の顔を左右に動かし隅々まで視線を這わせる。
目立った傷は見受けられない。
「あんたこそ、髪なんて真っ先に切られそうなもんだが」
「……切られましたよ。ばっさりと」
「……」
グレンは手を顔から髪へと移し、微かに濡れている髪の一房を梳いた。
さらさらと垂れる髪を見ていると、少し主のことを思い出す。
グレンはレイユの髪から手を放し、壁際に追いやられているベッドまで後退した。
確かに彼女の髪は元々もう少し長かった。
歩くたびに銀糸が揺れ、銀色の髪が多いあの城の中ではひときわ儚さを抱擁した月光のようだった。
彼女のことを良く思っていない人間でも、珍しい髪色そのものには興味を持たずにはいられなかったと記憶している。
ブランもその髪を大層気に入っていた。
外に出向けば彼女に似合う髪飾りをすぐに探していたものだ。
レイユもそれを分かっていて毎日綺麗に整えていた。
当時の城内の様子が目に浮かぶ。
嫌な記憶だ。残ってる人間の方が少ない。
「……人体はどこも値打ちが付く。髪で済んで良かったじゃねぇか」
瞼を閉じ、暗闇を見ながら呟く。
「貴方こそそういう怪我は」
「あ? ねぇよ。臓器も持ってかれてねぇし、五体満足だし。まぁ連中が金に困ってるはずねぇからな。処分する手間の方が上回ったんだろ」
「……本当ですか? 嫌じゃなければ可能な限り貴方のこと、教えてくださいね」
彼女とはもう会って十年以上になる。
だがその8割以上の時間を互いに『ブランの連れ』と見なしていた。
話したことがないというわけではないが、込み入った話はあまりしていない。
直接していないだけでブランを通して互いの情報は交換してはいたが、それでも知らないことばかりだろう。
グレンは拭いていたタオルと頭部に乗せ、数秒熟考する。
話しておくべきことは話しておくべきか。だが知らなくても差し支えない話だし、可能な限り伏せて置きたい情報というのもある。
例えば、自分の弱みとか。
どうしたものか、と貧乏ゆすりをしているとぱさりとタオルの端が頭部から落ちた。
眼前でそれが揺れる。それだけで視界が塞がる。
万全だと過信され痛い目見るよりは弱点を明かしておいた方が無駄がないだろうか。
探るようにレイユをちらりと見遣ると、彼女はきょとんとさた表情で首を僅かに傾けた。
聞いてくれるようだし、話してしまおう。後からでは言い出しにくくなるかもしれない。
「実は左目と左耳がイカれてる」
「……なっ、それって――」
「――違う。もっと前からだ」
拷問紛いなことをされて持って行かれたわけではない。
その症状とはもう数年の付き合いになる。
「目は弱視で耳は飾りだ。試してみるか?」
そう言いながらグレンは左耳を指さす。心なしか挑発的に見えるのが不思議で仕方ない。
疑っているわけではないが、同行者の状態は把握しておきたい。
レイユはまんまと誘われ、ベッドに腰を下ろすグレンの左側に浅く座る。
「右は塞いでください」
「はいはい」
言われるがままにグレンは指で右耳を塞ぐ。
それを確認してからレイユは小さく口を開く。
「だ――」
「――ちなみに、その関係で多少読唇出来るんで、そっちも隠せ」
「……」
レイユはじとりと隣を見上げる。
それが今になってようやく知れたスキルだからなのか。言うのが少し遅かったからなのか。自分でもどちらか分からないが、なんだかもやっときた。
「ちなみに、『だ』つったか? なんだそれ」
「だまし討ちって言おうとしたんです」
「なんでそれ選んだ?」
再度グレンが右耳を閉じ、改めてレイユは口元を手で隠す。
塞いだとはいえ完全に聞こえなくなることはない。
普通の声量でないと比較にならないのかもしれないが、その分距離を詰めるとしよう。
レイユは少しグレンの左耳に口元を寄せる。隠したままだがそもそも角度的に見えないかもしれない。そちら側の目は弱視とも言っていた。
レイユはひっそりと呟く。
「だいすき」
数秒の静寂。数拍の沈黙。
口元から手を離したレイユの様子からグレンも耳を塞ぐ手を離した。
返答を聞きたがっている彼女にグレンは肩を竦めて返す。
何も聞こえなかった。そういう意趣。
「……難儀ですね」
「普通にしてりゃ聞こえる。だからそっち側から話しかけてしかとされたらそれ聞こえてねぇってことだから」
「覚えておきます」
「あと、当然だがそっち側が死角になってる。何と敵対するか知らねぇけど、出来るんならあんたにはそっち側でカバーを……」
言いながらグレンが言葉を切り上げ、思考するように顎に手を添える。
「……グレン? 私に出来ることは少ないけど、でも目と耳の代わりぐらいは」
「いや。あんたのことが見えない聞こえないだと困る。覚えてればいいから逆にいて」
逆側。機能していないのが左側。その逆なので右側。
今の配置はその不全を確かめるためのものだ。
グレンはそんなことを言っておきながらそのままベッドに倒れ込む。
外に出ているときの話だろうか。
確かにこの室内では死角があろうがなかろうが関係はない。敵がいないのだから補う必要がない。
左側を選んだら怒りますか。
そう聞こうとしたが、それよりも先にグレンが駄々を捏ねだした。
「やっぱ二人で寝る広さじゃなくね?」
「そうですよ。見ればわかることでしょう。でも床で寝るよりはマシですよ。床、硬いんですから」
「土足だしな」
「そうですね。お風呂上りに汚れてしまうわ」
話が尻すぼみになったあたりで、レイユも静かに腰を上げる。
電気を消してもいいかと尋ねると、さっさと消せと傍若無人な物言いをされてしまったので言われた通りさっさと照明を落とした。
大層な家ではないので明るさに段階はない。
夜目も聞かないが、多少魔法の心得はある。
指先に炎を灯しベッドまで歩み、身体を寝転がせるまえに鎮火させる。
足をベッドにあげ、落ちない程度に、邪魔にならない程度に、身を畳む。
小柄なのが幸いしたかもしれない。平均よりも大きかったら本当に二人で寝転がるのは厳しかったかもしれない。グレンはがっしりとしている方だ。
彼一人でもこのベッドは狭かっただろうか。
でも他に最善があったとは思えない。
いや。彼にこの家を預けて、自分が他の場所に転がりこめばよかったのだ。多分リリアあたりは事情を話せば了承してくれたはず。
それを提案すらしなかったのはどうしてだろう。というのは流石に白々しすぎるか。
ふぅ、と音にならない程度に息を吐き出す。
すぐそこに人の気配がある。気配どころか身体がある。
元々必要以上に広い空間で育てられた。それから独りになった。
かと思ったら今度は身じろぎすれば接触する距離に人がいる。極端すぎて目が回りそうだ。
「……そうだ。ねぇ、グレン」
「なんだよ。寝るんじゃなかったのかよ」
その割に即答が過ぎるのではないのか。
そんなこと言ってへそを曲げられてしまっては敵わないので触れずに続ける。
「一つするのを忘れてしまったお願いがあるのを思い出しました」
「お願い? なんだよ」
「極力、前の扱いをするのを控えてほしいんです」
一瞬の静寂の後「どうしてです?」と妙に改まった声で。
言った傍から、ではなく。直後だからこそ敢えて。
「何人かには話してはしまったけど、私の身分は伏せておいた方が良いんでしょう。それに、急にそんな扱いされている私を見たら驚いてしまうかもしれないので」
「やっぱり隠してるんですか?」
「隠しているというより、言う必要がないじゃない。全く。もう終わってしまった国の姫、という身分が何の役に立つのか。……嘘。普通に、嫌なの」
「……あんた、脱走したがる姫じゃなかっただろ」
「昔は別に何とも思ってなかったわ。でも、私は国のために何もできませんでした。民が宝だと言われて育ったはずなのに。だから可能ならあの身分は捨ててしまいたい。丁重に扱われる理由が……私にはもう何もありません」
「だからぞんざいに扱われたいって?」
それに抵抗なく頷けるほど心が枯れていれば良かったのに。
「……普通で、お願いしたいわ」
もう手元に何も残っていないのに死を望まないのは生かされた身だからというのもあるが、何もくべていないのに煮えくり返った腸があるからだ。
だが、それが何に向いているのかは自分でもよく分かっていない。
両親に他国へ送り込まれたことなのか。
祖国が滅ぼされたことなのか。
自分なんかのために死地に向かった婚約者になのか。
止めずに見送った自分になのか。
彼を含めた第二の故郷さえ終わってしまったことになのか。
分からない。
不可侵条約がありながら進行してきたどこぞの大国になのか。
滅ぼす以外の選択肢を用意しなかった顔も知らない誰かになのか。
前触れもなく呪いをぶちこんできたことになのか。
無力で何もできないと自信を責めたがらない自分になのか。
矛先は行方知らずのままだ。
でも自分にはそれらのことしかない。
祖国と。嫁いだ国と。元凶の呪いと。
婚約者と。
その影武者と。
自分の生きる理由はそれぐらいしかない。
どれもこれも原型をとどめていないが、それでも自分にはそれしかない。
どろどろに溶けようと、目も当てられない汚物になろうと。
自分の手に残るのはそれだけだ。
あったはずのものがなくなった。
私は奪われた側なのだと、主張するのは天罰が下るだろうか。
指をくわえるまでもなく敵前逃亡した自分にそんなことを言い張る権利はないのだろうか。
ないのかもしれない。
足掻くことをしなかった自分にはないのかもしれない。
だがそんなことを言われたって鵜呑みにはできない。
聖人君子だった覚えはない。
されたことをやり返したいと思うぐらいの愚昧なんだから悪逆非道に足を突っ込んでいる。
それでも怒りたいのだ。
失ったものを奪還する権利ぐらい主張したい。
だから、人並みに扱ってほしい。
認識の奴隷になる気はない。
人でありたい。綺麗じゃなくてもいいから、人の体を保っていたい。
だから人並みの扱いはまだされたい。
だから普通に扱ってほしい。
落ちぶれた思考なんだろうか。
でも、問答無用で殺戮を敢行した人間がいるのだから許されたって良いだろう。
そんなの不平等は許せない。
「理解はした。だが了承はしない」
「理由は?」
「俺が『姫』扱いしたい。そんだけだ」
「……その言い方だと、趣味趣向に聞こえるのだけれど」
「まぁ半分そうかもな。俺はあんたとあの馬鹿にずっと仕えるもんだと思ってたから、こっちとしても急に扱いを変えろと言われても、困る」
「貴方、今の私の扱い方に自覚ないんですか?」
偶に前と同じ扱いの片鱗を感じるが、大半が壁のない扱い方をされている。
それでいいのだが、そっちを例外だと彼本人が言うのはなんだか違うような。
別に、気にはしないが。
「それにしても『あの馬鹿』って」
「なんだよ」
「いえ……。前々から思っていたんですが、貴方方仲良いですよね」
「あぁ?」
訝しげな声を背に、レイユは目を閉じる。
背後のこの人はそれを素直に認めるような性格はしていないので返答は待つだけ無駄になる。
自分にとって優先される思い出は異国の城内でのことだ。
ブランがいて、その横に居ることを許された自分がいて。
彼の数歩後ろにその護衛がいて。
寡黙なその護衛は自分たちの談笑に口を挟んでくることはなかった。表情を一切崩さず、いもしない敵に常ににらみを利かせているようだった。
何も言われたことはないが声をかけてはいけないものだと当初は思い込んでいた。
だがブランはいともたやすく彼に声をかけていた。
彼が主であるというのもあっただろうが、それ以前に彼らはまるで旧友のようだった。長い付き合いではないとのことなので、旧友ではなく親友という表現の方が適切かもしれないが。否、悪友だったかもしれない。
売り言葉に買い言葉。
同調し増長する冗談。
指示語を介した相談。
二人の間にはとてもじゃないが入っていけなかった。
「普段、どんな話をしていたんです?」
「あいつのする話なんて大半があんたのことだったな。ご存じの通り、あいつはあんたに惚れ込んでたんだよ」
「……そこだけは変な人だったなって思ってます」
「おかげで要らねぇことまで聞かされた。あいつは多分あんたのことを何でも知ってたよ。あんたの好物とか、あんたの趣味とか」
趣味? 自分の?
そんなものあったっけ。
書籍を読むのは好きだが、愛読家と比べれば大した量は読んでいない。
あとは心当たりがあるものと言えばパズルだが、どちらも一人で取り組めるものだから好んでいただけだ。
でも確かに、そのめり込んでいた節はあるかもしれない。
なるほど。趣味か。
「あと、あんたが良く行く場所とか」
場所。
その心当たりはないが、確かあの人はバルコニーが好きだった。
その場所でよく夜空を見上げていた。妙に絵になる光景だった。
「あとは、あんたが自分に気がないこととか」
「……」
咄嗟なことでどう思うのが正解なのか分からない。
多分知られてはいけないことだった。
悟らせてもいけない。
それがあろうことか本人に気付かれていたなんて。
でも、驚きで芯まで冷えないのはどこかで気付かれているであろうことに気付いていたからだ。
それぐらい彼は自分のことを真摯に見つめてくれる人だった。
「……その気が、何処に向いていたのかもブラン様はお気づきでしょうか」
「……さぁ? ……なんで俺なんかに無駄にあんたの話をしたのはなんだったんだろうな」
どうしてでしょうね、と返す他ない。
濁したのは察している段階だからなのか、敢えてなのか。
この人の腹の内まではさっぱり分からない。
でも曲がりなりにもブランのことは分かる。ずっと見てきたのだ。
だから分かってしまう。
これはあの人なりの助力だ。
変な人。
どこに婚約者の恋路の力添えをする人がいるというのだ。こちらは力で言いなりにされても文句は言えない立場なのに。
でも、そうか。
……なんだ。そうか。
この人の耳にも入っていたのか。
それでいてこの返答なのだから、行く末は見えたようなものだ。
いや、分かり切っていたことだ。
彼は死んでも主を尊重し続ける。
だから。
振り向いてくれるとは思っていない。
こちらを見つめてくれるとも思っていない。
だから傍らにいてくれることを選ぶとさえ思っていなかった。
それが覆された今、それ以上は求めない。
変わらず、私の心は祖国の奪還にある。
それでいい。
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