第4話
◇
脈拍や傷の確認が済むと、アンジーは部屋の奥を指さして「シャワーを浴びてこい」と告げた。
長らく清潔感とは無縁の生活を強いられていた。
水をぶっ掛けられることは度々あったが、もちろん綺麗なものではない。
傷口に水がしみるのか。それとも動いたせいで痛めた箇所が悲鳴を上げているのか。
どちらなのか、あるいは両方なのか自分でももうよく分からない状態だ。
少し水温を上げ、シャワーの水を頭からかぶる。
きしんでいた髪から癖が抜けていく。
鏡に映る自分の顔から汚れが落ちていく。
自分が綺麗なものになっていく。
それに抵抗があり、濯いですぐに水を止めた。
浴室から出ると、入口に服が置いてあった。
入る前に出たらその服に着替えてくれと言われていた。着ていた服は後で捨てるしかない。形として残しておくと追手に見つかるかもしれない。痕跡を消すためにも燃やすのが無難だろうか。
用意された服に袖を通し彼らがいる部屋に戻ると、アンジーが少し首を傾げた。
「うーん。それ、大きくて私じゃ着れないものなんだけど、少し小さかったかい? 」
「まぁ、少し」
丈と裾が少しだけ短いが、動く分にも着る分にも問題はない。
「ちなみに、これは何の服なんだ?」
上はストレッチの効く服で、下は遊びのあるズボン。
動きやすさを重視しているらしく、デザイン性はない。どちらも無地だ。
ついでに上着まで用意されていたのだがアンジーのセンスなのか、これまで含めて一式なのか。
「私が着せられてた戦闘服だね」
「着せられてたって、サイズ違うんだろ?」
「違うね。だから『着せられてた』んだって。これでも着とけってことさ」
「ふーん。というか、軍人だったのか」
「言い得て妙かな。でも似たようなものだよ」
その割には線が細い気がするのだが。
前線を退いて大分経つのだろうか。
気になるところはあるが、今聞くべきことは他にある。
「ここまでしてもらっているのにさらに聞くのは気が引けるが、頼みがある。一生の頼みでもいい」
「一生か。でかく出たね。どうする? リギィ。聞くかい?」
「あ? そういうの覚えてらんねぇから無し。普通の頼みなら聞くぜ」
先程と変わらずベッドに寝転がったままのリギィがだれた口調で続ける。
「で? 何が聞きたいって? 見ての通り暇してんだよ。時間潰させてくれ」
これもあの人の根回しだったりするんだろうか。
あの人がここに来た時はきっと単騎だっただろうに。
「姫様の同行を知りたい。この先何かをしようとしてはないか? 例えば」
「――例えば祖国を助けようとしてる、とか? おー、お前冴えてんな」
やはりか。
「あの姫サマは国を何とかしようとして、最近までずっと兵力を集めてたんだよ。牢獄にぶち込まれてたお前は知らないだろうけどな、軍事国家の兵器とか盗んでるんだぜ?」
「……」
「んで。そろそろいっかってなって、国のこと始めようとした矢先にお前の執行が決まったんだよ」
「………」
無視しておけばよかったものを。
どちらの国もなくなり、もはや自分たちを繋ぐものは何もない。
自分が消えたところで悲しむ人間もいないと思っていたのだが。
残された縁ある人間は自分で最後だと彼女は言っていた。
それは嘘だ。
人間性が残っているかを不問とした場合、彼女の『身内』はまだ祖国に残っている。
本当に『最後』なのは自分の方だ。
グレンはゆったりと立ち上がる。
「あれ? どこかに行っちゃうの?」
出した薬品類を棚に片付けるその手を止めながらアンジーが微かに首を傾げる。
「齧っただけで医者じゃないからドクターストップなんて言わないけど、でも君、今の状態酷いよ?」
自覚はある。
斬りつけられた日もあったし、縛られて擦られた日もあるし、焼かれた日もある。
自分はただの人間だ。そんなことされては堪ったものではない。
よく今日まで持ったものだ。
アンジーはリギィのいないベッドに腰を下ろし、諦めた素振りで足を組む。
「止められそうにないね。でも、何をしに行くのかは聞いてもいいだろう?」
可能なら自分だって何もしたくはない。そんな体を引きずって行ったところで、出来ることなんて数少ない。
今日終わったはずの命だ。動き回ったら追手に見つかって短い寿命がさらに縮む。
大事にしたい命ではないが、捨てられる命でもない。助けたのは他でもない彼女だ。
今は亡き主が心底大事にしていた彼女だ。
彼女の全てを無下にすることを自分は選べない。それは亡き主への冒涜だ。
その彼女を見捨てることも自分にはできない。
そんなことをしてはあの世で主に合わせる顔がない。顔を合わせて謝罪しなければならないのに。
そして言うまでもなく彼女を死なせることは許されない。
主はきっとそういう場面に陥ったら彼女のことは身を挺して守ったはずだ。あの人がそれを望むのなら自分の意志もそれと同じで構わない。
既に順番を違えてしまった。本当なら自分が先に死ぬべきなのに。それをさらに覆すわけにはいかない。
レイユが祖国のために奮闘しようというのなら、自分の目的もそれと同じになる。
「姫の先回りをする」
あの国がどうなっているのかはもう分からない。
自分は彼女の国が落ちたその後の様子を知らない。
だが呪いに侵略された国だ。
原型がどこまで残っていることか。
可能なら、あの人の行く手を遮るものをどかしておきたい。
グレンはそのままその部屋を出た。
ドアを閉め、階段を降り、現実を見つめ直す。
冷静になるまでもないことだったが、今の自分は身軽すぎる。
金銭はもちろん、武器すらない。
この街で物資の調達が可能なのか聞いたら答えてくれたであろう二人だが、そもそも金銭がない。購入することはできない。
道中で劣化した剣の一本でも拾えればいいのだが。
戦場跡地にでも向かえば残骸があるだろうか。あまり推奨される行為ではないだろうが、仕方ない。また地獄が遠のく。
だがここに長いもしたくはない。
レイユと顔を合わせたくないというのもそうだが、もし追手が来たら対抗手段がないというのもある。
レイユが世界でどういう扱いを受けているのかはグレンには不明瞭な箇所が多い。
だが、ブランが殺され、国王夫妻も首を落とされている。
彼女の両親の生死は分からないが、彼女の立場をどちらにおいても世界はきっと歓迎はしない。
そんな彼女の近くに追手を呼び寄せてしまうのは悪手だ。
さっさと離れよう。
来た道を戻る。その道しか知らない。
この街で初めて足を踏み入れた場所まで戻ると、見知った銀髪がそこに居た。
無視して通り過ぎるという選択肢もあった。
だが目が合ってしまったので足を止めた。
「グレン」
こんな街でも彼女の声は澄んで聞こえる。
レイユは小ぶりな足で静かに歩み寄ってきた。
「用はないって話じゃなかったか?」
「なかったんですが、一つだけ。どうしても」
レイユは背に隠していたそれを取り出した。
彼女の手には小さな箱が握られていた。
形は正方形で、大きさは彼女の手のひらサイズ。
見える側面の全ての中央に切り込みが入っており、そこで開閉できるのだろうと察するのは容易い。
「これを貴方に返さなければいけないと思って待ってました」
静かに差し出し続ける彼女の前に手を出すと、その箱をそっとこちらの手の上に乗せた。小さく見えていた箱が猶更小さく見える。
それを片手で開けると、中には一つの装飾品が入っていた。
指輪だった。
初めはそれ以上のことは分からなかったが、すぐにそれが誰の何の指輪なのか気付く。
上下の縁が金色のこの造りはブランとレイユの婚約指輪だ。
「こいつは」
あんたのじゃないのか。
そう聞くよりも前にレイユは胸元に隠していたネックレスを取り出した。
チェーンに指輪が一つ通されており、その指輪は銀と金の二色で出来ている。色の分け方は今手元にある指輪と同じだ。
まさか。
グレンは指輪を取り出し、指の腹にあたる部分を確認する。
そこには赤い宝石が埋め込まれていた。
このペアの指輪は女性側に青い宝石が、男性側に赤い宝石があてがわれている。
男女なら逆の配色だが、ブランは彼女が青を身に着けるのを大層気に入っていた。
渡されたこの指輪はブランのものだ。
「なら、あんたが持っとくべきだろ。その方があいつも喜ぶ」
突き返そうとするが、レイユは目を伏せて静かに首を横に振る。
「内側を見て頂けますか」
彼女があまりにも頑なな表情をしているのでグレンは仕方なくしまった指輪をまた取り出し、彼女の言う個所を見る。
そこには文字が彫られていた。
from B.
B――Bulan.
ブランから。
「……」
この指輪はブランの指輪だ。
ブランの指輪にブランの名前が彫られている。
物に自分の名前を彫る行為そのものは珍しくはないが、こういった代物に刻むのはそういうものではないだろう。しかも、『from』では送り主の名前を示すものになってしまう。
「私の分はありますから、貴方の分でしょうね。用途に心当たりもありますよね?」
「……」
ある。
自分はブランの護衛であり影武者であった。
だが陽光の色をした主と違い、自分の髪は影の色をしている。どう見たって擬態できる色ではない。
影武者になるためには魔法を用いる。
相手と同じ姿になる魔法で自分は主の陰になれる。
その魔法は長時間使用することを見越して記憶した道具も用意する。
そのための手段は本来自分に預けられているものだが、長らくずっとブランに取り上げられていた。
自力でも短時間であれば使えるので催促しなかった。
一度したことがあるが剣を交えるほどの喧嘩となったので二度と言わないようにした。
「……これを、なんであんたが持ってるんですか」
「『あの日』、ブラン様に渡されたんです。私の国のことは関係ないから出る必要はないと言ったら預けられました。大事なものだから次会う時に絶対に返してほしい、と」
それを生きて帰る約束にして、彼女を納得させたのだろう。
「……それがあったら、今武器を持っていない貴方も武装できるでしょう」
影武者の姿を使えば、ブランが愛用していた剣まで顕現できる。
自分がかつて使っていた剣はブランの剣より重いが、丸腰よりはずっといい。
間違いなく自分の身は指名手配だ。
「私が出来ることは本当にこれが最後です」
姫は頭のてっぺんが見える程頭を下げると、グレンの横を通り過ぎ街の中へ向かおうとした。すれ違いざまにその腕を掴む。
「……グレン?」
「……自業自得ですよ。こんなもん、渡すから」
「え?」
振り払われないことを確認したグレンは手を放し、その場に静かに傅く。
「後生の頼みです。私の二度目の人生を姫様に使わせてください。ブランのこの遺品を引き継ぐ以上、私は彼の本懐を遂げなければなりません」
「……本懐、ですか」
「えぇ、そうです。ブランの心残りは貴方を最期まで守れなかったことでしょうから」
「……それは言いすぎですよ」
「本当にそうお思いですか?」
跪いたまま下から彼女を強く見上げると、彼女は伏せ目がちに視線を反らす。
心当たりはあるはずだ。
ブランはそういう態度を隠すような奴ではなかった。
「だとしても、もう貴方の人生は貴方のものですから。私に使う必要はありませんよ」
「そうだとしても、私の命は貴方に使われるべきものです。剣にも盾にもなります。それとも姫様の目的を果たす過程で私は役に立ちませんか?」
「そんなことは、ありませんが……」
後ろめたい表情が強気の表情に変わる。
「私はもう手を汚しました。守るだけの価値はありません」
「俺の手はもうそれ以上に汚れてますけどね。汚い奴に寄られるのは嫌ですか」
はは、と気の抜けたような声で姫が小さく笑う。
「本当に。ああ言えばこう言うんですから。貴方は何も変わらないんですね」
「まぁ。俺の生意気は生粋なんで」
グレンの不遜な態度に姫の表情がさらに緩まる。
憑き物でも落ちたような少女の表情で姫はグレンの前に座り込む。
「なら、一生に一度のお願いです」
レイユは地に付けられたグレンの拳を具ロープに包まれた両手で救い上げ、祈るように顔の前まで持ち上げる。
「貴方のその力を、私に貸してください」
姫の御前で跪いたまま、グレンはさらに頭部を下げる。
「仰せの通りに」
言いながら目を閉じる。
彼女は前の主とは違い戦える人間ではない。動くのは自分だ。
自分が動かなければ、彼女が死ぬ。
それを深く深く肝に銘じつつ、「ったく」と悪態をつきながらグレンは握ってきた手を振りほどきながら立ち上がった。
「さっさとそう言えってんだよ。まどろっこしい」
「えっ。どうして私が悪いみたいな言い方なんですか。お互い様じゃありませんでした?」
「あー。もう忘れた」
「まったく、もう」
レイユはスカートの裾を叩きながら立ち上がる。
「ということは、私の目的をご存じだと思っていいんですか?」
「ご存じも何も、あんたに残ったのはもう国しかねぇだろ。解呪の方法は?」
「そのあたりの話をするなら場所を変えましょう。……あれ? グレン、家って」
「昨日までの寝床は牢獄だったな。そこに帰るにはちょっと距離あるんで、暫くは適当に野宿でもしときます」
野営をするための道具もないが、一晩ぐらい火の用意があれば越せるだろう。幸いこの街近辺は寒冷地帯ではなさそうだ。
「野営って。良かったら私の家、来ますか?」
「良かったらって、何も良くねぇだろ。何言ってんのか分かってんのか」
「……分かってませんって言ったら、教えてくれるんですか?」
「……」
「嘘です、分かってますよ。……でも、いいんじゃないですか、万が一があっても。貴方はもちろん、私ももう子供じゃないんですから」
それに対して、説教すべきだっただろうか。
ブランなら自分を大事にしろ、と言っただろうか。彼の人生を続きを歩こうとしているのならそれも自分の役目なんだろうか。
だが、そんな自暴自棄が言いたくなる気持ちも分からなくはない。
「話の続きもあるしな。そこまで言うなら世話になってやる」
「言っといてなんですが、私も貴方ほどじゃないですけど金銭的余裕はありませんので、素敵な場所でなくても怒らないでくださいね」
「雨風が凌げれば、まぁ」
「では行きましょうか。あ。でもこの場でしか出来ないこともあります。同行していただけるとのことなら紹介させてください」
レイユはそう言いながら、左手のグローブを外す。
その手は指先まで黒く染まっていた。おそらく長い袖の下も同色で、もしかしたらどうの一部まで染まりあがっているかもしれない。
その黒がするするとほどけていき、彼女の横に巨大な影を作り上げる。
ずんぐりとした体に、長く太い尻尾。そして幅広い翼。
その影は形を成すと着色されていく。その姿は自分をこの街まで運んできたあの飛竜だった。
動けるようになるや否や飛竜はグレンの横までのしのしと歩み寄り、その顔をグレンに寄せた。
どうやら匂いをかがれているらしい。
顔の大きさはとてもじゃないが人の比ではない。口の大きさもそうだ。
その口が開かれれば自分の頭部ぐらい丸呑みできるのだろう。
そういえば飛竜は人を喰らう種族だっただろうか。
すんすん、と鼻息を鳴らしグレンの匂いを嗅いでいたその飛竜は次の行動としてその頭部をこちらに押し付けてきた。
重量ももちろん人の比ではない。グレンの体なんかはすぐに押しのけられてしまう。
だがされるがままにされるのは性に合わない。グレンは押してくる飛竜の頭部に手を当て、ぐぐっと押し返す。
「メルクー」
レイユの声に飛竜は表情を綻ばせて、のしのしと四本の足で駆け寄る。
そして自分にしたように頭部をレイユの頭に摺り寄せる。
そういうじゃれ方をする個体らしい。
「グレン。この子はメルクー。人懐っこい子なんだけど、じゃれる時の力加減がまだちょっと苦手みたいだから押し倒されないように気を付けて」
確かにメルクー本人に危害を加えるつもりがなくても、あの前足で乗りかかられたらただじゃすまなそうだ。
「メルクー」
レイユが呼びかけると飛竜はその場に座り、長い首を傾げる。
落ち着いて改めて見ると、存外つぶらな瞳をしている。成体の飛竜を見た機会は数回しかないが、もっと獰猛な目をしていたはず。彼女が連れているのは幼体なのだろうか。
レイユが両手を前に出すと、クルルと高い声で鳴きながらメルク―はそこに収まるように顔を動かす。収まったその顔に彼女は自身の額をぴとり、とくっつける。
「あの人はグレン。……私の大切な人よ。だから、貴方も仲良くしてくれると嬉しいわ」
「……その飛竜、何処で拾ってきた。そこらに落ちてるもんじゃねぇだろ」
「前に売り飛ばされそうになった時ですね。この子もそこに居たんです。ねー?」
呼びかけに飛竜はまたクルルと鳴く。心なしかご機嫌に見える。
「待て今売り飛ばされそうになったつったか?」
「もう忘れました。――さて先程の話通り、場所、変えましょうか」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます