第11話 ウィルヘルミナ(オランダ王国:在位1890.11.23~1948.9.4)
20世紀前半。
今回取り上げる、オランダ王国のウィルヘルミナ女王は、そんな動乱の時代を生き、ナチスドイツの侵攻と戦った女王です。
彼女のフルネームはウィルヘルミナ(ヴィルヘルミナ)=ヘレナ=パウリーネ=マリア=ファン=オラニエ=ナッサウ。オランダ国王ウィレム三世(1817~1890)と後妻である王妃エンマ(1858~1934)の長女として、1880年に生まれました。
ウィレム三世には先妻との間の子も含め、何人か男児はいたのですが、皆若くして亡くなるなどして、後継者候補はウィルヘルミナのみとなります。そして、ウィルヘルミナが10歳の時にウィレム三世も崩御し、母親エンマ妃の摂政の
即位から5年後の1895年、15歳のウィルヘルミナは
その時のヴィクトリア女王によるウィルヘルミナ評は、「優雅で聡明、英語も上手く礼儀正しい」というものでした。社交辞令、と言ってしまえばそれまでですが、好印象を与える少女ではあったのでしょう。
英国女王はその3年後、成人して親政を開始するウィルヘルミナに対し、ロイヤル・ヴィクトリア・アンド・アルバート勲章を授与しています。
そのさらに3年後の1901年には、彼女はドイツ北部メクレンブルク=シュヴェリーン大公国出身のハインリヒ=ツー=メクレンブルク(オランダ語では「ヘンドリック=ファン=メクレンブルフ」。1876~1934)を
結婚したウィルヘルミナは、しかし、あまり子宝には恵まれせんでした。死産・流産を繰り返し、無事生まれて成長したのはユリアナ王女(1909~2004)のみ。ただ不幸中の幸いというべきか、この唯一の跡継ぎは、生没年をご覧いただけばおわかりのように健康と長寿に恵まれ、母王からオランダの未来を託されることになります。
さて、1914年6月28日、当時オーストリア領だったサラエボ(現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)で大事件が起きます。オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子・フランツ=フェルディナント大公(1863~1914)とその妻ゾフィーが、民族主義者の青年に暗殺されたのです。
この「サラエボ事件」をきっかけに、第一次世界大戦が勃発するのは皆様ご存じの通り。
ヨーロッパ全土、さらに世界各国を巻き込む大動乱の中、ウィルヘルミナが治めるオランダ王国は中立を保ちます。
この時期のエピソードとして、彼女がドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世(1859~1941)と会談した時の話が伝わっています。
第一次大戦が始まる前に行われた会談において、ドイツ皇帝はオランダ女王に対し、「自分の護衛は身長2メートルもあるが、それにひきかえあなたの護衛は肩の高さほどしかない」とマウントを取ろうとしました。子供か!
それに対してウィルヘルミナは、「おっしゃる通りです。しかし、我が国が堤防の水門を開けば、水深は3メートルになるのですよ」と切り返したそうです。
この彼女の
ただ、連合国によるドイツへの経済封鎖には巻き込まれてしまうことになり、貿易立国であるオランダは大打撃をこうむることになります。
また、大戦に敗北し革命が起きたドイツから亡命してきたヴィルヘルム二世を受け入れたことも、連合国からの非難を浴びることとなりました。
戦火こそ
はい、さらっと書きましたけど何かおかしいですね。
投資でがっぽり稼いで億万長者になって、国家経済も立て直した? もしかして逆行転生者の方ですか?
こんなの小説に書いた日には、ご都合主義にも程があると炎上不可避なんですが。
まさに「史実は小説より奇なり」を地で行く女王様です。
さて一方、ウィルヘルミナはオランダ経済を立て直すかたわら、ユリアナ王女の婿探しにも奔走します。プロテスタントであることが必須条件だったこともあって、婿探しは難航しますが、最終的にはドイツ・リッペ侯国出身のベルンハルト=ファン=リッペ=ビーステルフェルト(1911~2004)を迎えることとなりました。
こうした平穏、ではないにせよ平和な日々は、しかし皆様ご存じのあの男によって破られます。1939年9月、アドルフ=ヒトラー(1889~1945)率いるナチスドイツのポーランド侵攻をきっかけに、第二次世界大戦が勃発するのです。
今回も中立を保つつもりだったウィルヘルミナですが、なにしろ相手はナチスドイツですからね。
1940年5月10日、ナチスドイツは、オランダを含むベネルクス三国およびフランスに対し、宣戦布告もなしに侵攻を開始します。飛行場への爆撃および主要都市への降下作戦により、オランダ王国は国土の大部分を占領されてしまいました。
しかし、オランダ軍の抵抗により国土の完全制圧は
英国の介入を恐れたヒトラーは、ロッテルダムを空爆。さらにアムステルダムをはじめとする主要都市に対しても空爆を仕掛けると脅し、女王に降伏を迫ります。
初動で制空権を奪われ、空爆に対してはなすすべもないオランダ政府は、やむなく降伏を決意。
しかし、ウィルヘルミナ自身は英国へ亡命する
女王捕縛の命を受けたドイツの機動部隊が王宮に殺到するわずか30分前に、辛くも逃げ延びた彼女は、5月13日、英国の駆逐艦ヘレワードに乗り込み、英国への亡命を果たします。
この亡命についてはおおむね、我が身可愛さゆえの逃亡ではなく、あくまでナチスドイツへの抵抗を続けるための退避、という受け止め方がなされているようです。
ロンドンに亡命政権を樹立したウィルヘルミナは、「ラジオ・オラニエ」と題するラジオ放送を通じてオランダ国民を鼓舞し、レジスタンスの精神的支えとなります。
ここで想像をたくましくするなら、ウィルヘルミナ抹殺を狙うナチスの暗殺部隊と、英国保安局(通称
ちなみに、
それはさておき、英国はじめ連合国の庇護を受けることとなったウィルヘルミナですが、その一方で、ドイツ占領下のオランダの都市ナイメーヘンへの米空軍による空爆などに対して抗議して、煙たがられもしたようです。
オランダ国民の生命を第一に考える女王と、ナチスドイツに対する勝利を第一に考える連合軍との立場の違いですが、彼女としても苦労が絶えなかったことでしょう。
その後、1944年6月のノルマンディー作戦の成功を契機に、連合軍の反攻が始まり、8月25日にはパリ、9月4日にはアントワープが解放されます。
英国は9月5日に女王のオランダへの帰国を許可、併せてガーター勲章の授与も決定され、同月24日、英国王ジョージ六世(1895~1952)夫妻との会食の際、同勲章が授与されました。
そしてウィルヘルミナは晴れて祖国に帰国し、1945年5月8日にはドイツが降伏、欧州戦線は終結を迎えます。
ただ、祖国を開放して万々歳かというと、そう何もかも上手くいくわけではなく、1945年8月17日には植民地だったインドネシアが独立を宣言、独立戦争が勃発します。
第二次大戦後の植民地独立ラッシュの機運の中、国際世論はオランダに味方せず、また、インドネシアから得られていた石油等の資源が絶たれてしまうことも大きな痛手となりました。
まあ、インドネシアの立場からすれば、さんざん搾取してきておいて既得権益を失ったからって不幸ぶってんじゃねえ、ということにはなるのでしょうが。
様々な心労が重なって、心身ともに疲弊したウィルヘルミナは退位を決意し、1948年9月4日、愛娘のユリアナに王位を譲ります。
母からバトンを託されたユリアナ女王の
ウィルヘルミナが苦心して見つけてきた王配・ベルンハルトは、1976年のロッキード事件において、ロッキード社から
世の中、ままならないものですね。
もっとも、不幸中の幸い、と言っていいかどうかはわかりませんが、ウィルヘルミナはそんなことになるとは知らぬまま、1962年11月28日、82年の波乱の生涯の幕を閉じたのでした。
さて、次回は近代ヨーロッパからいきなり古代エジプトへ。男装の女性ファラオ・ハトシェプストの登場です。乞うご期待!
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ウィルヘルミナが放送した「ラジオ・オラニエ」。それがもしアニラジのノリだったら……という、各方面にごめんなさい企画がこちら。『ウィルヘルミナのラジオ☆オラニエ ~海の向こうからこんばんオラニエ☆~』です。おバカな作品ですがどうぞよろしく^^
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