第36話 時の守護者、あるいはティンダロスの猟犬:三題噺#109「使者」「横顔」「真似」

 大学二年生の上戸宗也うえと・そうやは、夏休みゆえに暇を持て余していた。

 大学の夏休みは途方もなく長い。二か月近くあるのだから、小学生たちの比ではない。しかも今年は、昨年を上回るほどの猛暑である。バイトに精を出したり、何処かに遊びに行ったりする気力すらも、汗と共に蒸発してしまっていた。

 だからこそ、宗也は家でダラダラしたり、読書やネットサーフィンに耽ったりして時間を過ごしていた。時折ガールフレンドの寺田涼子てらだ・りょうこが遊びに来るのが、自堕落な暮らしの刺激になっていただろうか。

 もっとも、涼子もそう頻繁に遊びに来るわけでもない。彼女は宗也と異なり多忙だったためだ。何故忙しいのか、宗也は解らなかったが。

 だからという訳ではないが、宗也はたまたま視聴した動画にある事を実行しようと思い立ってしまった。

 それは――過去を視るという術だった。

 無論実際に出来るなどとは思っていない。ただ、暇つぶしの種にはなるだろうと思った程度だ。


 結局のところ、過去を視るという試みに成功した。してしまったと言った方が正しいかもしれない。動画に示された手順を段階的に実施しているうちに、眼前に広がる光景が変化していったのだ。薬物による幻覚などでは無い。煙草は吸ったが薬物の力は借りていないのだから。それに宗也が煙草を吸っていたのは、過去視の手順云々とは無関係の話だ。

 端的に言えば、目覚めながら白昼夢を見ているような感覚だった。一人暮らしのアパートの一室がみるみる変容し、アパートが建つ前の田園風景なども目の当たりにした。それどころか、山や森だった頃の光景も目の当たりにしたのだ。

 だが――過去視の最後の部分で、宗也は奇妙な物を見た。それは青黒くて細長い、犬のようなものだった。全体のシルエットで犬だと思ったが、実際には犬では無いのかもしれない。どこもかしこも尖っていた。などは、犬というよりもむしろワニに似ていた。

 そいつが鼻面を揺らしながらこちらを振り仰いだところで、宗也の意識は現在に戻った。冷房を効かせたはずの部屋の中で、彼は汗だくになっていた。


「鋭角の猟犬に目を付けられたのね」


 六日ぶりに会った寺田涼子は、宗也を見るなりこう言った。過去視を行ってからというもの、宗也は奇妙な悪夢に囚われていた。最後に見た青黒い犬が、自分を喰い殺さんと迫って来る夢だ。しかも最初は逃げおおせる事が出来たのに、段々と犬は近付いてきている。夏の暑さと相まって、宗也は精神的に疲弊していた。

 ガールフレンドの涼子は、宗也がやつれている事に目ざとく気付いた。心配しているという言葉の許に問いただされ、宗也は事のあらましを白状した。

 鋭角の猟犬は宗也も知っている。手慰みに読んだ本の中に記されていたためだ。確か時間に干渉するモノがいたら、そいつを喰い殺すという貪婪な異形だったはずだ。

 宗也の言葉に涼子は頷き、更に解説を付け加えた。


「――鋭角の猟犬はね、時間の守護者であり使でもあるの。だからこそ、時間に干渉した相手を喰い殺さないといけないのよ。獣は縄張りを侵される事を忌み嫌うでしょう?」


 解説というには、涼子の言葉は何処か断定的だった。宗也は気にしなかったし気付きもしなかったが。


「涼子。どうすれば鋭角の猟犬から逃れられるんだ?」

「鋭角の無い場所ならば、鋭角の猟犬が入り込む事は出来ないわ。厳密に言えば、百二十度以下の角度があれば、彼らは入り込む事が出来るの」


 だから部屋の角を何かで埋めれば良いのよ。青みがかったメッシュの入った髪を揺らしながら涼子は笑った。大学生がつけるにはやや大人びた香水の匂いが、涼子の身体から立ち上っていた。


「入り込めないと解ったら、彼らも諦めるわ。宗也が追跡されてから五日目だから、あと二日耐えれば大丈夫よ。念のために、私以外のヒトは入れないようにした方が良いかもね。彼らは人のすら出来るんだから」


 解ったよ。頷きながら、宗也は涙が溢れそうになった。荒唐無稽な話を信じ、尚且つアドバイスをしてくれるなんて。涼子は本当によくできた彼女だ、と。


 悪夢を見て七日目の晩。宗也の部屋のインターホンが鳴った。誰だろうと思い玄関に駆け寄ると、何と来訪者は涼子だった。


「あれ、涼子ちゃん?」

「宗也さん。サプライズで来ちゃったんだ」


 驚く宗也に対し、涼子は人懐っこい笑みを浮かべた。普段よりも妙にテンションが高いが、夜だからだろう。実のところ、宗也も涼子が来た事を喜んでいた。

 鋭角の猟犬が宗也を追跡し始めて七日目である。涼子によると、七日間逃げ延びたら猟犬は諦めて去るのだと言っていた。

 言い換えれば、今宵こそが正念場である。猟犬から逃げ延びる事が出来れば御の字なのだが、そうでない可能性も考えるのが人の性だ。

 だからこそ、涼子がやって来た事に安堵し、嬉しく思ってもいた。涼子からは、今日遊びに来るという連絡は聞いていなかったけれど。


「ありがとうな涼子。実は俺、やっぱり不安だったんだよ」

「鋭角の犬が来るかもしれないって心配していたのね」


 本音を口にすると、涼子は頬を緩ませた。それから部屋の角を丸める詰め物を眺め、更に笑った。


「よく見たら部屋の角も詰め物をしているのね。テーブルにも何かくっつけてるし」


 やだなぁ。何処かとぼけたような涼子の言葉に、今度は宗也が笑った。


「鋭角の犬は鋭角が無いと入れないって教えてくれたのは涼子じゃないか。だから鋭角になる所に詰め物をして、部屋を丸くしたんだよ。流石にモルタルとかは使えなかったけれど」


 一度息を吐き、宗也は言葉を続けた。


「でも涼子のお陰で、俺も鋭角の犬から逃げきれそうだよ。今日の夜を乗り切ればそれで終わりなんだからさ」

「ああそうね。そうだわ、そうだったわ」


 宗也の言葉を聞くや、涼子は笑い始めた。見慣れた笑顔の筈なのに、何かがおかしい。宇宙的な恐怖を掻き立てるような、名状しがたい笑い方であるように思えてならなかった。


「でもやっぱり詰めが甘いわねぇ。結局のところこの私を、鋭角の犬を招き入れたんですから」


 笑う涼子の姿は、もはや見慣れた少女の姿ではない。夢に見た、そしてあの過去視で目の当たりにした鋭角の猟犬の姿だった。そしてそいつは、哄笑を絶やさぬままに宗也に躍りかかったのだ。


「何言ってんのよ。詰めが甘いのはあんたも同じでしょう」


 聞き慣れた声と共に、青黒いナニカがベッドの隙間から飛び出してきた。

 寺田涼子の声で話すそれもまた、鋭角の猟犬の姿だった。


 そこから先は、何が起きたのかはよく解らない。部屋は本や古新聞や服が散乱し、その上に青黒い粘液が飛び散っていた。宗也を狙う鋭角の犬は去っていた。今彼の目の前にいるのは、寺田涼子だけだった。異形から見慣れた姿に戻っていたが、肩や腕からは青緑の体液を流している。


「大丈夫、大丈夫だよ宗也。あの娘はもう戻ってこないわ」


 体液が流れるのも気にせずに、涼子は微笑んだ。のみならずぎこちない手つきで宗也の頬を撫で、おのれの唇を宗也の唇に重ね合わせた。

 鋭角の猟犬からは決して逃れられないのだ。霞がかった頭の中で、そんな考えだけがはっきりとした形を伴っていた。

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