第35話 猫又覚醒の夜:三題噺#108「組織」「刺激」「首輪」
彼は長らく首輪を付けていたが、その事に何ら疑問を抱く事なく五年もの歳月を過ごしてきた。
彼の名はマロンという。人間ではない。オスのイエネコだった。何やらニンゲンが識別している品種があるらしいのだが、彼にはあずかり知らぬ事だった。マロンの世界は閉じていた。彼に首輪を付けたニンゲンと、自分が暮らす狭い箱の中で事足りていたためだ。もっと前には親兄弟と過ごしていた時期もあった気がするが、それはもはや遠い昔の出来事に過ぎなかった。
マロンの暮らしに、というよりも彼の意識に変化が起きたのは、ある夏の事だった。同居しているニンゲンの許に、来客があったのだ。これはまぁ人間的な言い方であり、マロンにしてみれば自分たちの縄張りに何者かが侵入してきたという認識になる。
猫らしく、見慣れぬ侵入者に警戒した。警戒したのは数秒だけだった。同居しているニンゲンと親しげに話している事などを見ているうちに、敵ではない気がしてきた。
何より、そいつからは何処か懐かしい香りがした。マロンはだから、「それにしても、なんでニンゲンは見知らぬニンゲンを連れてくるんだろうか」と思うだけだった。
その疑問も長続きしなかった。ニンゲンがこの箱からふらりと抜け出す事、しばらくしてから戻ってきた時には、別の生き物(ニンゲンに似た臭いだが、全く違う場合もあった)の臭いを付けている事を思い出したのだ。
マロンとは異なり、箱の中で暮らすニンゲンは時々外に出て、別の生き物と会っているらしい。
だから今回も、その延長なのだとマロンは思った。
「それにしても、まっちゃんは猫を飼ってたんだねー」
「そうそう。マロンって言うんだよ。もうかれこれ五年になるかな。えへへ、イケメンでしょー」
ニンゲンとやって来たニンゲンは、互いに啼き声を交わし合っている。自分に関心を向けているのは解っていた。ニンゲンはいつもそうだからだ。
伸びをして顔を上げると、やって来た方のニンゲンと目が合った。
そいつはニンゲンに対して何かを言っていた。マロンはしかし、そいつの眼差しに衝撃を受け、びくりと硬直した。
――こいつはニンゲンじゃあない。それどころか、むしろ……
――気付いてくれたんだね
「!!」
「どうしたの、マロン」
マロンの異変に気付いたらしい。ニンゲンが心配そうに声を掛けてきた。抱き寄せようとするニンゲンに猫パンチをかまし、そのままひらりとキャットタワーに駆けあがる。やって来たニンゲンの、いやニンゲンのなりをした同族とのコンタクトは、マロンには衝撃的だった。刺激の少ない環境下にいるという事を、思い知らされた気分だった。
謎の猫ニンゲンとの出会いはそれきりだった。しかし、マロンの意識を変えるには十分だった。
ともあれマロンは奇妙な夢を見るようになった。夢の中であの猫ニンゲンに出会うようになったのだ。猫ニンゲンは言った。力と才能のある者は、自分のようにニンゲンに化身する事も出来るのだ、と。そしてマロンには才能がある、と。
マロンは次第に、自分の今の暮らしに疑問を抱くようになった。猫ニンゲンとは異なり、自分は不自由な暮らしをしているのではないか、と。夢での猫ニンゲンとの語らいは、マロンの神経組織を活性化させ、増殖させてすらいたのかもしれない。
マロンはだから、この箱――自分と飼い主気取りのニンゲンが暮らしている狭い部屋から逃走した。抜け出すのは簡単だった。窓の鍵を開けるという作業に少してこずっただけだったのだから。
自分が過ごしていた箱は、ニンゲンが暮らしている部屋は、あまりにも小さなものだったのか。屋根の上に降り立ったマロンは、奇妙な感慨にふけってしまった。
しかしそれも一瞬の事に過ぎない。次の瞬間には、彼は自由を得たという喜びに突き動かされたのだから。マロンは器用になった両前足で首輪を外してその場に投げ捨て、何処へともなく駆けて行った。
月明りと、町のそこここにある街灯が、マロンの身体を優しく照らす。屋根や地面に浮き上がるマロンの影は、確かに二尾の猫又の姿を示していた。
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