第3話 目前の死

 伊口は走っていた。走って走って自分の自転車のみを目指していた。その後から迫ってくるのは作り物の人形のようなオオムカデだ。

「うわぁああ!」

 時々振りかえっては叫ぶ伊口。

 オオムカデはいっそ美しく見えるほど規則正しくその足を動かしながら伊口に迫ってくる。

 伊口は全力疾走なんて久々だったが、そんなことに感慨を覚えている余裕なんかまるでなかった。林に囲まれた空き地を全力で走る。

「うわぁあ!」

 すぐ後に来ていたオオムカデを転がるような横っ飛びでかわし、伊口はようやくたどり着いた自転車にまたがった。

「クソ、クソ!」

 闇雲に悪態を吐きながら伊口はペダルを強く踏みしめて走り出した。

 高校時代から使っている1万円のママチャリは軋みを上げながら走り出す。

 恐怖で足がガクガク震えたが、なんとか速度を上げる。

 伊口は後を振りかえる。

 オオムカデは変わらず伊口を追っていた。自転車に乗ったからだろう。

 さっきよりなおその速度を上げていた。

「クソ、クソぉ!」

 伊口はとにかく全力でペダルを漕いだ。

 あのオオムカデに追いつかれればどうなるかは分かりきっていた。

 あの男は「殺せ」とオオムカデに命じていた。なら決まっている。死ぬのだ。あのムカデの顎にかみ殺されるのか、毒でも使われるのか、とにかく伊口は死ぬのだ。

 冗談じゃなかった。

 ここ最近人生は行き詰まっていたが死を願ってはいなかった。

 こんなところでこんな訳の分からない形で死ぬなんてゴメンだった。

 この先どうなるのかはまったく分からない、雲行きの怪しい人生だったが生きてなんとかしたいのだ。

 そんな思いを込めて伊口はペダルを踏みしめる。

 そして、伊口は通りを走る。

 来た道を戻り、港湾地区に出る。ここまで来れば街と言っても良い。人気も少しはある。この伊口の状況を見て何らかの助けをもたらす人も居るかも知れない。

 そもそも、人目の多いところへ来ればオオムカデは追跡を止めるかもしれない。

 「殺せ」と命じられたのだ。公衆の面前でそんなことをすればいかなる形でも証拠が残る。それは人殺しでは恐らく好ましいことではないだろう。

 少なくとも伊口がドラマなどで見る殺人犯はそうだった。

 そんな期待を抱いて伊口は街中の通りを走る。

「クソ! 全然ダメだ!」

 しかし、そんな期待は無意味だった。オオムカデは街中に出たことなどまったく介さず伊口を追い続けた。

 その異常な存在を人目にさらすことになんの躊躇もありはしなかった。

 そして、もうひとつの期待も潰えた。

 何人か人は道に歩いていたし車も走っていた。

 しかし、こんな巨大な化け物に襲われている者を生身で助けられる人などなかなか居ないのだ。

 伊口が追われているのを見るなり電話をしている人は居た。しかし、助けることなど出来ようはずもなかった。

 どう見ても助けた人も殺すような怪物なのだ。

 当然と言えば当然だった。

 最早、伊口はしばらくしてようやくやってくるであろう警察だのに期待するより他になかった。

 それまでは一人でどうにかするしかないらしかった。

「チクショウ!」

 伊口は叫んだ。

 伊口は歩道からより広い車道に出る。オオムカデは歩道の縁石や舗装をむちゃくちゃにぶち壊しながら伊口を追ってくる。

 化け物だった。

 伊口がどうしたって到底敵うはずがない。

 逃げることしか出来ない。逃げ切るしかないのだ。

「ああ、クソ!!!!!」

 伊口はこの世の終わりのように叫ぶ。車道に出たのは失敗だったかもしれなかった。

 広ければ逃げやすいかと思ったが、それは同時にオオムカデもなんの障害もなく走れることを意味していた。

 オオムカデは走りやすくなった地面を這い、速度を上げた。

 そして、そのまま、

「ああ!!!」

 伊口の自転車に襲いかかった。後輪が鈍い音を立てる。オオムカデが組み付いただけで、伊口愛用の自転車の後輪はひしゃげて原型を失ってしまった。

 走行能力を失った自転車は大きく跳ね上がり、そのまま乗っていた伊口を投げ出してしまった。

 伊口は堅いアスファルトの路面を何回転か転がった。

「う、ぐぅ.....」

 膝や肘が衝撃で痛み、体中が擦り傷だらけになったのを感じた。

 しかし、伊口はすぐに起き上がる。起き上がらないと死ぬからだ。そして、予感は的中した。

 起き上がった伊口の目に映ったのは目前に迫った大きなアギトだった。

「うわあ!」

 伊口は咄嗟に横に転がる。ゴキャリと聞いたことのない音を立てて、アスファルトは弾けた。顎の形に地面がえぐれている。

 そして、オオムカデはそのまま転がった伊口に続けて襲いかかった。

 伊口は叫びながら転がる。次の一撃もなんとかかわしたが、それまでだった。

「ああ......」

 ムカデはその巨体を円に伸ばして伊口を取り囲んでしまった。とぐろの中に囚われた伊口に最早逃げ道はなかった。

 オオムカデはその大きな牙を開ききり、今度こそ捕らえた獲物を睨む。

 死んだ、伊口は思った。もう死んだと。

 あと数秒後には自分という存在は終わるのだと。

 こんな形で、こんな訳も分からないまま今日一生が終わるなんて朝は考えもしなかった。

 漫画のモブみたいな死に方だと伊口は思った。事件に巻き込まれ、ページの合間に殺される一般人。それが自分だと伊口は思った。

 こんなことならもっとやりたいことをやっておくべきだった。

 こんな風に死ぬなんてなんて空しいのだろう。

 伊口は感じた。

 しかし、もうその運命が止まることはなかった。

 オオムカデはその顎で無慈悲に伊口に襲いかかった。

 が、

 コンマ一秒で死を迎えるハズだった伊口はしかし死ななかった。

 代わりに、オオムカデが宙を舞っていた。

 それもかなり大きく。道の脇にある電柱を飛び越え、歩道の横に生えている雑木も越えて飛んでいった。

 なにが起きたのかまたも伊口には分からなかった。

 そんな伊口に、

「大丈夫ですか?」

 かけられた声の主は伊口の目の前に立っていた。

 それはごついハンマーを持ったスーツ姿の女だった。

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