第2話 廃屋とオルゴール

 廃屋は廃屋でしかなかった。遠くから見てもみすぼらしかったが、近づくとさらにボロボロな部分が良く分かった。元はここにあった会社の事務所か何かだったのだろう。プレハブで出来た外壁も2階の屋根も半分朽ちていた。

 立地も立地で、通りから少し奥まった空き地の中にあった。オルゴールの音も聞こえたり聞こえなかったりだった。風に流され通りに居た伊口の耳に届いたのだろう。

 少なくともあの通りを気まぐれに自転車で通って下りて、風に乗った音を拾わなくては気づきもしない。そういう感じだった。

 オルゴールの音に気付いてこの廃屋に伊口が近づいたのは偶然も偶然ということだろう。「なんでこんなところにオルゴールなんか」

 小さな声で独り言を漏らす伊口。

 人気の無い場所の廃屋でひとりでに鳴るオルゴール。ともすればホラー映画のワンシーンのようだった。

 さすがの伊口も少し不気味だったが好奇心の方が勝ってしまった。

 そもそも伊口は幽霊だのなんだのあんまり信じるタチではない。神秘学的には研究対象なのかもしれないが、魔術だのにはてんで興味がないのが伊口だった。

 そうして、廃屋の窓に近づいて伊口は中をうかがった。

 ここからオルゴールが見えるかと言われればまるでそんな気はしない。

 言ってしまえば、いわゆる暇つぶしでしかないこの行動にそこまでの労力をかけるつもりはなかった。

 大体、ここに入った時点で大概不法侵入なのに屋内に入ればもう言い逃れは出来ない。

 伊口にそこまでのアグレッシブさはなかった。

 なので、近づいた窓からひょっこり中を覗くだけだった。

 当然だが廃屋なのだ。中は荒れ放題も良いところだった。

 やはり事務所かなにかだったのか、事務机や棚のようなものがあり、ソファも置かれている。それらは全て朽ち果てていた。

 割と内装はここが使われていた時のまま残っているが、生活感からはほど遠い。

 やはり廃屋は廃屋だ。

 そこから、しかしはっきりとオルゴールの音が聞こえている。

 『ダニーボーイ』、伊口は昔小学校の音楽の授業で習った覚えがあった。

 これといって音楽に興味が強い方でもないが、幸せな子供時代の思い出とセットでこの曲ははっきりと覚えていた。

 大体がメジャーな曲だ。大人になっても知らずの内に耳に入っていることもあった気がした。

 その曲がこの廃屋の中から流れていた。この寂しい場所に合わない優しい音色。

「あれか」

 伊口の目にはその音色の出所が見えた。

 それは部屋の奥の応接机の上に置いてあった。

 この距離でも分かる、細やかな装飾の入った手のひらサイズの小箱。材質は木だろうか。それなりに古いもののように見えた。アンティークだとか言われれば納得しそうだった。

 そんな小箱が廃墟の机の上に鎮座し、穏やかに音色を奏でていた。

 オルゴールならば誰かがネジを巻くなり、スイッチを入れるなりしたと考えるのが普通だ。それに、ほこりまみれの室内においてあのオルゴールだけはやけに真新しい。

 だれかがわざわざ、ここに入ってあれを置いた。

 そう考えるのが妥当なように伊口には思えた。 

 一体誰が、なんのためにこんなところにオルゴールを置いたのか。

 こんなところにオルゴールを置いてなにがしたいのか。

 伊口には良く分からなかった。

 良く分からないし、そんな良く分からないことをする人間とはあまり関わらない方が、身のためな気がした。

 なので伊口は密やかな暇つぶしをやめて自転車のある通りに戻ろうとしたが、

「なんだお前は」

 声がして、伊口は振りかえった。

 そこに立っていたのは男だった。しかし、伊口はその男を見た途端ひどい悪寒に襲われた。

 今までの人生で伊口が味わったことのない感覚だった。

 そして、初めての感覚なのに伊口にはそれが危険を知らせる悪寒だとはっきり分かった。

 男はボサボサの髪に小汚いトレンチコートを着た、見るからに一般人ではない風貌だった。

 しかし、伊口が最も意識を奪われたのはその表情だった。

 まるで感情の浮かんでいない表情。彫像の方がまだ暖かみがあるだろう。およそ人間のものとは思えないほどの無機質な顔がその男の首から上に張り付いていた。

 なにか分からないが、どう見ても普通の人間ではない。

 最近は行き詰まっていたが、曲がりなりに普通の人生を送ってきた伊口でも分かったのだ。

 恐らく、関わってはいけない人間だと。

「あ.......」

 伊口は言葉が出ない。足が動かない。警戒と恐怖で体が言うことを聞かなかった。

「一般人か。それを見たな?」

 男はまったく表情を動かさずに言った。

「え.......」

 それ、とは恐らくオルゴールのことだった。

 この男がこの廃屋にオルゴールを置いた人間と言うことらしい。

 男は手元からなにかを取り出した。

 それは小箱だった。手のひらサイズの小箱。

「死んでもらおう」

 男はその手元から小箱を地面に放った。

 地面に落下した小箱のフタが開く。

「な........」

 伊口は言葉を失う。手の平サイズの小箱、空いたフタ、その中から現れたのは蟲だった。形だけ見ればムカデに近いだろうか。木のようなプラスチックのような材質。本物ではなく、作り物のようだった。

 しかし、驚くべきはそのサイズだった。手の平サイズの小箱から出てきたはずなのに。その大きさは伊口の大きさをゆうに越えていた。

 全長4mはあるだろうか。

 オオムカデとしか言いようがなかった。

 それが小箱からその大きさを無視して現れたのだ。

「殺せ」

 男が言う。それと同時にオオムカデは伊口に向かってすさまじい速度で走り出した。

「う、うわぁあああ!!!」

 ここに来て、ようやく伊口の体は動いた。

 恐怖の硬直を命の危機の感覚が上回ったのだ。逃げないと死ぬはっきりと分かった。

 伊口は必死に大通りに向かって走った。

 男はそんな伊口をなんの感情もない瞳で見送っていた。

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