第9話

『教室に来て』


 と夕里からLINEを送られてきたのは、識と帰っていた放課後のことだった。


『話したいことがあるの』


 ほんとうに、気づいてよかったと思う。薫はたまたまLINEの通知をONにしていて、通知が来るとヴーッと震えるようになっていたのだ。


「ごめん識。忘れ物したから先帰ってて」

「は? 別にいいよ待ってるよ」

「大丈夫。塾あるでしょ。遅れたらだめだよ」


 薫は早口でまくしたてると、けやきの道を引き返して駆け抜けた。潮騒のような葉擦れが薫に降り注ぐ。まるで〈祝福〉のようだった。音の〈祝福〉。



「遅くなってごめん!」


 勢いよく教室のドアを開けると、窓辺の席に夕里が佇んでいた。薫は荒ぶる息を整えながら、必死に夕里の姿を目に焼き付ける。

 夕里はもう、半透明になっていた。夏の晴れの空の太陽はもう傾いていて、燃えるような黄金の西日が窓から差し込んでいる。その夕日の色に染まって、夕里は席に座って薫の席に肘をついていた。

 その視線が、ふっと薫の方へ向く。薫はたまらなくなって、涙がこぼれた。――綺麗で華やかなブラック・ダイヤモンドの眼差し。四季をとじこめた瞳。神秘的な瞳……。


「全然待ってないわ」


 夕里はおっとりとほほえむと、「こっちに来て」と笑った。薫はおずおずと自分の席に座る。机にはコンビニで売っているようなお菓子がばら撒かれていた。チョコレート、ぐみ、ポテトチップスにクッキー。


「最後の晩餐につきあってほしいの」


 最後の晩餐。

 では、これでほんとうに最後なのだ。



 薫は遠慮なくアーモンドチョコレートのパッケージをやぶり、ひとつ口に放り込んだ。中にアーモンドが入っていて、歯ごたえがあっておいしい。

 夕里はりんご味のぐみを選んだ。まだ咀嚼や嚥下はできるらしく、ゆっくり噛んでは「おいしい」と言っている。細い指。優美な所作。


「何に成るの」


 ばさっとカーテンがはためいた。夕里を貫通することなくそれは夕里に寄り添って、潮が引くようにまた戻っていく。


「わからないわ。……でも、もう人間には戻れない」


 夕里はずっと、ブラック・ダイヤモンドの花びらの眼差しをしていた。


「だんだんわかってきたの。みんなね、視えるんですって、〈祝福〉。誰かが教えてくれたの」

「誰だよ」

「わからないけど、夢のお告げ」

「ひとにはわからないものになるのか」

「そうね。精霊とか、妖精とか、神様とか……ひとじゃないものを、超自然的な存在を表す言葉はたくさんあるけど、そのどれもに属していないのかも。新種ってものかしらね」


 薫は、精霊になった夕里は、さぞかし美しいのだろうなと、目を細めた。


「……親にも、忘れられたわ」


 ――や、一瞬思い出せなかったんだよな。


 薫のあの言葉が脳裏に蘇る。

 夕里は泣き出しそうな目で、またひとつ、ぐみをつまんだ。


「……かなしかったわ。みんなにね、忘れられていることは、わかってたけど。親にも忘れられるなんて」


 一瞬、薫は、このひとの〈祝福〉を見てみたいと思った。夕里のまとう〈祝福〉。親からも友からも忘れられた夕里。しかし、世界から愛され、特別な能力を授かり、こうして空気に溶けようとしている夕里。

 きっと、黒い〈祝福〉のない、綺麗な姿だろう。


「松坂くん、お兄さんがいるでしょう」

「……なんでわかったの」

「松坂くんにある真珠の耳飾り、あれは親愛の〈祝福〉でできたものだわ。音楽が好きなのかしら」

「……」


 アヴィーチーが好きだった兄。今はどうしているのだろう。CDを聞くことはあるのだろうか。ブルートゥースイヤホンは使ってくれているだろうか。いや、もしかしたらもう捨ててしまったのかもしれない。


「大切になさいね」


 そこで、ふと、薫は夕里のことを何も知らないことに気づいた。――家族構成は? 兄弟姉妹はいるのだろうか。誰と友達なのか。好きな食べ物は? 好きな色はなんだろう。休日はどのように過ごしている? 趣味は……?


(……おれは)


 そこで薫は、やっと気がついた。


(おれは、夕里の持つ〈祝福〉を見る能力にしか、目を向けていなかったのか……)


 だから、薫は黒い〈祝福〉を彼女に注いでいたのだろう。彼女の能力を愛していた。それでいて、"一色夕里"自身には、微塵とも目を向けていなかったのだ。

 とたんに、激しい後悔が胸を打った。……もっと知ろうとすればよかった。一色夕里のこと。特別な能力を持っていようとも、たしかにひとりの人間だった夕里。

 後悔に胸が押しつぶされそうで、薫はそっと頭を抱えると、夕里は優しく薫の手を包んだ。


「そんな顔しないで。……あなたは愛されているのよ」

「違う。そうじゃない。おれは」


 唇が震える。今度こそ薫は目をそらさず、きちんと夕里の目を射抜いて、言った。


「おれは正しく一色を愛したかった」


 このときの夕里の顔を、薫は数年経っても覚えていた。

 ばら色の心臓が高鳴っている目だ。黄金の夕日に染まり、輝いている瞳。耳の奥でごうごうと血流が逆流しているのも、肺がある感情で膨れ上がっているのも、手に取るようにわかった。小さな夕里の顔。

 薫の顔が涙で歪む。


「おれはあなたが羨ましい」


 思わず薫は突っ伏して、泣いた。

 そうだ。羨ましかった。〈祝福〉が見えたとしても、ひとを愛するというのはこんなにも難しい。

 本気で薫は夕里を愛していた。しかし、その愛はひずんだ色になって夕里へと降り注いだ。

 対して、どうだろう。夕里というのは、すべてのものへ惜しみなく美しい博愛を注ぐ。巣立ちのコマドリや、薫すら愛した夕里。森羅万象をとじこめたあの瞳……。


「ひとはあなたみたいな目を持っていない。だから、愛をお金とか、プレゼントとか、行動とか、思い出とかで置き換えたがるんだ。愛を目に見えるものにしたがるんだ」

「愛を……」

「そう。おれもそうだ」


 だから、能力を欲した。

 黒い〈祝福〉事件以降も、夕里に愛されたかったし、薫は夕里を愛したかった。

 けれど、薫は〈祝福〉の欲望に負けて、夕里より夕里の能力を愛した。……愛の証が見えるというのは、すさまじいことなのだ。〈祝福〉を飾りと思える、アヴィーチーのような傑物ではないのだ、薫は。


「あなたが見ている世界がほしい」


 夕里が見ている世界を知りたかった。 

 夕里の能力ではなく、真実夕里がほしかった。夕里の価値観、美学、信念。そのすべてを知って、夕里と同じ世界が見たかった。

 尊敬であり、憧憬であり、愛であった。


「できないわ」


 薫はしずかに目をとじる。


「できない。……わたしには、できないの」


 ――タイムオーバーなのだ。

 熱い涙がちぎれてとまらなかった。夕里が嗚咽をあげて泣いた。二人して、子どもみたいに泣きじゃくった。

 お別れだ。……お別れなのだ。もう、そんな時間は残っていない。

 薫は今、たしかに〈祝福〉を放っているだろう。

 その〈祝福〉がせめて、何色か知りたかった。




「……ねえ、松坂くん」


 しばらくして泣きやんだとき、もう、夕里は目視が難しいほどうすれていた。かろうじて輪郭と、美しい黒い瞳で、彼女を判断できる程度だ。


「ひとはね、いろんな愛を受けて育つの。親愛、友愛、性愛、自己愛、無償の愛……」


 彼女の手が、頬に触れたとわかったのは、ふわりと風が頬を撫でたからだ。


「愛は量も大切だけどね、同じくらい、種類も大切なの。……どれかひとつでも欠けてしまっては、心が歪になってしまう」


 立って、と夕里が言う。もう声すら霞のようで、よく聞こえなかった。

 薫は立ち上がり、夕里と向かい合う。彼女は笑っていた。


「大好きよ。……最後に、あなたに愛してもらえて、うれしかったわ」


 そして、唇にやわらかな風が触れた瞬間、世界に光がはじけた。

 教室のいくつかの机には、アリスブルーの蔦が巻き付いていて、すずらんのような鐘のかたちをした花がびっしりと咲いていた。黒板には水墨画のような松がズシッとくるような迫力で描かれ、若竹色の地球儀が星を侍らせながら教卓に置かれている。窓から薄色の風がそっと入ってきた。夜に落ちる直前の夕暮れの色。

 〈祝福〉の世界は、長く続いた。経験したことないほど、長く。……夕里から受けた最後の〈祝福〉。


 薫は自分の席に座り、LINEをひらいて、下の方にある連絡先を軽く叩く。最後のトークは数年前。


『久しぶりに会いたいです。会える日があったら教えてください』


 兄の千隼のLINEだった。


――大切になさいね。

――愛は量も大切だけどね、同じくらい、種類も大切なの。……どれかひとつでも欠けてしまっては、心が歪になってしまう。


 これは薫の第一歩だった。

 夕里の世界を見るための、孤独から抜け出すための、第一歩。

 親愛、友愛、性愛、自己愛、無償の愛。そのすべてを受けて、薫は生きていく。


 スマホから顔をあげると、〈祝福〉の残光が、夕暮れの教室で、長く尾を引いて、そして消えた。

 いつか、〈祝福〉が見えぬ世界を愛せるときが来るだろうか。

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祝福 アイビー ―Ivy― @Ivy0326

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