第10話 運命の訪問者
プロテストから三日後──
ばすばすと、乾いたサンドバッグを叩く音だけが聞こえるオンボロジム。いつもなら気合の入った掛け声が聞こえてくるのだが、それもない。
浮かぬ顔をしたまま玄関前を掃きそうじする洋子、明らかにどこか落ち込んでいるクマのオッサン、そして何かを忘れようと必死にサンドバッグを殴る俺。
重い空気、何故そうなったか? その理由は明白だ。それは、明らかに受かっていたであろうプロテストに自分が落ちたからだ。
「…………なあ、オッサンよお。もう過ぎた事は忘れようや、何ヶ月後にはまた受けられるんだろ? それまで練習でもして備えようぜ」
俺は連日のそんな空気に耐えられず、軽々と言う。
「…………なんでだ」
「え?」
「なんで、なんであんなアホな事を書いたんだあ!!」
オッサンが
「いや~……だって俺さ、野球以外はさっぱりでよ。あんな問題が出てくるとは思わねえって」
「だとしてもだあ! 『尊敬するボクサーは?』、なんて
──そう、実は俺のプロテストは九割九分九厘で合格に決まりかけていたのだが、この回答がまずかった!
わざとじゃないが、この回答がふざけて答えてしまったように受け取られて俺は落ちてしまったのだ。
「いやわりいわりい……あの人ってボクサーじゃなかったっけ?」
「"プロレスラー"だたわけ! おめえがここまでアホだとは思わんかった……あああ! せっかくのライセンスがああ!」
野球だけに人生を注いだが故の致命的なミス……!
本当の敵は"筆記試験"であった。ちなみに俺が知ってる格闘家は指で数えるくらいで、ボクサーなのかどうかもよくわかってはいない。
「すまねえって、俺ボクサー知らねんだわ」
「お前の目の前に"わし"という元ボクサーがいるだろい! 所属ジムの会長と書けば模本回答になるだろうが!」
「いや尊敬はしてないかな……」
「嘘も方便という事を覚えろアホンダラ!!」
オッサンの嘆きがジムにこだまする。俺はごまかすように、バツの悪そうな顔でまたサンドバッグを叩くのであった。
一方で外では、長いほうきを持って洋子がぼんやりと晴れ間の見える天を仰いだ。
「はあ……まあしょうがないわよね。うん、これからこれから! 実力は充分あるんだし、ガッツあるし!」
掃きそうじする洋子が気持ちを切り替えるように自身を鼓舞するが、ジムの郵便受けにある未払いの数々の請求書を見て再びげんなりとした。
「はあ……来月にはいよいよ電気と水道が止まるかもだわ……」
現実的な問題が浮き彫りとなり脳裏をよぎる。東谷が早いところプロになり、賞金を稼いでジムの知名度も上がらないとまともなスポンサーもつかない。
改めてここでの足踏みは痛いと痛感しながら、ため息が自然と出るのであった。
そんな憂鬱な昼前、こちらのジムに向かって灰色の帽子と茶色の渋いコートを纏った初老の男が、ゆっくりと歩きながら近づいてきた。
「すみません、こちら南方ボクシングジムさんでしょうか?」
物腰の柔らかそうな男が、灰色の帽子の下から笑顔で言う。
「えっ、あっはい。そうですが……なにか?」
思わず洋子が身構えた。このオンボロジムに用があって来る者は大概が借金取りだからだ。
洋子はそのかわいい顔立ちを崩すように目を細めた。細身な見慣れない男……だけど、どこか雰囲気があるというか一般人には見えない。そう、どこかで見たような──
「──あっ、えっ……! もしかして、あなたは……!」
ジムのガタついた入口扉がバタンと急に開いた。洋子が飛び込みながら入って来たためである。
「ん? どしたん洋子ちゃん?」
俺とオッサンは思わず慌てながら入って来た彼女を見る。
「た、大変っ! 今、外に来て──」
彼女が言葉を最後まで言う前に、一人の男がのそりと正面から入ってきた。
「おお、やっと見つけた。随分探したぞ──久しぶりだな、
茶色コートの男はそんな風に挨拶しながら、俺を見てきた。
「あ? 誰だ──って……あ、あんた──いや、あなたは!?」
男が帽子を取ると、その顔の全貌がさらされた。
「──
そう、それはかつての自分の恩師。俺のチームの元監督であった──。
──────────────────────
プロ野球チーム『
ビッグアローズは現在日本で一番の人気を
その監督の名は『
現役時代は日本最多安打記録を作り、世をわかせた野球人として著名である。やがて38の歳で現役を退き、引退後は持病のヘルニアが悪化したが、苦しい期間を乗り越えそれも気合で完治した。
その後は数々のチームの特別指導などに精を燃やし、やがてビッグアローズの監督に就任する。
そして数年前までは連敗に次ぐ連敗を重ね、チーム崩壊の危機にあったビッグアローズを中嶋は見事に立て直し、その名采配から『智将』の名を持って野球界に新たな伝説をもたらした。
その、中嶋茂がいま──このボロいボクシングジムの中にいる。
奇妙な光景であった。かつて、これまでのジムの歴史の中で起こり得ないであろう事態。
ほつれた来客用のソファに中嶋監督は座り、テーブル挟んで対面のパイプ椅子に俺とクマのオッサンは背筋を伸ばして座っている。
「はは、南方さんそんなに堅くならないで下さい。すみませんね、突然。ちょっとお話しをしたら帰るので」
「いえいえとんでもないです! こちらこそ申し訳ないです、ろくなもてなしもできんで……」
普段のオッサンからは想像もつかぬ丁寧さ。どうやらこういった大物とは喋ったことがないのが様子から伺える。
「拳、元気にしていたか? 風のうわさを聞いてお前がボクシングをやってると聞いたが、本当にやってるとは正直驚いたよ」
「監督も元気そうで俺、嬉しいっす。それと……すんません!! 俺、あんなに監督から野球の面白さを教えてもらったのに、あんな形で野球界を去っちまって……」
俺は久しぶりに中嶋監督を見て嬉しかったが、それ以上に申し訳ない気持ちがあふれた。
監督は恩師だ。あのビッグアローズに入団した俺を厳しくも熱い指導でさらに強くしてくれたし、野球そのものの面白さや楽しさ、自分自身の可能性を何倍にも膨らませてくれた。
それなのに野球界を暴力沙汰で去った俺、今さらどの
だが、そんな俺に対して監督はうっすらと笑いながらこちらを見てきた。
「頭を上げろ拳。お前がなんであんな事件を起こしたか俺はよくわかっている。そんな顔をするな、お前は間違ってない。チームメイトを、大事な人を平気でコケにするような奴等の方がよほど『悪』だ。気にするな」
監督からの言葉は世間とは違う。その真意、中身を見ての強い言葉である。
その言葉で俺は肩の力がなんだか抜け、安心した。
ああ、俺の知ってる監督だ。やはりこの人にゃかなわねえな、と俺は笑顔を見せた。
「ふっ、らしくないぞ拳。世間の評価がどうしたってんだ。細かいことは気にしない、いつものようにそうやって笑うのがお前だ。お前にはそれが似合う、前向きなのがお前の長所だ」
「……へへへ! そうだな、そうだよな。監督、ありがとよ。なんだか体に
中嶋監督と東谷はガハハと笑い合う。そんな豪快な光景の横で、熊三はぽかんと面を食らってた。
「あ、あの……中嶋監督さんは、拳坊の様子を見に来ただけなんです?」
わりこみ申し訳ない感じでクマのオッサンが言う。
「おっとそうだ、すみません。それもありますが、ちょっと大事なお話しがあって来たんですよ」
「なんかあったのか監督? 俺で良ければ力になるぜ」
俺がそう言うと、監督はさっきまでとは違う真剣な顔で俺達を見てきた。
「拳、南方さん。よく聞いて下さい。いま──日本のスポーツ界が、"重大な危機"を迎えようとしています」
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