第7話 ライセンス


 佐山との試合から一週間後──。


 南方ボクシングジムでは小気味良い打撃音が響き渡っていた。


「拳坊! もっとリズムつけろ! 肩の力を入れすぎるな!」


 サンドバッグに向かって左と右のワン・ツーを交互に叩き込む俺と連動するように、オッサンの指導にも熱が入っている。


 あの試合から俺はオッサンに、本格的なパンチの練習を教わっていた。


 今まではパンチなんてもんはみんな同じようなものだと思っていたが、一から指導されるとこれが中々に奥が深い。


「バカヤロー! 腰が入ってねえぞ! わしが何回も言ってるだろ、パンチは腕力で打つんじゃねえ! パンチは『肩』と『腰』で打つんだ! 捻りを加えない打撃なんぞ効かねえ!」


「わかってらーな!」


 この一週間は基本的なパンチ練習ばかりで少し飽きていたのもあって、俺は生意気に返事をする。


 もっとも基礎的なパンチ、それは『ジャブ』と『ストレート』──これをできない者はボクサーにあらず。


 そして俺はこの基本のパンチを野球に見立てていた。


 サンドバッグをキャッチャーだと思って放つ。まずは牽制球、ストライクゾーンを絶妙に外したような左ジャブを散りばめるように打ち、的を絞らせない。


 そして次は本命のストレート。腰を捻り、振りかぶるよう放つ右の大砲は得意のマッハストレートだ。


 ──パァンッッ!


 サンドバッグのド真ん中を深くえぐったパンチは、キャッチャーミットに響く快音に近いものが聞こえた。


「ストライッ!」


 サンドバッグが、の字に曲がる。やはり野球に見立てるとやりやすい、まるでマウンドにいるみたいで調子も上がる。


「まだ大振りだ、脇を締めんか脇を!」


「くそったらあ!」


 文句をたれつつひたすらにサンドバッグを打つ。オッサンのアドバイスで意識しながらやってはいるが、中々にパンチは奥深く道のりは険しい。


 ビーッ! と、ブザーが鳴る。


「よし、3分のクールダウンだ。息を整えとけ」


「ッだーっ、ハァーッ、ハァーッ」


 ボロついたの床には、俺の汗で小さい水たまりができている。俺とオッサンしかいないのに、ジムの中は熱気で蒸れている。


「ただいまー……うわ、すごい熱気! ドリンク買ってきたから二人とも飲んで!」


「おお帰ったか洋子。拳坊、水分はあまり摂りすぎるなよ。水を抜くことに慣れておけ、減量への近道だ」


 洋子ちゃんが俺にタオルとドリンクを差し入れてくれる。


「はいケンちゃん。大丈夫? バテてない?」


「へへ……ありがと洋子ちゃん。大丈夫だ、高校の部活の方がまだキツかったぜ」


 強がりを見せつつ、俺は渡されたドリンクを逆さまにして浴びるように飲んだ。


「言ったそばからがぶ飲みするんじゃねえ!」


 オッサンが俺の頭をぴしゃりと叩きながら怒鳴る。


「うふふ! ケンちゃんが頑張ってくれてて私も嬉しいわ。お父さんケンちゃんはどんな感じ?」


「まだまだだな、青二才に毛が生えた程度だ。パンチの威力じたいは悪くはねえ……だがスピードがまだまだお粗末だ。これから目指すミドル級やそれ以下のクラスでは、スピードが一番大事になってくる! 腕力だけじゃ"上"は目指せん」


 娘の質問に親父はアゴをさすりながら、分析するように言った。


「大丈夫だってオッサン、こないだみてえに俺が誰でもぶっとばしてやるっての」


「アホ! あんなカウンターありきの勝負じゃいつか痛い目にあう! もっと基礎を固めて堅実に勝つ道を選べる、これが一流だ」


 オッサンはこぶしを握って力説する。


「ならもっと気の利いたパンチ教えてくれよ」


「バカモン、ろくすっぽ基礎もできてねえ三下に他のパンチが打てるか! お前は素振りもしねえ、投球練習もしねえでマウンドに立ってたか?

 違うだろい、いいか何事も基礎は大事なんだ。野球だろうがサッカーだろうがボクシングだってそうだ。

 "基礎なくして応用ならず"。わかったらさっさとサンドバッグ叩け、べらぼうめ!」


「ぐっ、ぬぬぬ……!」


 悔しいがオッサンの言うとおりだ。俺もプロ野球選手になるため、人の何倍も努力し、マウンドに情熱をそそいだ。


 そこにはやはり、絶え間ない練習による"基礎"があったからだ。基礎をやり続けたからこそ、結果がついてきたと言っても過言では無い。


 俺はタオルで汗を吹き、再びサンドバッグへ向かおうとすると、そこに洋子ちゃんが小声で話してきた。


「うふふ……お父さんはああ言ってるけど、ほんとはケンちゃんを褒めてるのよ。センスもあるし、努力もできる人間だって言ってたから、頑張って!」


「えっ? まじで?」


 俺はクマのオッサンの方をちらりと見て、にやっと笑う。


「何してんだ! さっさとサンドバッグ叩けうすのろ!」


「けっ! 素直じゃねえの」


 聞こえないように俺は小言を言う。


「そういえばお父さん、次の試験日プロテストには間に合うの?」


「ふむ……まあ、ライセンス取るだけなら今でもまあいけそうではあるな。よし、来週末にちょうど試験があるからライセンスの取得に行くぞ拳坊」


 サンドバッグを叩く俺の横でオッサンがそう言うと、俺はポカンとした顔で答えた。


「ライセンス? なんだそりゃ?」


「『ボクサーライセンス』のことだ。簡単に言えば車の免許みたいなもんだ。これが無えと試合もままならんってやつよ」


「えっ、ボクシングって免許いるのか!? ドラフトで決まるんじゃねえの!?」


 俺は思わずたまげた声を出す。


「ケンちゃん残念ながら野球とは違うのよ……。ボクシングはプロライセンスを取ってやっとスタートラインに立つの。でも大丈夫! ライセンスを取るだけなら、今のケンちゃんでも充分実力は足りてる筈よ!」


「洋子の言う通りだ、ライセンスだけなら今のおめえでも取れる。問題はその後だ・・・・


「そのあと?」


 疑問を浮かべる俺に、オッサンは厳しい顔で目を光らせる。すると洋子ちゃんが間に入るように口を出す。


「私が説明するわね。ボクサーはプロテストに合格すると、C級ライセンスからのスタートになるわ。野球で例えると三軍ってところね。そこから4回戦の試合を4勝することでB級ライセンスへ昇格になるわ」


「なるほど、三軍から二軍ってわけか」


「そう、そんなところね! そして6回戦の試合を2勝することで晴れてA級ライセンス──言わば一軍へ上がれると言うわけなの」


 わかりやすい説明に俺はうんうんと頷きながら、可愛すぎる洋子ちゃんを見つめる。


「なるほどね。ま、要は勝ちまくればいいんだろ? 中々シンプルで嫌いじゃないぜ」


「勝てればな。言っておくが先日おめえが戦った佐山は6回戦の元B級ボクサーだ。つまりあのレベル以上の奴がゴロゴロいるし、A級はさらに猛者共の魔窟と言ってもいい……一筋縄じゃ渡れねえ茨の道ってことだけ覚えとくんだな」


 調子に乗る俺に、釘を刺すようにオッサンは言った。


「オッサン、俺をなめんなよ? 野球でもボクシングでも俺は手を抜かないぜ。『やる』と決めたからにゃ俺は『やる』ぜ」


「たしかに茨の道だけども、私はケンちゃんの中にある熱いガッツを信じてる。必ずA級に上がってランキングトップになる事を信じてるわ! 頑張っていきましょ!」


「よ、洋子ちゃん……!」


 むさいオッサンの横で輝く笑顔を見せながら応援してくれる彼女を見て、俺は感動しながら改めてこの子のために頂点てっぺん取ることを心に誓うのであった。







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