第5話 元プロの意地
試合開始──俺はそれと同時に、右の大振りパンチを敵の顔面めがけて殴りかかる。
「オラぁッ!」
筋力まかせの全力
「だらぁッ!」
連続で左右の筋肉が凝縮された腕で、俺は無闇にパンチを繰り出すが、やはり敵にはかすりもしない。
「はぁ、はぁ、やっぱ当たんねえか……!」
「くくくくっ! どうした? もっと打ってきていいんだぜ?」
どこかで見たような光景、何となくわかってはいたがこの佐山という男、おそらくボクシング経験者だ。それもオッサンよりも動きがなめらかで捉えにくい。
「バカヤロー!! そんなんで当るかあ! もっとコンパクトだ! 脇をしめろ!!」
オッサンが
「遅いなあ、のろすぎるぜ」
「やろう……!」
この佐山という男は、こっちが素人だと思い油断をしている。これはチャンスだが、こちらにも決定打が無い。
このまま乱雑にパンチを繰り出しても一生奴には当たらないだろう。俺は一旦、深呼吸してオッサンの助言に耳を傾けた。
「いいか拳坊よく聞け! 動きから見て奴は間違いなく"プロ崩れ"、まともに打ち合うな! 構えを高く、脇は締めて、肩の力を抜いて顔面ばっか狙うな! ボディーを狙ってまずは足を止めろ!!」
「だあーッ! 注文が多いぜオッサン!」
リング外から色々と言われるが、どうにも頭に入ってこない。
「無駄だ、佐山は6回戦ボーイの元B級プロボクサー……だが、そんじょそこらのプロ崩れと思わない事だ。奴は暴力沙汰でライセンスを失効した男だが、元々の実力はA級と変わらない力を持ってる。もし奴がまだ現役なら、ウエルター級のトップクラスだっただろうよ」
柄の悪いスーツの男がキラリと光る金歯を見せながら言う。
「くそったれ! どうりで今日は自信満々で来るわけだ……!」
オッサンの額に冷や汗が流れる。いまだにリングでは乱雑に舞うパンチを、佐山は涼しい顔をしてのらりくらりと躱して遊んでいるようだ。
「佐山! そろそろ決めろ、遊びは終わりだ」
「……了解。悪いな兄ちゃん、すぐに沈めてやるよ」
俺のパンチをするりとすり抜けるように、佐山がこちらとの距離を詰めると、奴の右のストレートが俺の腹のド真ん中にめり込んだ。
「ぐッあ……ッ!」
「さあてトドメだ──!」
ダメージが広がる、そして体制を崩した俺に追撃するよう、奴の左のフックが俺の顔面を捉えようとした──その時、
カーンッ!
ゴングの音がジム内に響く。その音に反応してか、佐山の左フックは俺の顔面直前で止まっていた。
「3分……1ラウンド終了です! 二人ともコーナーに戻って、1分のインターバルです!」
洋子ちゃんがゴングを鳴らしていた。どうやら俺は助かったらしい。
「あ、危なかった……!」
「おいおい! そんなのありかよ!」
「"普通のボクシングルール"を提案してきたのはそちらです! 文句は言わせません!」
安堵でホッとするオッサン。柄の悪い男が文句を言うが、洋子ちゃんは上げ足を取るようにキツく返した。
「くくく、ゴングに救われたな。別にいいさ、どうせ次で終わりだ」
「くそっ……!」
じわりと痛む腹を押さえながらコーナーに戻ると、オッサンと洋子ちゃんがすぐに俺の所へ来た。
「洋子ちゃん助かったぜ、ありがとう……たぶん、俺のために早くゴング鳴らしてくれたんだろ?」
「ケンちゃん、さっきは早めにゴングを鳴らせたけど、次はそうはいかないわ。あっちも最初から本気で来るはず……」
洋子ちゃんは冷たい保冷剤を俺の体に当てながら、困った顔をみせる。
「……いいか拳坊、もう後には引けねえ。この1分でわしの言う事を頭に叩きこめ。おめえのパンチはこのままじゃ一生当たらん、だからな……」
オッサンがこそこそと俺に耳打ちする。
「──そろそろ1分だ。来いよ、さっきみたく"早め"のゴングはもう鳴らさせねえぜ」
佐山が洋子ちゃんをじろっと見ながら言うと、彼女はギクリとした顔で目をそらした。
「へっバレてたか……」
「当たり前だ。俺は元プロ、残りの時間くらい感覚でわかる。さあ第2ラウンドといこうじゃないか」
首をこきこきと鳴らし、奴はリング中央で軽く腕を回す。そして、また戦いのゴングがジム内に響くと、佐山は今度は一気に間合いを詰めて来た。
「終わりだ!」
まだダメージが抜けない、俺を狩り取るように出される右のストレート。
照準は俺の顔面、間違いなく食らうであろう速いパンチ。
「拳坊!!」
オッサンが吠える。刹那、俺は先程言われたオッサンの言葉を思い出す。
奴を倒す助言、それは──秘策、クロスカウンター!!
敵のパンチに合わせるその技は、まさに必殺技。敵の右ストレートに対し、こちらは左ストレートを上から被せるように放つことで、互いの衝撃を混ぜた合算ダメージを一気にぶつける事ができる!
短い時間だが、俺はオッサンの言葉通りに受けた説明を頭の中で
「ヘアアアアッッ!!」
敵の右のパンチだけにヤマを張っていた俺は、自分でも驚くくらい綺麗な左のストレートを飛ばす。
「よしっ!!」
ガッツポーズのオッサン、完璧に合わせる作戦通りのクロスカウンター。
──だが、こちらのパンチが敵に当る事はなかった。
「何ぃッ!?」
オッサンの驚く声、その理由は明白だ。
佐山はこちらのパンチを読んでいた。奴のトドメに見せかけた右ストレートは、途中でピタリと止まっていた。
特別でもないフェイント、俺はまんまと引っかかる。勢いよく出した俺の左ストレートは空を切ると、佐山はその横から左の強烈なフックを仕掛ける──!
「ケンちゃんガード!!」
「くッ!」
その声で我に返るように右手を上げる。しかし、奴のフックはそのガードごと俺を横なぎに吹っ飛ばした。
ズガァッ!
「ぐあッ……!」
「拳坊!! 立て直せえ!!」
ぐらぐらとする頭、危なかった。もう少しガードが低かったら、意識ごと持っていかれただろう。
だがそんなことはお構いなしに、敵はこれを好機と見て俺にラッシュをしかけてくる。
「ケンちゃん顎を引いて!!」
「ガードを上げろおッ!! 丸くなるんだあ!!」
必死だ、俺もオッサンも洋子ちゃんも。俺は防衛本能がそうさせるのか、姿勢を低く両手を上げて亀のように丸くなる。
「くくく! いつまで持つかねえッ!?」
パンチの嵐が全身を襲う。徐々に、徐々にではあるがダメージの蓄積、限界は近い。
「拳坊……! もういい! よくやった! いまタオルを投げるからなあ!!」
「ケンちゃん……」
そんな俺の姿を見て、南方親子の悲痛な声が聞こえてきた。
──ああ、結局ダメなのか。
所詮は野球とボクシング、相容れない相性。一発逆転の作戦もバレバレだった。俺と同じで、奴もまた"プロ"なのだ。
大口叩いて負ける、だせえ負け方だ。俺にはこのジムは救えないのか。せっかく見つけた目標、人の役に立てると思ったんだがな。
ぐらぐらと崩れそうな積み木のように足が震える。
「これで終わりだ──!」
本当に最後のトドメの一撃、本命の敵の右ストレートが飛んできた。偽りのない、倒すためのパンチだ。
「ケンちゃん!!」
洋子ちゃんの泣きそうな声が聞こえる。
……あーあ、カッコイイとこ見せたかったんだがな、しかも今に限ってやけに敵の右ストレートがハッキリと見えやがる。
走馬灯のように思考が巡る。
まるでスローモーションだ、くらったら痛いんだろうな。
……これが野球だったら、もっとカッコイイとこ見せられたんだけどな──。
──野球だったら?
そんな事を思ったら──意識が、ハッキリしてきた。
奴の右ストレート、そうか、これは……『"ストレート"』だ。
今までに幾度となくバッターボックスから見た、そんな光景。
絶体絶命のピンチで、極限まで研ぎ澄まされた感覚は、敵の
とんだビーンボールじゃねえか、なら、移すべき行動は──
ガキィッ!!
──刺さった。佐山の右ストレートは俺の顔面……ではなく、瞬時に身を避けるように出された、俺の厚い肩に刺さっていた。
「ぬっ!?」
奴の動揺がボクシンググローブ越しに伝わる。
「ケンちゃん!」
「け、拳坊」
思わず手に持っていたタオルの行き場に困惑するオッサン。
「ちっ! ならこうだ!」
佐山は左右のコンビネーションで俺を打とうとする。左と右からテンポのいいジャブストレート、お手本のようなボクシング。
しかし、俺の目からは違う
奴の左のジャブはボール球、それも3球連続。本命はやはり右の
俺は左のパンチを軽く腕でガードし、次いでやってくる本命の右を二の腕で受け止める!
「ば、馬鹿な!?」
佐山はあきらかに焦っていた。さっきまで圧倒していた相手、刺さっていた筈の自分のパンチがことごとく受け止められる事態に。
「ど、どうなっている!? 佐山! 何をしているんだ、そんな素人早く倒せ!」
ジム内の空気が一変する。誰もが、目の前で起こっている光景を理解できない。
「……そうか、野球なんだ。パンチは
俺は左のパンチを、まるで牽制球のように散らしながら打つ。
「うおおっ!」
小刻みに打たれるジャブ、それが佐山と言うキャッチャーミットに放たれる。
そう、名付けるならば『ボールジャブ』!
ジャブは牽制球! 様子見と相手を釣り上げる棒球!
敵の肩、腕、胸、その的を絞らせないパンチが飛ぶと佐山の動きを止めさせる。
「なめるなあ!」
俺のボールジャブを見切るように、奴は身を素早く避けると、
「すらああッ!!」
今までに見せたことの無い、左のストレートを繰り出してきた。
元プロの意地、渾身の奴の左ストレートは正確に俺の顔面に向かう!
しかし、"これ"を待っていた!!!!
「おおおおおッッ!!!!」
筋肉が躍動する──! 流れる血が鼓動を早めた!
これまでの基礎トレ、ボクシングのために絞られた筋肉から出される俺の
いや、これをただの右ストレートと思うなかれ! 身をひねらせ後ろ足に一瞬重心が傾く、肩を回すように放つよう、イメージするのはまさに剛弓の如し!
奴もプロならこちらも"プロ"なのだ!!
野球に魂を捧げた漢から出されるそのストレートは、現役時代もっとも得意としたボール!
すなわち!!
『マッハストレート』である!!!!
拳と拳! 渾身の一撃が交差する瞬間、生まれしは──奇しくも秘策、クロスカウンター!!
俺と奴の拳は互いの顔面にめり込んだ!!
ガッキィッッッ!!
「──あ……」
潰れた両者の顔面──意識が飛ぶような声を上げて、ぐらりと、一方が倒れた。
そして一方は、倒れた相手を見てこう言った。
「へへっ……俺の……勝ちだ……!」
その漢には、元プロの意地と魂──そして野球人としてのガッツとタフネスを自負していた。
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