第4話 年末書類
比奈子は視線をあちこちに巡らせていた。
「えっと、さーやは、今幸せみたいよ。クリスマスも一緒に過ごしたって聞いたし」
「なんだ。じゃあ、あの後に会っていたのか」
浩和の奥底に残っていたもやが晴れた気がした。すっきりとした笑みの浩和とは違う、乾いた笑みを浮かべて比奈子は小さく頷いた。
浩和はすっきりした気持ちと、そう感じている自分への小さな違和感、比奈子の態度に心の引っ掛かりを感じながら、彼女を見つめていた。
小動物を思わせるその動きは男性社員の人気の秘密でもある。確かに愛らしい動きだが、彼女本来の良さはそこではない。
比奈子の良さは、明るくて前向き、誰かが困っていれば走っていく。会社に足りない機能があればそれを補足する為に自分が技能を身に付ける。とにかく優しい人で、何事にも率先して身体を動かすところである。
そんな彼女は、この会社で唯一サーバやPC関連の知識を身に付けた社内SE的な役割も果たしている。そうは見えないかもしれないが、かなり優秀な人材である。
そんな彼女が困惑で挙動不審になっている。元恋人に対する自分の反応が、彼女をそうさせてしまったのかもしれない。心の中でそっと比奈子に謝罪した。
「週末ずっと気になってたから、話してもらえて嬉しかったよ。ありがとう」
「いいの、そんな、うん。あ、でもさーや、あなたが同僚っぽい人と一緒に出てきたから心配してたみたいなの。
最近仲が良いカジくんだとすぐ分かったから、さーやに教えてあげたんだけど、それでも心配そうにしてたわ。彼女にこの話伝えても良い?」
「うん、お互いに余計な心配だったねって言っておいて」
ちゃんと伝えておくから。比奈子はそう言って、そそくさと去っていった。どことなく、ただの困惑とは異なる雰囲気があったが、浩和とてずっとこの事ばかりを考えているわけにもいかない。
機会があったら聞いてみよう。そう頭の中にメモを残し、仕事へと気持ちを切り替えた。
クリスマス明けの二日間を乗り切れば、年末年始の休暇がやっくる。仕事納めで片付けをしている時に浩和の肩を叩く者がいた。
「さすが仕事が早いな」
「常務」
浩和が振り返れば、書類をひらひらと振っている男がいた。
「年末年始はどこかへ出掛けるのか?」
「……いえ、たまにはのんびり過ごそうかと思っています」
浩和はそう言って笑うと、彼もつられたように笑った。手にしていた書類を掃除されたデスクの上にポンと置く。薄い書類は浮力を得てふわりとどこかへ行こうとしたが、浩和がそれを阻止する。
彼の手の下で書類は大人しくなった。手元を見れば、それは企画書であった。
「年末年始はゆっくり休んでくれ。来年からは、これを君に任せようという話が来ている。
心積りだけしておくように」
「はい、ありがとうございます」
何かと思ったが、本題はこの企画書らしい。用の済んだ常務はすぐに去っていった。浩和が担当している進行中の企画はもうすぐ終わる。それを見越しての事だろう。
片付けの手を止めたまま、彼は企画書に目を通す。読み終えた感想は“面倒な事になった”の一言であった。
この企画書がどのようにして上の審査を通ってきたのか不思議なくらいに、書類としては穴のある企画書だったのである。
企画者の名前を確認すると、そこには見慣れた名前が書いてあった。――
少し前に祥順の話題に上がっていた人物でもある。人柄は良いし、筋は悪くない。だが、書類だけはどうにも駄目なのだ。
この企画書も何とか企画書の体をとっている程度のレベルだが、その内容自体は面白そうだ。だからこそ、上がこの企画を通したのだろう。
企画書を本人と擦り合わせながらまともなものに変えないとミーティングは厳しいだろうが、やりがいのある仕事になる予感がした。
ひとまずこの企画書は後で当人に確認するとして、片付けを再開する。普段から汚くしないように使ってきた為、不必要はものの処分とかはあまりない。ただ、どうしてもホコリとかは奥の方から出てくるものだ。
浩和は、そういった細々とした掃除を中心に片付けを進めていた。デスクの上はすぐに終わり、足元やアンダーキャビネットの方へと視線を向ける。
アンダーキャビネットは側面に足がぶつかる事もあり、靴の擦れた跡などがついていた。そういったものものを掃除していると、また声が掛かる。
「お疲れ様です。そこまで綺麗にしていただけると、すごく嬉しいです」
「あ、カジく……いてっ」
祥順の声に反応して頭を上げようとして失敗する。あともう少しだけ後に下がっていたら当たらず済んだのに、と頭頂部を押さえて立ち上がった。
「すみません、突然声かけちゃって」
「いや、問題ないよ。何?」
「旅費精算終わったので、お渡ししに来ました。現金で大丈夫でしたよね」
「ああ」
浩和はキャビネットから印鑑を出し、祥順の持っている書類へ押印する。書類と引き換えに現金の入った封筒を受け取り中身を確認しながら財布へしまう。
まだ何か用事でもあるのか、祥順はその場で待機している。
「滝川さん、一旦家に寄っても良いですか?」
「構いませんよ」
「良かった。泊まりの荷物、邪魔になるから家に置いてきたんです」
駄目だと言われたらどうするつもりだったのか、と意地の悪い考えが浩和の頭を掠めた。どうしてか浩和は祥順を甘やかしたくなる。意地悪な事をしたら、笑いながらも心の奥底で悲しんでいそうな気がするのだ。
ただの勘違いや妄想、思い込みであれば良い。でもそれが本当ならば、と考えてしまう。
「定時で終わりそうなら荷物を取りに寄って、俺の家で夕食にしましょうか」
途中で食べて帰ろうと思っていた浩和は、頭の中でプランを練り直して提案する。祥順は嬉しそうに頷くと、仕事へと戻っていった。
デスク周りの片付けを終えた浩和は同僚と協力しながらフロアの掃除をしていた。あと少しで定時といったところである。
ざわめきと共に祥順がやってきた。その頬は赤く、息が弾んでいる。
「いつもの年始の飾りを手伝っていただけませんか?」
彼の背後には、しめ縄等の正月飾りが乗せられた台車がある。台車を動かす人間と荷物が落ちないように支える人間が必要らしく、秋口に入社した新人二人が台車を守っていた。
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