第3話 馴染む不思議

 祥順の朝食を見た反応は面白かった。「なにこれ、初めて見た」と顔に書いてある。浩和は思わず得意げに言った。

「フランスパンのエッグベネディクト風です」

「……エッグ、ベネディクトですか。頭が良さそうな名前ですね」

 斜め上のコメントに、浩和は笑いをこらえることができなかった。

「いや、そこは頭がいいとかよりも!

 教皇の名前のイメージはどこに、って言うか全然そこらへん関係ないんですよ」

「あ、そうなんですか」


 食べ方も分からず、フォークで卵をつついている姿は学生のように見える。ぷるぷると震えるポーチドエッグが可愛らしい。そろそろ破けてしまうんじゃないかと思い、浩和がその手遊びを止めた。

「ざっくりと半分に切っていって小さくするんだ。こんな風に」

 手本を見せると、祥順は恐る恐るといった様子でナイフを入れていく。つぷり、とナイフが刺さった場所から黄身が流れ出す。


「うわ、この黄身もったいない……」

「大丈夫、食べ方次第ではもったいなくないんで」


 ゆっくりと切っていくせいか、エッグベネディクトは土台と飾りがずれ始めていた。フランスパンという土台自体が不安定なのと、ベーコンを使っていたせいもあるだろう。少し切りにくそうである。

 慎重に、真剣になるあまり、祥順は無言である。浩和はそれを見ながら手慣れた手つきでエッグベネディクトを細かくしていく。細かく、と言っても四等分くらいに切ってから、更にそれを半分にするような感じである。


「黄身はエッグベネディクトですくい取るようなイメージで絡ませると良いですよ」

 祥順は垂れ落ちそうなソースと黄身を警戒しているのか、勢いよく口の中に入れた。無事に口内へ収まったエッグベネディクトを咀嚼する。

「このソース、チーズみたいに濃厚でおいしいです」

「卵の黄身にマヨネーズと塩胡椒を混ぜただけだよ。あと、バター」

「ええ? それだけでこんなに濃厚なソースになるんだ……」

 驚きの声を上げてから祥順の小さな呟きは空に溶け、二人は黙々とエッグベネディクトを食べた。


 あっという間に平らげた二人は、あと一つくらい食べれそうだ、と笑い合う。

「食べ足りないですか?」

「十分です! おかわりしたら、卵の食べ過ぎですよ」

「じゃ、食後のコーヒーにしましょう」

 祥順の家はもう勝手知ったる、というところであらゆる場所からカップやら必要な物を用意していく。浩和はご機嫌で湯を沸かし始めた。

 その間に台所まで近づいていた祥順が豆やフィルターのセットをしている。息のあった準備ですぐにコーヒーはできあがる。


 コーヒーを入れるのはもちろん浩和だ。祥順はぽたぽたと落ちていく滴を楽しそうに見つめていた。

 浩和もそれを見つめながら、この家に滞在している事が多いな、と考えていた。この家に馴染みすぎている事が不思議に思えてきたのだ。

 そう思うと、他にも色々と頭に浮かんでくる。


「年末、うちに来ませんか」

「え?」

 祥順はコーヒーから目を離し、浩和を見た。浩和は続ける。

「いつも会社から近いという理由だけでいつもお世話になっていたんで、逆に招待してみようかなと」


 祥順はその言葉を聞いて頷いた。彼は返事を聞きながら丁度できあがったコーヒーをカップへと注ぐ。

 この家にいる時は、祥順の片付けを手伝ったり、料理を教えたりしている。別にただお世話になっているわけではない。

 だが、不公平な気がしたのだ。相手の空間を見るだけ見て、引っ掻き回している。自分もされてみたかった。


「そうだ。年越しそば、手打ちにしましょうか」

「え、作れるものなんですか?」

「いや、俺も作った事ないですけど、今思いついて」

「ふ。ははっ」

 祥順は笑い出した。浩和もつられるように笑い出す。作った事もないものを一緒に作ろうというのだ。浩和は意味の分からない事を言い出してしまったな、という照れ隠しの笑いだった。

 結局それから祥順の家を大掃除して休日を過ごした二人は、仕事納めの日に浩和の家で飲み明かし、新年を迎える約束をして別れたのだった。

 一人になるまで、女友達とクリスマスを過ごしていたらしい紗彩を見た衝撃は記憶の奥底に沈んだままだった。




 月曜日、浩和は本社へ戻るなり、駆け寄ってきた比奈子に出迎えられた。珍しいと目を丸くする浩和に、比奈子は衝撃的な言葉を投げつける。

「ねえ、クリスマスはカジくんと二人で過ごしたの?

 予約制の有名レストランから出てきたって聞いたんだけど、それってさーやのせい?」


 どうやら紗彩もこちらに気が付いていたらしい。そして、あの日見た光景は幻でも錯覚でもなかったようだ。浩和は、そこまで考えて、ようやく目の前にいる女性が紗彩の友人であった事を思い出した。

 そして、紗彩の現状を憂う気持ちがあるものの、彼女のせいではないと首を振って笑みを作った。


「別れた時、それについて触れられなかったから、すっかりあなたが彼女の友人だった事を忘れてましたよ。

 クリスマスがそんな過ごし方になったのは彼女のせいというか、彼女のおかげですね」

「え?」


 あまりにも和やかな答えに、比奈子は首を傾げた。一方的に縁を切られたはずの浩和である。紗彩から話を聞いているのであれば、浩和に大きな非はなく、紗彩が悪いのだと知っているのだろう。

「元々紗彩と行こうと思って奮発して予約していたレストランなんですが、キャンセルできないお店だったんですよ。

 俺はカジくんと楽しく過ごせたし、気にしていないんだ。

 でも、不思議というか、ちょっと納得できなかった事があって」

 再び比奈子は首を傾げた。


「クリスマスなのに、友人と歩いていたみたいで。

 俺より魅力的な彼と過ごしていると思っていたから、少し驚きました」

「え」


 複雑そうな表情で、何も言わなくなってしまった比奈子に、様子がおかしいとは思いながらも浩和は続ける。

「余計なお世話かもしれませんが、やはり長く過ごしていた相手なんで、ないがしろにされていないか心配になってしまって」


 そう、あの晩に感じた衝撃とは、これである。本当に彼女が幸せなのか。ある種理不尽な展開からの別れであったが、それでも結婚を意識していた相手である。

 彼女が幸せになる為に別れたのだから、幸せでいてほしいという気持ちは本当だった。彼女の姿を久々に見たが、彼女へ対する気持ちはちゃんと昇華されていた。

 純粋に、そう思ったのである。

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