第140話 逆家庭訪問初日

 タクシーが停まったのは、予想に反して高層では無いマンションだった。


 もうここまで来たらペントハウスでも一軒屋でも何でも来いという気分だったので肩透かしだが、エントランスに入ってその考えが全く誤りだったことがすぐに発覚する。


 まず、厳重なセキュリティがあるところは常識の範疇として受け取ることができた。それから少し進んで、輝かんばかりの大理石の床、中央のテーブルに乗った凄い迫力の植木。エントランス内に淡い照明で照らされる庭園があるというのも、まだ理解できる。さらに進むとシャンデリアが見えてきて、ようやく「ん?」という感じだ。その下に高級ソファがドンと現れると完全に理解を超えて、さらに螺旋階段が視界に入ってくるともう、笑いが込み挙げてきた。


 一体何なのだこれは。家賃なんて払わずとも、このエントランスだけで暮らせるではないか。


 逆家庭訪問と聞いてかなり緊張していたが、なんだか楽しくなってきたぞ。考えてみれば高級マンションなんて、これからの一生を考えてもそうそう入る機会が与えられるものではない。工場見学みたいなものだ。


「佐竹くーん? 一体そんなところで何をしているの。エレベーターはこっちよ」


 気付けば東海道先生がエレベーターを止めていたので、駆け足で乗り込んだ。乗り込んでから、このエレベーターの広さ一つを取っても感心してしまう。


「螺旋階段、使わないんですね」


 先生は何てことを言うんだ、という顔で頭を振る。


「使うわけがないでしょう。あんなものはレイアウトのためにあるようなものよ」


「あのエントランスのソファ、座る人いるんですか? 座ったことあります?」


「わたくしは無いけれど、座っている方はいらっしゃるわ。椅子だもの」


「……エントランスにシャンデリアとはねえ。あれってLEDかな……?」


 東海道先生はぷっと吹き出した。


「もう、一体どうしたの? さっきから変よ」


「そりゃ、中流家庭の高校生がこんな高級マンションに連れ込まれたらテンションも上がりますって」


 自分で言って気が付いたが、どうやら俺はかなりわくわくしているらしい。


 そんな会話をしている内に、エレベーターは素早く五階まで移動した。短い距離ではあるが、かなりスピーディーな動作なのではないだろうか。俺が先に降りると、何故か縮こまって赤くなっている東海道先生が一歩遅れてくる。


「つ、連れ込むなんて。そんな、……」


 そして、このエレベーターを降りてからの景観も溜息が出てしまう。シックで落ち着いた色合いの廊下に、床は絨毯が張られている。各部屋の扉は結構な感覚で離れていて、見慣れない最新の電子錠が設置されているようだ。


「お嬢様とは聞いていましたけど、こりゃ本物ですね。先生のセンスが他の先生と違うのも頷けるよ」


「え」濁音に近い声を挙げて、自分の来ている衣服を見下ろす。「わたくし、そんなに浮いているかしら? これでも、かなり値段を抑えた服なのですけれど」


 ほら、と先生がチェスターコートの前を開いて衣服の感想を求めてきた。パールホワイトっぽい色合いのシャツに、灰色のチノパンか。どちらも皺一つ無い、素材の良さがぱっと見で分かる仕立てだ。


「……どうみても高級品だし。それに、先生の場合は二週間の内に一度も服を着回さない辺りから世間の価値観とズレていると思う……」


 そんな指摘をすると、先生は少し動揺したように空咳をしてコートを閉めた。


「ところで、どうして俺なんかを連れてきたんですか?」


「どうしてって?」


「人間観察部を見たでしょ? 今ならどいつも暇していたのに。特に甲塚は……って、あいつに肉体労働は無理か。それでも、郁は打って付けの人材ですよ」


「……」


 東海道先生は、何故か片頬を膨らましてずんずん歩いて行く。角の部屋で停まると、扉の端末を操作し始めた。頑丈そうな割に、手早く電子ロックが外れる音が響く。


 明らかに怒った顔のまま、扉を開いて俺を先に部屋へ入れようとする。それが、なんか恐ろしい。


「え……あの、なんで怒って……」


「つべこべ言わずに入りなさい。生意気よ、あなた」


「な、生意気って……」


 先生に背中を押されて入ると。どこかにセンサーがあったのか、勝手に前方のリビングまで照明が灯って、部屋の全貌が明らかになる。


「……広い! すげえ!」


 と、まず普通すぎる感想が出てしまった。でも、とにかく広いのだから仕方が無い。部屋が広いのもそうだが、数ある家具と家具の余白となるスペースがとにかく離れているのだ。例えば居室の中央にはL字形のソファがあるんだが、壁とソファの間には五人が一列にならんでラジオ体操が出来そうなくらいゆとりがある。


 なんか、貧乏くさい喩え方をしてしまった。


 それに、暖色系の照明を落とすライトも、一つですら高そうなデザインをしているのにソファの上と、ダイニングテーブルセットの上に二つ。加えて二段になっている天井の隙間から備え付けらしいライトも灯っていて……というか、全然部屋綺麗だな。


 パッと見て片付ける必要がありそうなのは、L字ソファとセットになっているテーブルの上か。大量の酒の缶が乗っかったままになっていて……手に持ってみると、どれも空いている。これが、軽作業……?


 先生に目をやると、L字ソファの背もたれに手を付いて、面白そうに俺を眺めていた。


「生徒を家へ招待するのは、これが初めて。……ふふふ。結構可愛い反応をしてくれるものね。最初にあなたを選んで良かったわ」


 それが何とも慈愛に溢れた声色だったので、こっちが照れてしまった。手に持った酒缶を一旦置く。


「そ、そう言われると、リアクションしにくいじゃないですか」


「あら、存分に驚いてくれて良いのよ? この家もこの家具も、殆どわたくしの実家がお金を出しているんだもの。だというのに一人で暮らすには広すぎるし、わたくしの趣味じゃないでしょう? せめてこれくらいは楽しまないと、住んでいる甲斐がありませんもの」


「はあ。にしてもこの酒、全部東海道先生が飲んだんですか? 大した酒豪ですね」


「あっ。いや。それは。日曜にいすずと加奈が遊びに来てね……」先生は慌ててキッチンの棚からゴミ袋を持ってくると、テーブルの上の缶を一つ残らず片付けてしまった。 


「普通に滅茶苦茶楽しんでるじゃないですか……。良いなあ。俺もこんな家住んでみたいですよ」


「むしろ、わたくしはもっと小さいお家で十分よ。こんなに椅子があったって、殆ど人が埋まることはないんだもの」


 先生は幾らか暗い表情で呟く。


 隣の芝生は青いって奴か。こんなグレードの高い生活をしている人手も、憧れる対象があるというのは侘しいものだ。


 でも、趣味が違うと言われれば確かにそんな気がしてきた。東海道先生が一から部屋のレイアウトを考えていれば、もっとゴシック調になるのかな。


「それよりも、この部屋に片付けるところなんてあるんですか? 掃除をするにしても……」と喋っている俺の足下を機械掃除機が通過していく。「埃一つ落ちていないし」


「それはそうよ。ここはリビングではありませんか」


「……ん?」


「お片付けをお願いしたいのは、こっちよ。あ、荷物はその辺りに置いておいで」先生は外套を脱ぎながら、部屋の左手に進んでいく。今の今まで気付かなかったが、キッチンから反対方向のそこにはまだ扉があったのだ。


 先生は扉を開いた直後の細長いスペースで立ち止まると、片方の収納を開いてコートとマフラーを掛けた。ちらりと見えた中には、これでもかというくらいの上着が掛けられている。


 ……これ、まさかクローゼットか? もう片方の側も収納になっているようだし、一体何着掛けられるのだろう。


 上着を脱いだ先生が更に廊下を進み、各部屋について案内してくれた。


「左奥の扉はバスルーム。こちらの手前の扉が寝室で、突き当たりの部屋がわたくしの私室なのです。母が寝泊まりするのは多分寝室になるのでしょうけど、わたくしのプライバシーをあんまり尊重しない人でですね……」


「はあ」


「心配なのは、わたくしの私室なのです――こちらですわ」

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