第139話 急を要する軽作業
東海道先生は上目遣いに俺を見て、目をうるるんとさせて、如何にも助けをが必要そうな、憐れな表情をしている。これだけ情報量があるということは、この手の表情はきっと十八番なんだ。
慎重にならなければならない。夏の合宿ではこの顔にホイホイ付いていったらゴキブリと対決させられたんだからな。
……違ったわ。あの時は先生に土下座されるくらいの勢いで頼み込まれたんだった。
とにかく、東海道先生が言い出すことには慎重を期して損はしない筈だ。
「アルバイトですか? アルバイトって、いわゆるバイトのアルバイト?」
「勿論、いわゆるバイトのアルバイトですわ。ちょっと人手の要る用事があって、困っていますの」
部室の出入り口で話しかけられたので、郁と甲塚が野次馬根性丸出しにこちらを凝視している。一旦、人気の無い廊下に移動した。
「先生とのことで今更とやかく言うつもりはないですけど、それって良いんですかね。教師が生徒にバイト紹介するって……ほら。就業規則とか」
すると、東海道先生は持っていたバインダーで俺の胸をぺちんと叩いた。頬を膨らます仕草は、年下なのでは無いかと錯覚するほどのあどけなさが浮かぶ。
「一々そういうルールだとか、常識に当て嵌めてやり返すんじゃありません。佐竹君の悪いところよ」
「す、すいません……それで、バイトって?」
「肉体労働ですけど、報酬は弾みますわよ? お、ほほほ……」
東海道先生は手の甲を頬にくっつけて笑い出す。裏がありそうだ。
「それで、時給と仕事内容は……」
「軽作業、かしら? 勿論軽くない作業なのですけれど。時給は、……ふふふ。三千円で如何?」
「三千円ですって!?」
時給三千円。すなわち三時間働いて、九千円……!? これが本当なら僥倖だ。服を買うにも金が要ることだし。
……いかんいかん。
「時給は魅力的ですけど、仕事内容が分からないんじゃなんとも言えませんよ。軽作業って言うと、荷運びですよね? 引っ越しか何かの手伝いですか?」
「う、ううん。それが……あのね?」
先生がちょいちょいと手で俺を手招く。彼女の口元に耳を引き寄せると、いつかしたように吐息を閉じ込めて言う。
「実はね……わたくしの母が、週末やってくるのです」
*
実質活動停止中の部活を早めに退けることに、とやかく言われることはなかった。
それより二人の関心を惹いたのは東海道先生の頼み事が何だったのか。しかし、それについても俺から話せることは何も無い。俺が聞いたのは、今週末に東海道先生の母親が大阪からはるばる遊びに来るということだけ。
だから何だ、という話ではあるんだよな……。
だが、とにかく急を要する「軽作業」の需要が発生したらしいから謎である。しかも、作業に掛かるのは今日からというからな。
職員用玄関前で待っていると、東海道先生が小走りでやってきた。もうすっかり冬服に切り替えているらしく、高級な気配がするチェスターコートに、これまた高級な気配がするマフラーを巻いている。
「お待たせしました。さ、行きましょうか!」
「あ。えっと……」
東海道先生は、特に補足の説明も無しにシャキシャキと歩き出してしまった。自分が歩きさえすれば俺が勝手に付いてくると思ってるんだろう。わけも、行く先も話していないというのに。……ま、付いていくんだけどさ。
だが、彼女が何も話そうとしないわけはすぐに分かった。校門を出て、美容室がある方面の通りを二本目で曲がる。それでどうするのかと思ったら、通りに止まっていたタクシーに真っ直ぐ乗り込むじゃないか。この手際の良さを見る辺り予め呼んでいたんだろう。
そうなのだ。東海道先生はお嬢様なのだ。わざわざ徒歩で移動するわけがないか……。
「どうせタクシー乗るなら、校門前に呼んだ方が楽じゃないですか? 何でこっち?」
後部座席に乗り込んでから聞いてみた。
「それはそうですけれど、人の目がありますもの。若手の教師がタクシー使っているところなんて、印象良くないでしょう?」
「そうかな。……先生がタクシー使うとこ見ても、別に気にしないと思うけど」
「佐竹君。わたくしが気にしているのは生徒の目では無くて、大人の目なのです。学校に来訪していた保護者の方や、目上の先生方がどう思うか。想像は付くでしょう?」
「あ。なる、ほど……? 大人の世界ですか」
俺の呟いた言葉が東海道先生のセンスに刺さったらしい。手の甲で口元を覆う笑い方をしてから、こう言い足した。
「ふふふ……その通り! 大人の世界は戦いですわ。あなたも、もうすぐ入門してくるんだから覚悟しておくこと。受験に、就職……色々準備しないとなりませんわね」
「嫌なコトいう先生だなあ」タクシーの話から受験や就職に繋げてくるなんて、なんと判定の広い藪蛇なのだ。進路の相談をするつもりだとは言え、この流れでそんなテンションにはならない。「ところで、今どこに向かっているんです? いい加減勿体ぶらないで教えて下さいよ」
「どこって……?」
慌てて転換した話題だが、何故か東海道先生の方が不思議そうに首を捻っている。
「何で先生が分からない顔しているんですか。このタクシーの行き先ですよ」
「どこにも向かっていませんわ。行き先はわたくしの家ですもの」
「……!?」
東海道先生の家!?
ちょ――っと、この展開は予想していない。担任教師の家に訪問するなど、高校生からすれば言葉が通じない国に単身で乗り込むようなもんだ。
慌ててタクシーが走る周囲を観察すると、既に高級住宅街の辺りを走っていることが分かった。学校より高い塀を設えた一軒家に、よく手入れの届いた植木、ゴミ一つ落ちていない遊歩道、誰も渡らない横断歩道……。
元々、ヤマガク周辺の地域は高級住宅街として知られているエリアである。この辺りの土地の高さは外の静けさですぐ分かる……。半ば予想はしていたが、この人はどれだけセレブなんだろう。
俺が大いに動揺していると、あっ、と開いた口を手で塞いだ。
「……もしかして、言い忘れていたかしら?」
「き、聞いてないですね。てっきりライブハウスとかで機材の持ち込みでもするのかと……」
「わたくしの母が、今週末に大阪から旅行でやってくるのです」
俺は、座席に腰を落ち着けた。これ以上高級住宅街を眺めていたら自分の出生を恨みかねない。
「それ、聞きましたよ。聞きましたけど、何で先生の家に……」
東海道先生は深刻な表情をして、溜息を吐いた。
「それがね。母が、わたくしの家に泊まると言いますの」
「はあ」
「なんとも急な話で、言われたのがつい昨日のことよ? 信じられる? 泊まるとなれば、こちらだって色々準備しないといけない。そんなこと、あの人も分かっているはずなのに……」
あー……。
軽作業の正体が分かった。
「要するに、お片付けをしろってことですか」
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更新が遅れてすいません。
本日はもう一本エピソードをアップロードします。
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