第138話 冷たい手が肩に置かれる
トイレで手を洗っていたら、いきなり冷たい手を肩に置かれた。
「やっ、蓮」
鏡を見ると、ニコニコしたショウタロウが俺の隣に立っているでは無いか。慌てて奴の手を払った。
「汚いな! 何考えてるんだ、お前」
「うおっ!……落ち着きなよ。ちゃんとハンカチで手は拭いてるって」
「チッ」俺は舌打ちをして、手の水滴を払った。こちとらハンカチなんて高尚なものは持ち歩いていない。些細な習慣の違いが、今は少しだけ気障に感じる。「何だよ、いきなり」
「そんな邪険にしないで、聞いてくれよ。早速昨日、宮島とデートした!」
俺はギョッとしてトイレを見渡した。放課後前のホームルーム前とあって、俺とショウタロウしかいないようだ。取り敢えず、胸を撫で下ろす。
「そんなこと大声で自慢するなよ……!」
「え、どうして?」
「あのな。お前がデートしたなんて、口の軽い連中に知れたらどえらいことになるだろ。郁が体育館裏や屋上に呼び出されたり、殺人予告が人間観察部に届くようになったらどうしてくれるんだ」
「あ……確かにそうだね。今後気を付けるよ」
これを冗談と捉えない辺りショウタロウもショウタロウだな。
……ま、あながち妄想でも無いのが怖いところだが。
俺たちは人気の少ない廊下を歩きながら小声で話し続けた。最後の授業が終わってホームルーム直前のこの短い時間、どうせもうすぐ放課後だからとトイレに出る生徒は少ないのだ。
「ちなみに、郁とはどんな話を?」
「色々だよ。期末テストの話とか、進路の話とか」
「エラく真面目だな……」
「進路の話って高校生にとっては共通だし、人となりが分かって楽しいもんだよ。宮島、期末テストの結果が思ったより良かったから、もう少し勉強頑張って良い大学目指したいんだってさ。あの普段はぽやぽやしてる宮島がだよ? これも、ギャップだよな」
「どうかな。それって、地元を離れないためのよくある方便じゃないか? 俺たち東京育ちにとっちゃ、都会から離れるのって結構アレだろ。東京で入れる大学は探せばあるだろうけど、就職まで考えたら勉強しないと……。特に、ここらに住んでる人間はな」
ショウタロウは納得したように鼻から息を吐いた。
「確かに。東京の大学と言えば、上が日本最高学府だからなあ。ここらで近いとこでも有名私立のヤマガクだし……やば! 俺も勉強しなくちゃ」
「別にお前はここら辺に固執すること無いだろ。桜庭から家遠いんだろ?」
立ち止まったショウタロウを、数歩進んだ後に振り返る。
「あれ? 僕、蓮に家の場所教えたっけ? 確かに家遠いけど」
「……あ」
しまった。これ甲塚がショウタロウの尾行を試みて得た情報だったんだ。どう言い繕おうか――そうだ。
「昨日、美取に聞いたんだ。あんまり詳しくは言わなかったけどな」
「……あ、そうなの? 蓮が美取さんと休日に。ふーん……」ショウタロウは、何故か納得しない様子で再び歩き始める。「まあ、確かに家は遠いけど、僕ここら辺好きでさ。家から高校までの電車では毎日同じ人が擦れ違っている筈なのに、毎日違う人の顔が隣にある。そんなのが……良くてね。いつも、ここで一人暮らしできたらなって思う」
「一人暮らし? 美取の家ってここから近いんだろ? そこで住むわけにはいかないのか?」
多少踏み込んだ質問だったが、結構自然な流れで出た疑問でもあった。ショウタロウは苦い笑みを浮かべながら頭を振る。
「僕が美取さんと? ははは。そりゃちょっと勘弁だな。僕だって男だよ。女所帯と暮らしちゃ何かと不便じゃないか」
「……ま、それもそうか」
それから、ショウタロウは次のデートの計画について自慢するように話してきた。なんでも、次のデートは今週末土曜日。金曜、日曜と郁を引き連れて流石にやりすぎじゃないかと思うが、クリスマスまでを数えればデートのチャンスは少ない……。スケジュールを詰めるのも当然か。
俺も、行動せねば。
*
ホームルームが終わって、一旦部室に荷物を置いてから職員室に行った。
目当ては東海道先生だ。今週中に十二月に突入するし、様々な予定で延び延びになっていた彼女との約束を果たすときが来た……のだと思う。
それに、元々食事を奢って貰う約束だったのだが、この一ヶ月か二ヶ月のこっちにも用事が出来てしまったのだ。
一つは、二者面談。俺の進路について、前々から相談したいと思っていたんだよな。
俺は元々芸大一本に絞っていたけど、もしかしたら、努力の次第でそれこそヤマガク(大学の方)に入れるかも知れない。俺の未来にとって、芸大を目指すことと普通の大学を目指すことのどちらが良いのか分からないけど――分からないなりに、足掻いてみた方が良いと思う。
もう一つは、シンプル。冬服の相談だ。
東海道先生は、俺がセンスの良さで思いつく一人。普段の学校で見る洋装は日常からかけ離れすぎている感はあるけれど、それでも、俺の脳裏にはライブ会場でみた彼女のかっこよさが焼き付いているんだよな。あの方面のセンスで、是非とも助言を貰いたいものだ。
で……東海道先生は、職員室にいなかった。いつも座っている彼女のデスクには教員用の教科書が広げられたままである。
おかしいな。放課後は、大抵ここで俺たちが部活を終えるのを待ってくれているというのに。
ここに居ないとなると――部室?
再度訪れた部室の扉を開くと、だらりとした雰囲気で二人が過ごしていた。
甲塚はいつもの如くノートパソコンを開いてはいるが、Youtubeで動物の動画を流しているばかりだ。郁はタブレットで漫画を読んでいる。
甲塚の話が本当なら、俺たちはショウタロウの秘密には殆ど手が掛かってる状態なんだ。だから、このモチベーションの低さは当然なんだが――改めて、人間観察部って一体何なんだ? という気分になるな。
「なあ」
声を掛けると、二人がこっちを向いた。
「東海道先生探しているんだけど、見なかったか?」
「先生なら見てないけど。職員室にいないの?」
「は? なに言ってんの? 東海道なら、さっき来たでしょ」
「えー、来てないよ?」
二人が、変な顔をして視線を交錯する。
……どうしてこの二人は些細な確認事項で意見が対立してしまうんだろう。
どちらの証言に説得力が有るかと言えば、甲塚なんだけど。
「甲塚。東海道先生どこ行った?」
「あーっ、ひどい! 私の言うこと信じてない!」
「うるさいわね。あんたが漫画に夢中になってる間に来たのよ。……東海道、あんたを探してたわよ」
「俺を?……」
すると、東海道先生は俺を探して部室に来て、どっかをうろついているのか?
丁度入れ違いになってしまったらしいな。
「あんた、今度は一体何をやらかしたのよ」
「いや、別に何もしていない……筈なんだけど」
その時、再び冷たい手が俺の肩に置かれたので、ギョッと振り返った。額に汗を浮かべている東海道先生が立っているではないか。
「佐竹くーん……」と、いつものような呼び方を、弱々しく呻く。
「な、なんすか」
「……アルバイト。興味ありませんこと?」
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