佇む咆哮

折り鶴

ホームルーム



「——生徒がひとり、消えたんだって」


 瞬間、周囲の温度が下がった気がした。夕暮れが迫る、校舎の隅。ここは、ひどく暗い場所だ。とうとつにそう気がついた。僕は、口を開く。彼女の言葉の意味を問う。

「……消えたって、どういうこと?」

「よく、わかんない。でもね——」



***



 夜、布団に入って眠りにつく。たった、それだけのあたりまえとされるはずのことが、てんで下手になってしまったのは、いつからだっけなと考える。

 はっきりとは憶えていないけれど、なんか、おかしいな、そんなふうに自覚できるようになったのは、高校生活にも少し慣れてきたころのことだった。眠れなくなった、いや、眠ることが下手になったそもそものきっかけについては、まあ、なんとなく、予想はついていて、それは、ほんのささいな、とるにたらないことだった。いまさら、誰に語って、聞かせるほどでもないようなこと。だけれども、その問題に対して、僕は納得のゆく解答を、ずっと見つけることができずにいる。だから、昨夜はろくに眠れなかったし、きっと、今夜もうまくは眠れない。

 されど、ここでこんな、自虐的かつ感傷的な気分に浸り続けるわけにはいかない。

 いまは文化祭の出し物を決めなくてはいけないのだ。

 いちおう学級委員ですし、自分。

 快晴、雲が立ちのぼる、お手本のような八月の午後。もう明日には九月だというのに、暑さがやわらぐ気配はまるでない。眩ゆい陽射しは遠慮なく、寝不足の眼球をえぐってくれる。窓から視線を外すと、おとなしく黒板へと向き直る。それから、クラスメイトたちの声を拾っていく。

 お化け屋敷。いいね、教室内で完結する出し物なら場所申請の手続きとかなくて楽だ。カジノもどき。これも同様の理由でいいと思う。演劇。うーん、体育館の舞台は使えるクラスに限りがあるからな、僕ら一年は枠取れないかも。今年は三年生が、舞台希望クラス多いらしいし。喫茶店。かなり面倒、できれば勘弁してほしい。

「食べ物系はたぶん無理だよ、知ってると思うけど保健所に申請いる都合で、ふたクラスしか許可出ないの。ぜったい二年と三年が優先だよ」

 調理なしで市販のお菓子とかジュース配るくらいならいけるけどね。もうひとりの学級委員である日笠ひかささんの声が教室に響く。彼女の声はよく通る。こういう騒がしい議会をまとめるのにはうってつけだ。僕はといえば、司会進行は日笠さんに任せて、みんなの声を拾っては黒板に白い文字で書き写す、ひたすらその作業をしている。明らかに僕が楽で、日笠さんが重労働だった。

 わたし字下手だから書記嫌なんだよね、できたら緒方おがたが書記やってくれたら助かるな。

 この文化祭出し物決めホームルームがはじまる前、教室に入る寸前に、日笠さんに言われた言葉だった。じゃあその役割分担で、と、僕はありがたく了承した。やったぜありがとーと言って、からりと笑った日笠さんは、きっと、かなり、いいひとだ。

 日笠さんの字は、べつに下手ではないと思う。加えていうと、僕のほうこそ、あんまり字は綺麗じゃない。きっと、日笠さんは、ほんとは書記でも司会でもどっちでもよかったんだろう。ただ、僕に気を遣ってくれただけなのだ。

 自分が生ける屍みたいな最悪の顔色をしていることは、鏡を見なくてもわかってた。だけど、普段からそんなにハイなほうじゃないし、誤魔化し切れるし、騙し切れると思っていた。自分のことも、周りのことも。

 夜、ぜんぜん眠れない。布団に入ってもまったく寝つけない。

 殺人鬼じみたきらめく朝陽がカーテンを突き破ってくる、そんな時間帯になんとか眠りの尻尾を掴み、うつらうつらするも結局すぐに起きて学校へ向かうために眠気を逃す。足りない睡眠の代わりに栄養を投入しようにも、固形物を咀嚼する気がまるで起こらない。

 それが、ここ最近の、僕のありさまなのだった。

 夏休み明け一週目にして、もう、すでに長期休暇が恋しい。

 ゾンビじみた顔になるのはある意味とうぜんなわけだった。

 たぶん、日笠さん以外のクラスメイトには気づかれてはいない。少なくとも、直接指摘はされていない。よくつるむ桐山きりやま鳴海なるみあたりには、ひょっとすると、勘づかれてるかもしれないけど、でも、とくになにか言われたりはしていない。それでいい。心配なんか、されたくない。してほしくないし、しないでほしい。

「簡易の飲食いけるんやったらほら、バーとかやろうや、なんかてきとうに飲み物混ぜたらええ感じのドリンクできるやろ」

「できへんわ桐山おまえがドリンクバーでつくってくる飲み物ええ感じになったこと過去一回もないやろ」

 ふいに聞こえてきた馴染み深い桐山の声に反射で言い返しつつ、とりあえず案として黒板に『バー』と書く。すると、再び桐山の声が飛んでくる。

「ちゃうちゃうちゃうで緒方、『バー』ちゃうねん、『B』『A』『R』で『BAR』や」

「うっさいわ縦書きやとそれ書きづらいねん」

 でも注文通り『BAR』と書き直してやった。これで満足か。

 ほなおれ猫カフェがええわ〜と教室の隅から鳴海の声が聞こえてくる。いやなにがほなやねん僕らの文化祭ごときに猫連れてきてええわけないやろ。僕が突っ込む前に日笠さんが「猫かわいそうじゃん」と即却下。かと思えば「猫カフェといえばさあー」と、のんびりとした調子の高町たかまちさんの声が続いて聞こえてくる。まだ猫カフェ引っ張んのかよ。

「ほらファミレスで最近ようあるやん、猫型のロボットが料理運んできてくれるやつ。あれつくろうや」

 いや無理ちゃう? しらんけど。

 隣で日笠さん、うーんと困った顔で唸る。

「わたしたち、工業科でもないし、このまえ物理基礎習いはじめたばっかだよ? おまけに一学期末の情報のテスト、クラス平均学年最下位だったし」

 日笠さんに遠慮がちに斬られるも、高町さんはめげない。

「だいじょぶ、おりりんこういうの得意やからー」

 突如指名されたおりりんこと織部おりべさん、織戸こよりに、いっせいにクラス中の視線が集まる。織部さん、少し考えるように首をかしげて、そのまま固まってしまう。なんかフォロー入れたほうがいいのかこれと悩んだところで、ようやく織部さんは口を開いた。

「……三十万円くらいあればいける」

「予算超過! 残念!」

 日笠が両腕をクロスさせバツ印をつくり、あえなく猫型配膳ロボット案は却下された。つか三十万あればつくる自信あるのか織部さん、すごいな。

「配膳ロボットはちょっと厳しいにしてもさ、回転寿司みたいな、ひとが運ばんでも料理が出てくる装置とかやったら工夫したらできるんちゃう? ほら、木材とか机でジェットコースターつくっとった学校あったやん」織部さんの隣に座っていた柚木ゆずきさんがそう言うと「ほな流しそうめんとか」「そうめん保健所の許可いる?」「もとから茹でてあるやつやったらいけんちゃう」と盛り上がり出す教室を、日笠さんがまとめていく。

「んー、包装破った飲食物提供するのが申請いるのかわかんないから、よっぴーに訊いてみなきゃかな」

 ちなみによっぴーとは米谷よねや先生ことわれらが担任である。米谷廣幸よねやひろゆきで通称よっぴー。

 この文化祭出し物決めホームルームは僕らに一任されているため、よっぴーはいまごろ職員室で三限に実施した小テストの採点でもしているはずだ。

「あ、せやったらそもそもドリンク混ぜバーも封切るからあかんかもしれんのか」と桐山が言い「うん、ちょっと微妙かも」と日笠さん。めっちゃバー推すやんと柚木さんが突っ込む声や、まあでもたのしそうやんねえと高町さんがのんびり言う声なんかが、だんだん、遠く、反響したように聞こえてくる。うん、たぶん、僕、疲れてるんだよな。そりゃそうか、ここ最近ろくな時間に寝てないし、食べものはぜんぜん胃におさまんないし。ぼやけて落ちそうな意識を叩き起こすために、惰性で手を動かして黒板に白い文字を書き連ねる。

 飲食からいったん離れようやという声や、ボドゲやマダミスやらの単語を、意味は飲み込めずとも耳は拾う。緒方、と誰かが、僕の名前を呼んだ気がした。緒方、こういうの得意やったりする? 脳はろくに言葉を吟味しないうちに、うん、と声を発する指令を出す。おお、と歓声が上がる、と同時に軽くシャツを引っ張られた。

「ねえ、緒方、まじで大丈夫なの?」日笠さんだ、ちょっと焦ったような顔。あ、可愛い。真面目な子の焦ってる顔って、ちょっと、こう、いいですよね。僕ののんきでアホな部分がそう考えて、そうじゃない僕が「なにが?」と問い返す。

「ほんとに、考えられんの? ゲームシナリオ」

「え?」

 なんのこと?

 でも、気づけば、黒板には白い文字で【謎解き脱出ゲーム】と僕の筆跡で書かれてあり、その上に花丸がついている。

 僕ら一年F組の文化祭の出し物は謎解き脱出ゲームに決定したっぽい。

「……僕、シナリオ考えるとか言い出してました?」

「言い出したってか、鳴海が、緒方ってよく推理小説とか読んでるし、こういうの得意かって訊いて、それに緒方が頷いて、あとはまあなんか、流れみたいな」

 日笠さんに控えめの声で訊いたところ、溜め息まじりの答えが返ってきた。いや、まじか。

「緒方このあいだも読んどったやん、なんやっけ、なんとかの脱獄問題みたいなやつ」

 朗らかに笑いながら鳴海が僕に言う。まあたしかに読んでたけどね、読むのは好きだけど考えるってなるとまた別問題だろ。正直、まったく自信ない。だけど、いっかいできるって言ったことに対しては死んでもできないとは言いたくない。とことん無駄な意地とプライド、それが、僕、緒方おがたあきらを構成する主な要素。

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