第5話.黄ばみのない紙。手垢のない仕事
明けて翌日。
朝食もそこそこに案内されたのは……書と紙が山となった部屋、でした。
幾年か前、王城で見た記憶があるような。
「ここで執務をせよ、ということでしょうか」
「その、はい。トライ様からは、そのように。
名代の用向きは、当面はないとのことですが」
わたくしの後ろに控えるキキは、どうにも申し訳なさそうですが。
これは夫の元に出向しているという、キキのせいではないでしょう。
それとも、帝国の道士とは雑務も一手に引き受けられているのでしょうか。
机にも、そればかりか積まれた本にも。
埃がうっすらと見えます。
ここはトライ様の私邸ゆえ、使用人もおらず、このような有様になっているようです。
ならご本人がきちんとお使いになればよいだけ、のはずですが。
帝国にも、このような方はおられるのですね……。
わたくしと関わらないところで、いていただきたかったですが。
念のため、簡素なお着物を用意してもらってよかったです。
えっと……袖はこうして、まとめておくんでしたか。
まだ着慣れませんが、動くに不便はありません。
少々、胸と腰のあたりがきついですが。
……いえ、だいぶきついですが。
帯紐、緩めにするとはだけてしまうでしょうか。
「あ、カーラ様。私が」
「ぜひお願いしたいけど、キキ。わたくしに近づいて、もう大丈夫ですか?」
「っ」
……腰が引けております。おかわいらしい。
慎重に部屋の中を奥まで行き。
応接机を超え。執務机の脇をすり抜け。
なんとか窓を開きました。
このガラス窓、嫌な音を立てましたね……。
このようなところの手入れすら、ですか。
王城の方が、まだマシでしたね。
まずは道具を用意し、埃の始末。
次いで物の整理。
机や椅子、ソファーが使い物になるまでは、いたしませんと。
◇ ◇ ◇
すでに窓からは日が差さず。おそらく最も高くにあろうころ。
未だ埃は感じるものの、お茶を飲めるほどには片付きました。
「こんな、あっという間に……」
茶を淹れてくれたキキが、呆然と呟いております。
「まだ紙が未整理です。本は大丈夫ですが……紙に埃が積もっていませんでした。
午後は至急取り掛かり、重要書類が混じっていないか確認が必要です」
機能を停止していた執務室に、そのようなものが紛れ込むとも思えませんが。
あった場合は一大事です。
そしてそのとき、責任を被ることになるのは、名代たるわたくしでしょう。
表に立て、とはそのような意味と理解します。
整理と言えば。
「気持ちは落ち着きましたか?キキ」
「はいあの、昨夜はとんだ失礼を……」
深く、頭を下げてしまわれました。
あのあと。互いの事情を話しながら、ずいぶんと甘えられた、といいますか。
「かつて幾年も精霊の道に二人、閉じ込められたとき。
もっと深く睦み合った仲ではないですか。
忘れたのですか?」
「いえ、決して!」
わたくしたちが十ほどの頃。迷い込んだ精霊の道。
時間の流れが、違う、そうで。
外ではひと月ほど、でしたが。
わたくしたちは、生まれたばかりの子どもが、大人になるくらいの年月を、二人で過ごしました。
おなかも空かない、不思議な世界で、二人。ずっと。
出口もなく、気が狂いそうになるのを、ひたすらに二人、慰め、支え合って。
愛し合って。
これ、出なくてもよいのでは?と半月余りでなり。
出たくないと、ひと月ほどで二人決意し。
暮らすこと十数年。
しかしわたくしたちは外に出て……いえ、追い出されて。
後にわたくしは猛抗議したものです。少し懐かしい。
「そう。わたくしも、片時も。
ずっと探していました。キキ。
手紙、届かなかったのでしょう?」
「それは、私がすぐ、帝国に嫁いだからで」
キキ……当時はハルと名乗っていた彼女。
お母さまが帝国出の方だそうで。ハルというのは、幼名なのだとか。
精霊の道は霊や式の加護なくば、中では外のことがあいまいとなり。
外に出れば中のことは、ほとんど忘れてしまいます。
わたくしは……ひとつも忘れてはいませんでしたが。
縁あって外に出ることは、かなったわたくしたちですが。
その後、この子を探し出すのは大変苦労しました。
キキは外の自分のことを、当時あまり覚えていなかったので。情報が断片的で。
王国の男爵令嬢だと突き止めた時には、もう帝国に身売り同然に嫁がされた後。
帝国は呪われた人を道士の卵として、常に求めているのです。
そして。
「そこは分かっていました。問題はその先。
国を守る帝国道士に、外国から手紙が届けられるはずがありません」
「それは、はい」
精霊の道を出た後、キキは呪われたとのこと。
呪いはまじないに通じ、まじないの使い手は式紙にも通じる。
ゆえ、式紙を扱う道士の候補として、帝国は広く呪いにかかったものを集めています。
わたくしがそれを知ったのは、キキを探して情報を集めている、途上。
帝国にいるのならと連絡を取ろうとした頃には……キキは道士になっていた、ということのようです。
通常、十年以上の修練が必要なのだそうですが。出世が早すぎです、キキ。
この子が帝国にいるとわかったので、わたくしもそれに乗じようとしました。
道士として誘いを受けるのが良。嫁がされるのが……可。
しかし少々、手を回しすぎたせいか、国内の勢力に目をつけられました。
わたくしに有用性を見出し、子爵令嬢であるにも関わらず、王子殿下の婚約者にされたのです。
帝国の目に留まろうと、国内の呪いを一手に引き受けていたのが、仇になりました。
この婚約破棄に苦労しましたが……王太子殿下がいろいろ増長してくれて助かりました。
破談にして実家に帰り、その後帝国へという算段でしたが、ここは誤算で……。
申し訳ありません、お父さま。不出来な娘を、十分愛してくださったのに。
わたくしにとってはその分、迎えの使者がキキだったのは僥倖でした。
最初は、覚えていないのかと思ったのですが。
「あなたに素っ気ない態度をとられたときは、忘れられたのだと世を儚みそうになりましたが。
こうして再会できて、まずは何よりです」
「それは大変申し訳なく……。使者としての役目もございますし。
その、喜び勇んで、何かしでかしそうだったので」
どうにも……その体のこともあって、自分を抑えていたようです。
昨夜あんまりかわいく泣いて謝るので、その件はつい許してしまいました。ふふ。
こうして念願叶ってキキと再会はできた、わけですが。
キキがかかった呪いは、両性となるもの、で。
女性性は、封じられていて。
わたくしが嫁入りした相手は、第三皇子。
まだ……問題が、多い。
「加えて、わたくしが人のものになろうとするので、複雑な思いだった、と」
「…………はい」
「場合によっては、彼を討ち取ろうと考えていた?」
「…………お答えできません」
「そう」
素直な子です。
お顔が隠せていませんよ?キキ。
「確認がしたいのだけれども」
「可能な限り、答えさせていただきます」
「あなたは、女でありたい?それとも男、または両方?」
「っ」
キキが、とても複雑な顔をしています。
口元が歪んでいる。
「女でありたい、のね」
「かなう、ことなら。
あなたが愛してくれた、私でありたいです」
「わたくしはどちらでもいいのよ?あなたなら。
もちろん、今でも」
「っ。それは、いけません」
子ができてしまっては、確かによろしくはありません。
だからこそキキの性については「秘匿」なのでしょうし。
そして……このことを知っていながら、キキをトライ皇子に派遣している方が、いらっしゃるはず。
慎重さが必要です。
ですが……ふふ。
その思惑、乗ってしまっても良いのではないでしょうか。
冗談を言ったともとれる、笑みを浮かべてみせると。
キキの瞳が困惑に揺れるのが、見えました。
そう……あなたもそれを本心では、望んでいるのね。
かわいらしくて、いけない子。
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