第22話

 ——目を閉じる度、東伍の脳内で繰り返し流れるこの回想。保住が東伍の胸ぐらを掴み、額に自分の額を近づけ、血走ったまなこが怒りに震えているさまを映し出すその記憶は、着実に東伍の精神を蝕んでいた。

 

「川村泉……彼女は一体、何者なんだ」

 

 不安と怒りが入り混じる中、寝そべる東伍は一人、仰向けから横向きへと体勢を何度も変える。

 保住が言っていた“身をもって知る”という言葉がこの解雇通告を意味するならば、東伍にはまるで身に覚えのないことだった。

 

 恋人、小林陽子こばやしようこの失踪。

 その陽子の精神を宿した、川村泉かわむらいずみの出現。

 小瀬こせクリニック、地下室の存在。

 そして、丸井理仁まるいりひとの行方。

 

 もう何が真実なのかもわからない東伍は、再び目を瞑る。そうして、ぐちゃぐちゃに乱れた頭を整理するように。先程とはまた別の回想を、無理やり脳裏に馳せた。

 

 

 

 

 

 五月三十日 四時四十分

 東伍が入院して三日目のこの日。まだ陽も出て間もない早朝に、東伍は揺り起こされる。

 

『東伍起きて。病院を出るわ、支度を』


 目覚めた東伍の目に映ったのは、微笑み。


『……陽子? 病院を出るって、なんで急に』

『いいから。荷物は大してないわね? 下に車を停めてある。事務手続きは済んでいるから、すぐにエレベータで一階に』

 

 そこまで口にして、陽子は言葉を止めた。

 

『ごめんなさい。東伍、エレベータには乗れなくなっちゃったのよね。階段で行きましょう。すぐに着替えて』

『待ってよ。事情を説明してくれないかな。今日はそもそも午後に退院が決まっていて、母さんが迎えに来る話になっていたんだ。それがなんで』

 

 事情を聞けなければ頑なに動かない意思を示す東伍に、陽子は荷物をまとめる作業をしつつ応える。

 

『マスコミよ。警察から話はいっていると思うけど、東伍には今、刑事事件の容疑がかけられているの。あなたの行方不明をマスコミが大々的に取り上げていたこともあって、新たな情報を嗅ぎつけた一部の記者が、あなたの退院に合わせて話を聞こうとおもてで張ってる。そんなことをされたら、世間は東伍を犯罪者だって決めつけるわ。冗談じゃない』

 

 陽子は一通りの荷物をボストンバッグに詰め込むと、ベッドの足元に置いた。

 

『だからマスコミのまだ集まっていない今のうちに、あなたをこっそり退院させようって』

『なんでコソコソする必要があるんだよ、俺は何もやってないのに』

『わかってる。でもね、現状ではあなたを犯人だと断定する証拠がないのと同じく、あなたを犯人じゃないと証明する証拠もないの。手札が悪すぎる。今のままじゃ戦えないわ』

『たたかう?』

 

 東伍の戸惑いの表情に、陽子は肯定の意を込めて頷く。

 

『東伍。これは戦いよ。あの泉って女は完全に狂ってる。東伍を陥れようとする人間を、私は絶対に許さないわ』

『泉って……陽子、川村泉を知っているの? 俺を陥れるってどういう』

『話は後よ。今はとにかくここを出ましょう。私が知っていることは、全て東伍に話すわ』

 

 全て話す——その文言につられて、東伍は着替えを済ませると病室を出る。

 ナースステーションを避けて非常階段を降りれば、救急外来と書かれた看板が見えた。

 

『あの救急車横に、シルバーの軽自動車が停めてある。私が運転するから、東伍は後部座席に』

『わかった』

『警戒して。どこにマスコミがいるかわからないわ』

 

 東伍は頷くも、ざっと見渡す限り人の影はないように思えた。

 そっと足を忍んで車まで辿り着くと、後部座席のドアを開ける。

 

 

 “乗ってはいけない”

 

 

 ふと声が聞こえた。だが辺りにはやはり、誰もいない。

 

『どうしたの東伍』

『あ、いや』

『早く乗って、急がないと。少しの間頭下げておいて』

『わかってる』

 

 乗り込むと、東伍は強めにドアを閉めた。言われた通りに身体を屈め、車が病院の敷地を出る所まで待つ。

 徐行から右折。少しの直進の後、今度は左折。エンジン音と空調の音が響くだけの車内で身体を揺さぶられ、東伍はほんの少し眩暈を覚えた。

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