第21話

 五月三十一日 十七時二十五分

 空が、黄昏泣きを続ける。

 

「校長……今、なんて」

「だからね。学校にはもう来ないでほしいんだ。渡した書面通り、来月いっぱいは本校の教員であるにはあるんだが、もう噂も広まってしまっている。メディアが報じて、ことが表沙汰になる前に、こちらとしては手を打ったことを保護者含め、世間に示さなければならないんだ。分かるだろう?」

 

 コの字に設置された長机の端と端、互いに疲弊した校長と東伍は向かい合い、どんよりと重たい空気を纏っていた。

 

「そんな。俺は何も」

「わかっている。きみがそんな、犯罪・・を犯すような人間でないことは、昔担任であった私が一番理解しているつもりだ。きみはいつだって勤勉で、この淑和学院が水泳強豪校として立場を確立出来たのも、きみの功績があったからこそと感謝もしている。しかしな。世間は理解してくれない。今後報道されることがたとえ事実でないのだとしても、その疑惑が晴れないうちは叩き続けるんだ」

 

 東伍は動揺で息を呑む。

 

「我々は耐えなければならない。そして、本校に在籍する生徒たちを守らなければならない。わかってくれ」

 

 

 

 

 

 黄昏時はとうに過ぎた。

 それでも、空は泣き止まない。

 

 淑和学院を出た東伍は、しばらくあてもなく歩いた。すれ違うカップルや対向車の運転手は、傘も差さずにずぶ濡れの東伍に眉を顰める。

 そうして雨に打たれているうち、つゆばかりの冷静さを取り戻してきた東伍は、結局馴染みのある場所へと帰ってきてしまった。

 校門を乗り越え、塩素のにおいに吸い寄せられるようにプールへ。鍵を持っていない東伍は、いつか陽子がしたように手際よく扉に紙をかませ、キーケースに入っていた適当な鍵を差し込み回す。カチャリ。簡単な解鍵音を確認して扉を引くと、東伍は更衣室に向かった。

 ぐっしょり雨を含んだ服をそのままに、コンクリートに素置きにされたすのこへと寝転ぶ。

 

「どうなってるんだ……」

 

 鼻から深く息を吸い、口から吐くと同時にため息が出た。

 右腕で目元を隠し、放り出した左手には、ズボンのポケットでグシャグシャにふやけた一枚の紙を握って、東伍はその突き付けられた内容を脳内で繰り返す。

 

 

 

 水野東伍 殿

 

 この度、貴方を下記の理由により六月三十日付で解雇することにいたしました。つきましては、労働基準法第二十条第一項の規定に基づき、此処に報告いたします。

 

 解雇理由は下記のとおりです。


 貴方には刑事犯罪にあたる重大な容疑が掛けられており、その結果本校の名誉信用を損ない、業務に重大な悪影響を及ぼす可能性がある為

 

 

 

 そこそこの大雨が、更に強まる。

 ばちんばちんと更衣室の屋根に弾けたしずくは、滝のようにすりガラスの窓を流れ、その外側と内側がまるで別世界であるように、東伍の孤独をより一層際立てた。

 犯罪——その二文字がゲシュタルト崩壊を起こし、自分に向けられた言葉であることを理解するのにも時間が掛かる。

 


 

『水野東伍さん。あなたには、丸井理仁まるいりひとさんへの誘拐及び監禁の容疑がかかっています』


 脳内で再生されたこのセリフは数日前、病室で目覚めたばかりの東伍に警察が告げたものだった。

 本当であればこの時、東伍は小瀬クリニックの地下を調べるように進言するつもりであったが、打たれた先手があまりにも突飛であった為に思考が停止してしまったのだ。

 

『えっ、え……、え?』

『丸井理仁さんとはお知り合いですよね?』

『いや、俺とジンさんは』

『ジンさん? 丸井さんをあだ名で呼ぶほどの間柄ということですか』

『だからそうではなくて』

『八年。理仁さんが失踪してもう八年です。その間にご両親は亡くなりました。心労も祟ったのでしょうね。心が痛みませんか?』

 

 若い刑事は相馬と名乗った。

 若いと言っても、歳は東伍と同じく二十代後半かそれ以下。言葉にはたっぷりの正義感が宿り、ベッドで横になる東伍に向けられる瞳に迷いはない。

 

『おい、それくらいにしておけ。水野さんはまだ意識が回復して間もないんだ。どうも、保住ほずみです。うちの新米が、失礼を』

 

 相馬の隣で小さく頭を下げた保住は、四十代後半といったところか。

 言葉とは裏腹に、保住の顔にお詫びの表情など浮かんではおらず、視線を向けられた東伍が思わず顔を背けたくなってしまうほどの圧力を纏っていた。

 

『こちらの調べですと五月十六日、つまりあなたが失踪した日に、水野さんがひとりの女性を車に乗せて走り去ったという目撃情報があるんです』

『それはっ』

 

 東伍はベッドに預けていた背を起こす。

 

『か、彼女はうちの高校に通う生徒で、ちょっとした用事があったので、一緒に』

『用事? 学校での通常業務や、顧問を務める部活動を放り出してまで、日も暮れた夜に女子生徒と待ち合わせですか』

『俺はなにも……そうだ、そのとき一緒にいた女子生徒は川村泉さんといいます。彼女に事情を聞いてください。その日俺が車に乗せたのは彼女です。彼女なら、俺がどんな目にあったのかを説明できるはず』

 

 疑惑が深まっていくのを感じた東伍は、弁明の糸口を探した。さすがに泉の中に陽子の意識が入っているなんて話は信じてもらえないだろうが、それでも今の状況を好転させる説明を、泉ならしてくれると思ったのだ。

 

『水野さんね、嘘はいけませんよ』

『嘘?』

『あなた、川村泉さんを姪だとか言って、一緒に食事をしたこともあるそうじゃないですか。でも実際は姪なんかじゃないですよね?』

『それは、その』

『まあまあ。いいです。川村さん、その日は学校からすぐに帰って、それからはずっと家に居たって。父親もそう証言していますよ』

『そんな、嘘だ』

『嘘じゃねえんだよ』

 

 腹の底を貫くような低い声が、東伍の耳元に近づく。一瞬のうちに、東伍は保住によって胸ぐらを掴まれていた。

 

『あんまり無駄話を楽しむような気分じゃないんだ。あんたの罪はこんなもんじゃないんだろ? 隠してること、全部吐け』

『な、なにを』

 

 何度も瞬きしながら、眼球を動かして狼狽える東伍。その顔をじっと見つめると、保住は不意に手を離した。東伍の襟ぐりを撫でるように雑に整え、それから自身のスーツの腹辺りをさっと払う。

 

『まあ今日のところは帰りますよ、証拠も無いんでね。でも。あんたは、あんたが犯した罪の重さを、これから身をもって知ることになる』

 

 保住の髭をこさえた口元が、小さく歪んだ。

 

『楽しみですね』

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