第4話 夕立と投影1
颯と亜紗とは、最初から特別に仲がよかったわけではなかった。一般的に言うような幼馴染と呼ぶには、3人で一緒にいた時間はあまりに短いのかもしれない。
小さい頃から凛太郎は地図に興味があり、そして、同級生たちはゲームやサッカーに夢中だった。ほとんどの同級生は地図に関心を示さなかったし、凛太郎もまた同級生が好きなものに興味を持てなかった。周りの子供たちに合わせることを早々に諦めた凛太郎は、休み時間にもひとりで地図の本を読みふけようになった。
転機が訪れたのは、小学3年の夏だ。
その頃、たまたま読んだ謎解きの本がきっかけで、凛太郎は地図記号を使った問題を作っていた。その放課後も、教室でひとりノートと向き合っていた。
「それ、なに?」
凛太郎がノートから顔を上げると、目の前に颯がいた。
「なんでもない……」
誤魔化そうとしたけれど、颯はじっと見つめる。まるで、ちゃんとした答えを待っているようだった。
「……クイズみたいなもの」
「へえ。深見が作ったの? すごいじゃん!」
自分が好きなものを、同級生に認めてもらえたのは、たぶんそれが初めてだったように思う。
「そのクイズ、誰が解くの?」
「別に誰も……誰も解かないよ。問題を作って、それで終わり」
「じゃあ、俺が解いてもいい?」
「え、どうして?」
「だって、暗号が可哀そうじゃん」
颯の例の口癖は、この頃にはもう始まっていた。
「解かれないまま、放っておいたら、暗号が可哀そうだろ」
この先、この口癖を何度も聞くことになるとは、このときは思っていなかった。そして、この口癖に、何度も救われることになるということも。
颯は、いつも凛太郎をひとりでは行けなかった場所へと連れ出してくれる。
それからというもの、凛太郎が簡単な問題を作っては、颯が解くようになった。
ノートを介して教室でやっていた謎解きは、そのうち外にまで範囲を広げた。あれは、校庭に隠したお菓子が入った缶を、颯と一緒になって探しているときだった。
「ねえ、ふたりしていつも何を探してるの?」
亜紗に話しかけられたことで、そこから3人で缶を見つけた。それから、なぜか亜紗が参加することが増え、3人でいることが多くなった。
颯は当時から野球がうまかったし、クラスの人気者で友達も多かった。亜紗はと言えば、誰に対しても優しく、なんにでも素直に心を開く性格で、話したがる生徒はたくさんいた。
凛太郎にとって、そんなふたりは眩しかったし、どうして自分と一緒にいてくれるのかよくわからなかった。それでも、あの頃3人でいることでしか満たせない何かがあったのだと思う。そんなふうに感じてたいたからこそ、颯も亜紗も3人でいることを選んでくれたのだろうと信じたかった。
けれど、転機はまたすぐにやって来る。季節が巡り、学年がひとつ上がった小学4年の夏だった。
夏休みも、もうすぐ終わるという8月の下旬のことだ。
その日、凛太郎は家で、放ったらかしにしておいた宿題を片付けていた。そのとき、家の電話が鳴り、やがて暗い顔をした母親が凛太郎にゆっくりと話して聞かせた。
亜紗の両親が、事故で亡くなったというのだ。
亜紗と会えないまま数日が過ぎ、その間に、亜紗は東京いる親戚の叔父さんの元で暮らすことが決まった。瞬く間に、転校と引っ越しの段取りが進み、亜紗と話せたのは、引っ越しの当日になってからだ。
その日、颯は野球チームの大事な試合があった。代わりに、凛太郎はひとりで亜紗の実家の前に見送りに行った。けれど、家に着くと亜紗の祖父が血相を変えて、凛太郎の肩を掴んだ。
「亜紗、どこいるか知らんか?」
亜紗の祖父から話を聞けば、東京に行きたくなくてどこかへ逃げ出したという。
凛太郎は、まっさきにいつも3人で遊んでいる神社に向かった。予想通り、境内の隅で縮こまるように膝を抱えている亜紗を見つけた。
何も言わずに隣に腰を下ろすと、やがて亜紗はおもむろに口を開いた。
「東京なんて行きたくない。友達もいないし……叔父さんのことだって、よく知らない。おじいちゃんとおばあちゃん家にいられたらよかったのに」
この頃、入退院を繰り返したいた祖母の介護があり、それは叶わなかったようだ。
「東京に、行きたくない」
亜紗は、繰り返すように言った。
「……住んでみたら、東京もいいところかもしれないよ」
精一杯の励ましのつもりで言ったけれど、亜紗の瞳には涙が溜まっていく。
突然、両親を失って、見知らぬ街で暮らさなくてはならない亜紗が、どれほど心細いかはわかっていたつもりだ。それでも、どんな言葉をかければ、亜紗の気持ちを少しでも救えるのか、わからなかった。
こんなとき颯なら、もっと気の利いた優しい言葉をかけたれたのに。今、ここに颯がいてくれたら。そう思ったことで、余計に凛太郎は情けなくなった。
「ここにいられる方法、ないのかな……」
「……俺たち子供にできることなんて、何もないよ」
迷いに迷って言ったくせに、飛び出したのはそんなひどく冷たいひと言だった。
傷つけてしまった自覚がすぐに湧いた。けれど、亜紗は涙を引っ込めて、笑顔を張り付けたのだ。こんな顔をさせてしまったのは自分のせいなのに、いっそのこと思いっきり泣いてくれたらよかったとさえ思った。
「……わたし、行くね。みんなに心配させちゃってるだろうから」
亜紗は腰を上げると、凛太郎を振り返った。
「元気でね。凛太郎も、颯も」
「亜紗も……」
亜紗は最後まで涙を見せずに、神社を立ち去っていった。
どれくらいそこにいたのかは覚えてない。いつの間にか、暗くなり始めた空から、ポツリと雨が降り始め、あっという間に地面を濡らしていった。
強い雨音を聞きながら、いつまでも境内の隅から動けずにいた。
このときの後悔を、今でもときどき思い出しては歯がゆくなる。
けれど、こうも思う。もし、もう一度あのときに戻って、やり直すことができたとしても、また同じようなことしか言えなくて、同じように悔やむんじゃないかと。
だって、あのときは、亜紗を引き止める術も、何か目の前の現実的な問題を解決する方法も何も持っていなかったのだから。
目を覚ますと、部屋の中はまだ薄暗かった。
それでも、しばらく眠っていたのだろう。頭はぼんやりしていたけれど、身体の疲労はある程度取れていた。
時計を見れば、明け方近くだ。窓の外から、雨の音は聞こえない。眠る前に降り出した雨は、夜中のうちに止んだようだった。
凛太郎はそのままベッドから抜け出すと、顔を洗い、寝間着を脱いで制服のシャツに腕を通す。起きたときには、もう心は決まっていた。
空が白み始めた頃、凛太郎は自転車で学校へと向かった。
時間が早過ぎたのか正門は開いていない。自転車を降りて、開ければいいのだが、面倒で通用門まで回ると開いていたので、そこから中へと入った。
部室棟は、建物自体の扉は24時間ずっと開いたままだ。それぞれの部室の扉に鍵がかかっているだけだから、鍵さえ持っていれば、いつでも部室に入ることができる。とはいえ、この時間に部室に来るような学生はいない。しんと静まり返った部室棟の廊下を進み、凛太郎は地図部の部室の鍵を開けた。
地図部の部室はシンプルだ。中央に広いテーブルが置かれ、壁に添うように棚が並んでいる。棚にぎっしり詰まっている地図関連の本は、8割ほどが顧問である倉間が地道に集めた私物だ。部費で用意したものが2割程度を埋める。
凛太郎は荷物を置くと、さっそく学校関連の本が並んでいる棚を漁った。目当ての物を見つけ、思わず頬を緩める。倉間は、凛太郎以上の地図好きだ。きっと、あの先生ならこの学校の敷地に関する資料を集めたことがあるだろうという凛太郎の読みは当たっていた。
凛太郎は、テーブルの上に半透明の薄くて大きな紙を2枚広げる。
「よし、やるか」
気持ちを整えるために呟いてから、目の前に広がる紙と向かい合う。そして、本を参考にししながら、定規で線を引き始めた。
紙の上で、縦に伸びる2本の線は正門から続く通り道になり、四角く囲った線は校舎となる。縮尺を計算し、黙々と線を足していく。
まだ薄暗かった空が次第に明るくなり、日が高く上り始めた頃、2枚の地図ができあがった。1枚は、今現在の学校の敷地内の地図。そして、もう1枚は20年前の学校の地図だ。今の地図と過去の地図の縮尺を合わせ、比べられるようにしたのだった。
凛太郎は2枚の地図を重ね、窓に張りつける。すると、窓を通して差し込んだ朝の光が半透明の紙を透かす。こうすることで、赤いペンで書いた過去の地図と、黒のペンで書いた現在の地図とを重ねて見ることができる。
「何してんの?」
声に振り返ると、扉の前に颯が立っていた。
散らかったテーブルの上と窓に張り付けられた地図に、颯は目を丸くしている。
「颯こそ、どうしたの。こんなに朝早く」
凛太郎もまた驚いて、聞き返した。
「いや、言うほどそんな早い時間じゃないよ」
言われて時計を見れば、もう9時を回っている。いつの間にこんなに時間が経っていたのだろう。
「で、それ何なの?」
地図にちらっと視線を向けながら、颯がもう一度尋ねる。
「何って、探すんだよ」
凛太郎は颯を振り返って答える。すると、颯の顔にだんだんと期待の色が滲んだ。
「探すって、もしかして……」
「見つけよう。桜の下に埋められたままの手紙」
そう告げると、颯の顔が綻ぶ。
「さすが、地図オタク」
朝の光を受けて、颯の瞳が輝いている。ワクワクしているというよりも、凛太郎だったらきっとそうするだろうという予想が当たったことを喜んでいるようだった。
20年前、埋められた手紙。学校の桜の木は、100本以上ある。残されたヒントは謎のまま。いい案があるわけでもない。
それでも、いつまでも何もできない子供のままでいたくはなかった。
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