今度こそ幸せになって

がてら

第1話 裏切り

 薄暗い路地を抜けると、そこには鬱々とした貧民街が広がっている。


 煌びやかな社交界が展開される皇宮の目と鼻の先に、現実はしっかりと根をはっていた。


 今や肩を並べるものなどいない強国となったアヴィエス帝国は、一見明るく賑やかで庶民さえも潤った豊かな国だが、それは誰かの犠牲の上に在るということをこの場所は教えてくれる。


 ユザは長い銀髪を結い上げてフードで隠し、旅商人風の衣を纏って路地に足を踏み入れた。


 歩を進めるごとに足元で転がっている民の数が増える。


 息をしているのか確かめることは到底できなかった。


 貧民街中央にぽっかり空いた広場――ごみ捨て場の前でユザは足を止めた。


 脳天を突き破るようなひどい悪臭が辺りに充満しているが、ユザは表情を変えずごみ捨て場に群がる人々をじっと見つめていた。


「あの……」


 ふいに背後から声をかけられ、ユザは身じろいだ。


 振り返ると、ユザと同じくらいの年頃に見える少女が恐る恐るといったふうにユザを見上げていた。


「時々来てる人ですよね……?」


「……」


「あの、もしよかったら、助けてもらえませんか」


 聞くと少女の兄が酷い怪我をして帰ってきて以来、熱が下がらないという。


 少女に連れられてぼろやに足を踏み入れると、ぼろぼろの少年が壁にもたれ掛かり、肩で息をしていた。


 近くに寄ってみれば体中に打撲痕と傷がある。


 少年はユザに気付くと掠れた声を出した。


「君は……?」


「喋らないで」


 傷口を一通り綺麗にして近くの露店で買った果物を少し食べさせると、少しは楽になったようだった。


「なぜ殴られるようなことに?」


 訊ねると少女が俯いて、言い訳するように呟いた。


「私たちエイドラだから……」


「ばか。言うんじゃないっつったろ……」


 咳こみながら兄の方が咎めるのを聞いて、ユザは唇を噛んだ。


「言うな」という兄の言は正しい。


 エイドラは帝国建国前からある宗教であり、それを信仰する人々であり、帝国経済の基盤だった。


 この兄妹も元は大通りに面した屋敷のお坊ちゃんであり、お嬢さまだった。


 兄妹が今こうして必死で命を繋ぐためだけに生きるようになったのは、“エイドラだから”――――


 これがアヴィエス帝国の現実であり、エイドラの人々が負わされた不条理だった。



 ***



 バンッと大きな音を立て、ユザは皇帝の眼前に分厚い書類の束を叩きつけた。


「こちらは我がアヴィエス帝国内で生じたエイドラ被害の報告書、そしてエイドラ排除による帝国への悪影響の可能性をまとめたものです。最後に対策のご提案をしました。ご一読願います、陛下」


 美しいヘーゼルアイを輝かせるアヴィエス帝国の末皇女、ユザフィリア・アヴィエスは自信と使命感に満ちていた。


 我が計画がようやく成すのだと胸が高鳴った。


 皇帝が口を開くまでは。


「くだらない」


 革張りの椅子に腰かけた皇帝は背もたれに全体重を預け、腕を組みながら溜め息を吐く。


「これは、本当に必要か?」


 うんざりしたような皇帝の声にユザの目尻がピクリと動いた。


「……と仰いますと?」


 皇帝は口を開くことすら億劫そうに眉をひそめ、机をトントンと叩いた。


「エイドラへの迫害はあくまで我がアヴィエス皇家の管轄外で生じていることだろう。エイドラに手を貸せば、むしろアヴィエスが煽りを受けそうだ。それでも我々がわざわざ手を打つ必要があるか?」


 まるで他人事だ。


 ユザは拳をきつく握り締めた。手のひらの爪が食い込んだところが鋭く痛む。


 エイドラの人々への迫害は、今この瞬間も城下で横行しているというのに、どこまでも身勝手だ。


 しかし残念なことに、この皇帝を説得しないことにはユザの念願が果たされることはない。


 そっと深呼吸をして、ユザは慎重に言葉を選んだ。


「エイドラの人々はアヴィエス皇室成立以前からこの地で血を繋いできた者たちです。エイドラの思想はその当時から続いている。そして彼らのお陰で今の強靭な帝国経済が築かれたのは言うまでもないでしょう」


「我がアヴィエス帝国の民は、エイドラの者たちのせいで職を失っていると聞いたが?」


「それは……!」


 皇帝は前のめりになったユザを右手で制止すると、やれやれと言わんばかりに溜め息を吐き、部屋の隅に控えていた執事を招き寄せた。


「このつまらぬ紙束を燃やしておけ」


「陛下!」


 ユザは反論も抗議もする機会を与えられぬまま、あっという間に皇帝の執務室を追い出されてしまった。


「……もういい」


 ユザは唇を噛んだ。


「私がやる」


「――何を?」


 嘲笑混じりの声に振り返ると、第二皇子ラーゲン・アヴィエスが薄い笑みを張り付けていた。


 ユザの天敵であり、いつも腹の底が読めない兄だ。


「ラギ兄さまが、なんのご用ですか」


「またエイドラか?」


(……人の話を聞かない兄だ)


 心の中でそっと溜め息を吐きながら、ユザはラーゲンの目を見ることなく歩き出した。


「……私以外に取り組む方がいらっしゃらないようなので」


「やらないんじゃなくて、やる価値がないんだろ」


 吐き捨てるように言って、茶色の目を細めたラギは鼻で嗤う。


「甲斐甲斐しいなあ、お前は。兄上の婚約者になったからって張り切っちゃってんだろ? 素直にそう言えばどうだ?」


「ラギ兄さまには関係のないことです」


 突っぱねたものの、ラーゲンの言葉は真実だった。


 先日ユザは、長兄である皇太子イサク・アヴィエスの婚約者になった。


 兄妹で契るのはおかしいと思うかもしれないが、これには訳がある。


 イサクとユザは実の兄妹ではなく、いとこなのだ。


 先刻の皇帝はユザの母の兄――伯父であり、今は養父である。


 皇太子イサクと末皇女ユザの婚約は近親婚を禁ずるアヴィエス帝国内でも“合法な”兄妹婚であり、皇室の権威を保つにはもってこいだった。


(イサク兄さまの妻になれるなんて、夢みたいで……正直今でも信じられないけど)


 皇帝に婚約を命じられた後のイサクに向けられた微笑みを思い出し、頬がかっと熱くなる。


「兄上の何が良いんだか」


 つまらなさげなラーゲンの呟きで、ユザは一気に現実に引き戻された。


「正直言って優しいだけで、お前に何かしてやったとかはないだろ」


(それは違う)


「イサク兄さまは優しいわけではありません」


「は?」


「話し方は確かに優しいけれど……ラギ兄さまの仰るような優しさとは違います」


(イサク兄さまは皇太子として兄として、すべきことを理解して動ける人。私情も偏見も捨てて、ただ己の使命のために邁進できる毅い方だ)


「それを優しさだなんて雑なくくり方をしないでください」


「お前――」


「――ユザ?」


 口を開きかけたラーゲンを遮るように、柔らかな声が降ってきた。


「ラギと二人で何してるの?」


「イサク兄さま!」


 ユザはぱっと顔を輝かせ、声の主のもとへ駆け寄った。


 イサク・アヴィエス。

 アヴィエス帝国の誇る皇太子。


 深い青の瞳と髪はイサクの落ち着いた佇まいと調和していて、凛とした姿がそこにあるだけで空気が引き締まった。


 久方ぶりに見る彼の姿は、どこまでも穏やかで、端正な顔は心なしか物憂げに見えた。


 ユザが手を伸ばすよりも早く、イサクは彼女の柔らかな銀髪をそっと撫でた。


「また、父上に上申してきたの?」


 口調は柔らかいが、全て見透かしたような声にユザはコクリと頷いた。


「はい……でも、今回は本当に大事な話で。兄さまもご存じでしょう? エイドラの人々は――」


「ユザ」


 イサクは悲しげに目を伏せる。


「君がどれだけ真剣に取り組んでいるか、分かっている。けれど……父上を動かすには、ただ情熱を示すだけじゃ足りないんだ」


 それはイサクが誰より理解していることだった。


 嫡男として、後継者として。


「……では、兄さまならどうしますか?」


 ユザの声は震えていた。言葉こそ試すようだったが、ユザのヘーゼルアイは不安げに揺れている。


「このまま、動かないまま見殺しにするんですか?」


 ラーゲンが鼻を鳴らした。


「父上を説得できないなら、お前の理想は秩序を壊す火種にすぎないだろ」


 ユザが振り返って睨みつけるよりも早く、イサクが静かにラギの言葉を遮った。


「ラギ、僕は今ユザと話しているんだよ」


 ぴしゃりと告げられ、ラーゲンは一瞬怯んだ。


「……はっ。やってらんね」


 踵を返して去っていくラーゲンを一瞥すると、イサクはユザの方へ向き直り、静かに、しかし真っ直ぐに言葉を紡いだ。


「君の報告書、僕が読みたい。君の見た現実を、僕にも教えてくれないか?」


 ユザの瞳が見開かれる。


 良いのだろうか。


 ここまでずっと一人でやってきた。


 兄さまに頼っても、いいのだろうか。


 聞き心地の良いイサクの声に思わず思いが溢れた。


「……本当に、読んでくれますか?」


「もちろん。皇帝が拒んでも、僕には見る義務がある。何より見てみたい。次代の皇帝としても、ユザの婚約者としてもね」


 イサクの言葉は、ユザの胸にまっすぐ降りた。


 この人なら、分かってくれる。


 ユザはイサクに希望の光を見ていた。


「……ありがとうございます、兄さま」


「じゃあ、僕は父上に呼ばれているから、部屋に戻っていて。後で向かう」


「はい」


 気持ちの高揚を感じながら、ユザは自室に下がった。


 報告書の写しのほかに何を見せて何を話そう。


 そんなことを考えながら、イサクに見せる書類などを揃え、まとめた。


 希望が、あった。


 たしかに、あったはずだった。


 だがその日、イサクが姿を見せることはなかった。



 それでも、ユザには立ち止まっている暇などなかった。


 むしろ一人で走る決意が固まっていた。


 出来ることは全てやった。


 力は尽くした。


 たとえそれが度を越えていたとしても。



 皇帝に呼び出されたのはそれからおよそ半年後。


 あと一歩で膿を出しきれるというところだった。


 侍女に「話は大広間で」と言われ、ユザはのこのこと付いていった。


 普段呼び出されるのは執務室だったが、なんの疑いも持たなかった。


 ようやく捕らえた獲物の尾を目の前にして、浮かれていたのかもしれない。


 ――行ってみれば、そこは地獄の入り口だった。


「ユザフィリア・アヴィエス。国家反逆及び内乱教唆の罪により、皇帝命にて拘束する」


 その言葉を告げたのは、他でもない皇太子イサク・アヴィエスだった。


 雷に打たれるとはまさにこのことだろう。


(――イサク兄さまがなぜ?)


 自分のことを信じてくれているのではなかったのか。


 あの日、頭をなでて微笑んでくれた。

 頑張りを認めてくれた。


(あの、イサク兄さまが……?)


 意表を突かれ、驚きと衝撃が一通り駆け巡った後、不意に思い当たる。


(あの晩、結局自分のもとに訪れてくれなかったのは……)


 声の震えを悟られないよう、ユザは努めて平坦に尋ねた。


「何を、仰っているのですか?」


 イサクもまた、何の感情も読み取らせない声で告げた。


 何の迷いも感じられない声で。


「……皇太子として兄として、ただ己の使命のためにすべきことをしている」


 どこかで聞いたような台詞。


 イサクの深い青の瞳が酷く冷たいものに感じられる。


(……ああ……)


 ラーゲンに己が放った言葉が脳裏に蘇る。


 ――イサク兄さまは皇太子として兄として、すべきことを理解して動ける人。私情も偏見も捨てて、ただ己の使命のために邁進できる毅い方だ――……


 思い当たった瞬間、強く打たれたような衝撃に打ち震えた。


 わずかに身じろぐと、すでにユザの周囲を取り囲んだ衛兵たちが無言で剣を構え、一切の動きを封じた。


 ユザに許されたのは弁論のみだった。


「どういうことです。皇帝命とは――」


「黙れ」


 低く響いた声は、ユザに残された最後の手段すらも禁じた。


(皇帝、陛下……)


 玉座の奥の扉が開かれ、重々しい足取りで現れた皇帝の瞳は、いつも以上に冷え切っている。


「証拠は上がっている。お前がエクリオス帝国と通じていたことを示す書簡、武器の密輸記録……全て、この手にある」


 そんなものは知らない。


 捏造に違いなかった。


 それはつまり「覆せない」ということ。


 誰かの強い意思が働いて、この状況に持ち込まれたのだ。一人で覆せるはずがない。


 誰かが、罠を仕掛けたのだ。


(気付かなかった。いや、気付けなかった私の……敗けだ)


 悟ったユザは抗議の言葉を呑み込んだ。


 皇帝はユザに無関心ではあったが、むしろ、だからこそ、意図的にユザを追い落とすようなことはしない。


 でなければ、みなし児だったユザをわざわざ養女にするはずがないのだ。


 だから「皇帝を動かすほどの何かがあった」、そう考えるのが自然だろう。


「残念だったな、妹姫。婚約者の庇護もないとは。せめて最後に、祈っておいたらどうだ?」


 そう嗤ったのは、ラーゲンだった。


 いつの間にか皇帝の傍に立っていた彼は、口を歪めて冷ややかな視線をユザに注いでいた。


「……ラギ兄さま」


(悔しい)


 黒幕の目星さえつけられないことも、この場に引きずり出されるまで気づけなかったことも。


「ユザフィリア・アヴィエス」


 皇帝の声が、城内に重く響く。


「皇女ユザフィリア・アヴィエスは本日をもって皇族の資格を剥奪され、全ての称号と特権を失う。罪状により、三日のうちに処刑されることが決定した。以上だ」


「……っ、待ってください!」


 ユザを徹底的に地獄へと突き落とすためか。


 皇帝は目を細め、苦々しげに吐き捨てた。


「裏切り者の子も、裏切り者だったか」


(……それは)


「それは母のことを仰っているのですか」


 ユザが叫ぶ声も虚しく、皇帝は背を向けて歩み去っていく。


 兵たちに両腕を押さえつけられながら、ユザは崩れそうになる意識を必死に支えていた。


(まだ……終わってない。絶対に……終わらせない)


 その瞳には、涙も絶望もなかった。


 あったのはただ――燃えるような意志だけだった。

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