第6話 レプリカント(人間擬き)は、そこにいる

現代においても、私が高校時代(50年前)のある同級生(在日韓国人)は、日本人とか韓国人という以前、人間としての存在感がまるでなかった。

情緒・情感・心の機微・人間的な思惟・心情・信条が希薄というか、ほとんどないというか、早い話、人間性・人間味が全く感じられない「生き物」だったのです。


私たちの高校は全寮制だったのですが、三年生の時、私の部屋(部屋の8分の1を占める私のベッドや机のある領域)には、毎日、夜の学習時間(7時半から10時半まで)、必ず誰かが来てお茶を飲んで話していました。

当時の三年生約200名の内、100名くらいは来ていたでしょうか。私はコーヒー豆を自分で煎り自分で挽いて、その都度淹れるのが趣味で、紅茶もトワイニングが何種類もありました。ご禁制の電気ポットや電気コンロまで持っていたのは、凝り性の由縁です。

また、私が人間を選り好みしない性格なので、いろいろな人間が来る。浪人すれば絶対に東大に行けると教師に言われた外交官の息子、現役で防衛大学医学校に入った奴、少年院上がりのワル、等々。


そんな部屋は、学校中で私の所だけだったのですが、その100人とは学校だけでなく寮でも、時には2・3時間も話していたわけで、その意味では彼らの人間性は味わうことができました。ところが、この在日韓国人には、「人間」としての輪郭が無い。

実は、彼はどこへ行っても在日ということで敬遠されていました。

皆、彼が「オレは在日だ、叔父さんはヤクザだ」なんて言い回るので、表面的には普通に話していましたが、心の中ではみな毛嫌いしていたのです。

ところが、私だけは思ったことを正直に口に出して言うので、私自身にフラストレーションが溜まらない。「お前(在日)の話ってのは、どこまでが本当で、どこがフカシ(ほら話)なんだよ ?」とか、「いい加減なこと言うんじゃねえ、このバカ !」なんて言って、正直に付き合うことができた。だから、彼も私にだけは気兼ねせずに話ができる。ですから、彼は毎日必ず、私の所へ来ていました。多いときは3回くらい来て話をしていました。同級生たちからすると、そんな私たち二人は「親友」に見えたそうです。


互いに心を分かち合うのが親友なんですが、しかし、そういう友ではなかったのです。

この在日韓国人は、確かに他の日本人に比べると、まるでロボットのようでした。彼の話は面白いのですが、全部他の人間の話や物語りばかり。当人自身の心の機微とか情感とかがにじみ出てくる、なんてことは一度もなかった。プログラムされたことしかできない、メモリーに記憶された話しを何度もする。彼が「あいつがこんなバカなことやってよ・・・。」なんて話し始めると、私は三本指を立てて「その話は三回目だぜ」という警告・表示をしたことが何度もあります。

日本人の場合は、ある面白い出来事や事件があると、そこから自分の情念や思惟によって様々な展開が派生し、話に広がりと深みが出てくるものなのですが、この在日韓国人の場合、それがない。

100人の内の誰かしらが、しょっちゅう私の部屋に来ていましたが、毎日必ず来るのはこの在日と、浅草の大工の息子(日本人でハンドボール部)、そして、「タイの無法松」と呼ばれたタイの船場人足の親方(日本人)の息子(でハンドボール部)、この三人でした。話の派手さや面白さでは在日韓国人が一番なのですが、心に残らない。存在感がありそうで、実は極めて希薄なのです。


やはり、(在日)韓国人特有の精神的な存在感の希薄さ、というものであり、それは、1986年の米映画「ブレード・ランナー」で描かれた、レプリカントという人造人間(サイボーグ)の精神的な脆さ・不安定さを思い起こさせます。

彼らレプリカントには記憶がない。外部から記憶を刷り込むことで、それを自分の記憶と錯覚し、安心するのです。

「韓国人」もまた、2,000年間の強烈な戦いの記憶がなく、中国の属国として隷属していた、ある意味で安穏とした平和な日々を過ごしていたが故に、しっかりとした存在感のある記憶にならない。むしろ、韓国政府やマスコミの刷り込む記憶の方を自分たちの記憶として信じ、安心する。

映画「ブレード・ランナー」におけるレプリカントとは、アメリカ人のを描いているのですが、アジアにおいては韓国人(そして、やはり洗脳された多くの台湾人)のことなのです(アジアにおいて、ベトナム人は中国人と並び、自己がしっかりしているし、国家としての歴史認識も、韓国人のように浮ついていない。)


私の「思い出は一瞬のうちに」という本で紹介した、私の強烈な記憶。そんな記憶が彼ら「韓国人」には誰も持っていない。民族全体としても、無い。

そんな記憶のない人間たちが、現在(2023年)の今、政治家やマスコミ、医者や警察官になってこの日本という国の運命を左右する立場にある。

私は「日本崩壊」など、どうでもいい。なるようにしかならないのですから。

しかし、自分自身がこの「記憶のない・存在感の無いレプリカントたち」に引きずられて、自分の記憶までをも薄まっていくのが怖いというか、不愉快なのです。


ですから、こういう一文を公表して、せめて自分の記憶だけはしっかりと持ったまま死んでいきたいと思っているのです。



因みに、上述したあるOB(在日韓国人)は、私たち日本人と同じ感覚が(私には)感じられました。おそらく、この先輩が大学1・2年生の頃、地獄のような練習や部活生活で精神的にも鍛えられ、韓国人というよりも、人間としての存在にまでこの人の魂が近づいたからだと思います。

当時の我が校の日本拳法部とは、○ちがいじみた世界でした。40度の高熱の病人でも練習に参加させ、動きが鈍いといって竹刀でボコボコ叩く。肋骨3本にヒビが入っているのに、いつもと変わらず(防具)練習をさせる。

そんな世界では、日本人とか韓国人の殻を被っていては生きていけない。人間の原点にまで自分という存在を自覚しないとやっていけない世界だったのです。

<続く>

2023年8月30日

V.2.1

2023年9月1日

V.3.1

平栗雅人

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

病院編 大学日本拳法で学ぶ問題解決の思想  V.3.1 @MasatoHiraguri

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る