第八幕 無明長夜(後篇) ⑤

 


——殺人バット……⁉

 見間違いじゃない。確かに奴はそこに立っている。血塗れの体を引きずるようにしながらも、確実にこっちを向いて。

 いつの間に、こんな早く——そんなことを考える暇もなく、反射的に紗綺は地面を蹴った。驚いた康峰の目がこっちを捉えると同時に叫ぶ。


「伏せろ、先生!」


 だが——

 紗綺の声に反応したのか。

 それとも最初からそれが狙いだったのか。

 殺人バットは康峰ではなく、そっちに迫ってきた紗綺に向けて動いた。

 奴の体から青い炎が吹き上がる。

 その拳が紗綺の腹を襲った。

「………っ!」

 弛緩していた肉体に容赦ない一撃が襲う。

 視界が激しく揺らぎ、紗綺の体は地面を転がった。

 瓦礫の壁に背中をぶつけて倒れ込む。

紅緋絽纐纈べにひろこうけつ!」

 康峰の叫ぶ声が聞こえた。

 殺人鬼が獣のように空に向かって吼える。

「……ぁぁぁあああっ! クソクソクソクソクソッ! クソがっ!」

 その濁った声は先ほどまでと一変して、獣のような咆哮だった。

「マジでふざけんじゃねぇ! 俺が、この俺が使徒だ! 選ばれた者なんだ! お前らクソ共に負けるなんて有り得ねぇんだよクソがあぁっ!」

「誰か聞け、殺人——」

 康峰が咄嗟に胸元から無線を取り出した。だが言葉を続ける暇を与えず殺人バットの右手が走る。青い炎が康峰の腕を激しく打ち、無線が宙を舞って落ちた。

「ぅっ……!」

 腕を打たれた痛みで康峰が倒れようとするのを、それより早く左手で殺人バットが喉を掴む。そのまま康峰の体が宙に浮かされる。

 喉笛を握る手に力が込められた。

「先生っ……!」

 紗綺は何とか声を出したが、激しく噎せて言葉にならない。体も動かない。

 まずい——

 全身の血が引いた。

 剥き出しの殺意を見せた殺人バットが本当の人外の化物になったように見えた。男は康峰の首を掴んだまま濁った声で言う。

「生かしといてやるつもりだったのによぉ——ムカつかせやがって」

 康峰に動きはない。

 この位置からではその表情も読めない。

 全て諦めたように、四肢は弛緩して抵抗する気配もない。

——駄目だ。

 紗綺の視界は絶望で暗くなった。

 何も助ける手段が思いつかない。


「やっぱ、死ね」


 康峰の喉笛を掴んだ手に青い炎が奔った。

 殺人鬼の全身を包んだその青い炎は、康峰を巻き込んで激しく渦巻いた。

 紗綺は俯き、固く唇を噛み締めた。


***


 空が見える。

 夜明けの近い空に仄かに月と星が浮かんでいた。

 一瞬か数秒か——意識が途切れたかと思うその間、俺はそれを見ていた。


——何で俺が⁉


 全身が地面に杭を打たれたみたいに動けない。指一本上げるのにも激しく痺れて言うことを聞かない。こんなことは初めてだ。

 だがこの現象を俺は知っていた。

 《反動》——⁉

 《冥殺力めいさつりき》や《冥浄力めいじょうりき》を誤った相手に使用した際に使用者の肉体に引き起こされる現象。煉真が授業で聞かされた内容だ。いま自分の身に起こっている現象はそれとしか思えない。

 だがなぜ俺に?

 倒れるのは俺じゃなくあいつのはずだ。なぜ俺がこうして倒れてる? 何が起きた?

 動転する頭でようやく目を動かし周囲を見た。

 俺が殺そうとした男は目の前で突っ立っている。黙って俺を見下ろしていた。

 少し離れたところに紅緋絽纐纈紗綺が倒れている。呆気に取られてこっちを見ていた。その顔から見てこいつが何かやったとは思えない。

 周囲に他には誰もいない。誰かが不意打ちを食らわせたわけでもない。

——《冥殺力》と《冥浄力》を間違えた? いや、そんなことはない。俺はいま確実に《冥殺力》を使った。じゃあこいつが何かを仕掛けた?


「てめぇっ……、何をした⁉」

 辛うじて俺は声を発した。

 瘦せ細った白化病の男は無言でこっちを見下ろしている。

 揺らぐ視界でうまく表情は読めなかった。

 ……いや。

 違う。

 こいつは何もしていない。そんな気がする。じゃあ何が?

 その途端——

 激しい衝撃が脳天を突き抜け、全身を駆け抜けた。


『仮に使徒の言葉に嘘があったとしても、全部が嘘とは限らない。使徒だって神様じゃないんだ、何でもかんでも知ってるわけじゃないだろ?』


 直感的に走り抜けた衝撃に動悸が激しくなる。黙って目の前の男を睨みながら、冷や汗が浮かぶのを止められなかった。


『どんな馬鹿でも死人を攻撃はせんからな』


 何だ?

 俺は何か、致命的な何かを見落としている?

 次第に日が昇り始める。

 瓦礫の景色が朝日で色づく。

 唇から自然と呻き声が漏れた。

「何だよ、お前……」


『奴らも人間も生物であり、そして生きている限り・・・・・・・必ず何らかの波長を持つ』

『そうすると《反動》も、正確には『相手に合わない波長・・・・・・・・・で攻撃するために引き起こされる現象』——力の逆流のようなものと解釈するべきだろう』


 それはつまり——まさか。いや、でも。そんなことがあるのか?

 聞いたこともない。当然だ。誰も知らない。

 そんなことは使徒でさえやったことがあるはずがない! 試す必要がない!

——死人相手・・・・にこの力を使えばどうなるかなんてことは!


『そんなに強く殴らなかったろうが。てか本当に死んでたのか?』


 朝日が目の前の男の表情を徐々に映し出す。

 その男に向かって——

 俺は声の限りに叫んだ。


「何なんだよお前は、軛殯くびきもがり康峰やすみね!」


『俺は強いショックや攻撃を受けると心臓が止まりやすい体質なんだよ』


 白目を剥いた軛殯康峰の《死体》が、ゆっくりと後ろに傾き始めた。



 

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