第九幕 闇 ①

 



「とんでもないことをしてくれたな」

 乱暴に報告書を机の上に放り出し、冥坂くらさか黎文れいぶんは言った。

 そのまま正面に立つ■■に鋭い視線を向けてくる。

 ■■は何も言わない。

 こうなることは予想できたことだ。何も動揺することじゃない。

 ふたりしかいない部屋にしばらく沈黙が流れる。

 やがて——沈黙を破ったのは冥坂の溜息だった。

 声を落として彼は話し出す。

「昨夜お前が逃がしたのはただの女の子じゃない。我々にとってかけがえのない切り札だった。この戦況をひっくり返し、勝利する最後の希望だったんだ。それをお前は——」

「知ってますよ」

 ■■は冥坂の言葉を遮る。

「俺をまだ何も知らない子供とでも思ってるんですか? 彼女は使徒の娘だった。そして彼女自身も——使徒のひとり。全部、承知の上で起こした行動です」


 昨夜遅く。

 ■■は少女の監禁されている部屋に忍び込み、彼女を脱走させた。

 その後半日以上監禁されたあと、ようやくこの男の前に連れ出されたのだ。

 この男——冥坂黎文はこの機関において重要な人物だ。

 使徒戦争が長引き、有力な人材が死亡或いは流出した現在、機関を最前線に立って先導している実質的主導者と言っていい。

 使徒戦争——

 使徒を信奉或いは利用しようとする派閥と、使徒を否定し排除しようとする派閥との戦争は数年にわたり、苛烈を極めた。だがその戦いに愈々終点が見え始めている。無論、反対派の敗北という名の終点だ。

 それでも反対派最後の防波堤としてこの機関は粘り続けている。

 逆に言えばこの機関が崩壊してしまえば、最早敗北は必至だろう。

 そして状況は確実にその方向に傾きつつある。組織の内部にいる■■は肌でそれを感じていた。着実に敗色の空気が広がっている。戦士は疲弊し、物資は底を尽き、姿を晦ます者さえ後を絶たなかった。

 冥坂はそんな組織を辛うじて支え続けてきた。

 白髪混じりの髪、痩せこけ土気色の顔は老人かとさえ見紛う。だがその眼は飢えた獣のように血走り、瞳の奥はいまなお激しい闘志の灯火が燃えていた。

 彼はその優れた頭脳で作戦を立て、その情熱で戦士を鼓舞してきた。本人があまり語りたがらないので定かではないが、かつて学舎まなびやで教鞭を取っていたとも噂される。その名残からか《先生》と呼ぶ者も多い。

 そして——■■にとって、自分を保護し育ててくれた父代わりでもある。


 ■■はいわゆる戦災孤児だった。

 だが別に珍しいことではない。度重なる戦争で似たような境遇の子供も大勢いた。大抵は餓死するかろくでもない連中に捕まるかするなか、彼のような人物に保護されたのは僥倖と言っていい。まだ十五歳の■■にもそのくらいのことは分かった。

 冥坂黎文は尊敬できる人物だ。

 それなのに——

「父さん、こんなやり方は間違ってる。いくら勝たなきゃいけないからって女の子を捕まえて、人体実験までして、それで勝てたとしてどうなるんですか? そんなの父さんのいままでのやり方じゃないでしょう?」

「父さんと呼ぶな、いまは」

 養父はにべもなく言った。

「お前は何も分かっていない。あの子はただの使徒の血統というわけではない。それ以上に特殊な体質だった」

 冥坂は『息子』に言って聞かせるというより、自分に言い聞かせるように喋った。

「……使徒はそれぞれ特殊な能力や体質を持つが、そのなかでも彼女の肉体は特殊だった。彼女は未知の病原菌を操る力を持っていた。これを解き明かせばこの戦争を我々の勝利に終わらせるばかりでなく、生死、老化のメカニズムさえ覆すことさえ可能かもしれない。……どうしても、やらねばならなかった」

 冥坂の額に苦渋の皺が寄った。

 うわごとのように彼は続ける。

「我々は常に不自由で盲目だ。不確定の暗闇にそれでも腕を伸ばさねばならないときもある。限られた情報のなかで模索し、限られた手段のなかから選択するしかない状況もある」

「そんな煙に巻くような言い方じゃ分かりませんよ。分かるように言ってください!」

 ■■は思わず声を張り上げる。

 苛立ちに任せて養父を睨んだ。

 そんな■■を見て養父はゆるゆると首を左右に振る。

「お前は賢い、私から見ても。だがやはりまだ子供だな。分からないのも無理ない」

「分かってないのは父さんでしょう? 俺は何も間違ってない! 後悔することなんて何もないです。例えこの先、どんな処分を受けてもね」

「もういい」

 冥坂がぽつりと言った。椅子を回して■■に背を向ける。「部屋に戻れ。処分は追って通達する」

 これ以上何も話すことはない、という態度だった。

 ■■は黙ってしばらくその後ろ姿を見続けた。

 いままでずっと追いかけ続けた背中を。

「……ええ。分かってますよ」

 ■■は踵を返して歩き出し、一度立ち止まって振り返った。

 養父は相変わらずこちらに背中を向けている。その背中に向けて叩きつけるように言った。

「どうなっても後悔なんてしませんから」



「——何かの間違いだ」

 それから数日後。

 処分を通達しに来た男に■■は思わず声を上擦らせた。

 どんな処分が宣告されても受け入れるつもりだった。心構えしていたはずだった。

 だが、それにしてもこれは——どういうことだ?

「俺のことはいい。だが、父さん——冥坂先生がどうして身柄を拘束されて裁判に掛けられる? あんたたちにそんな権限はないだろ? 何より、先生のこれまでの機関に対する貢献を、この戦争での功績を忘れたのか?」

 矢継ぎ早に疑問をぶつける。

 伝達者は冷ややかに答えた。

「冥坂黎文は一級重要参考人を独断で解放し逃亡させた」

「なに——」

「これはこれまでの功績を吹き飛ばすほどの重罪だ。特別な処分を下さざるを得ない、既に議会で話し合い決定した。変更はない。……そしてそれを幇助したお前も機関から永久追放、機関にいた記録も抹消する。お前は氏名を変え別の人間として——」

「ち、違う! そんなはずはない。ちゃんと調べたのか? 先生は何もしてない。先生と話させてくれ!」

「彼は既に自分の罪を認めている」

「——そんな」

「連行しろ」


 その後のことはよく覚えていない。

 頭が真っ白になったまま、すべてが処理された。

 ■■の財産——なんてものは元からそうなかったが、住処も奪われ、ほとんど何も持たされぬまま車に乗せられ長時間揺られたあと、見知らぬ土地に放り出された。

 ■■の目の前には古びたアパートがあった。機関の男が書類の入った封筒を放り投げてきた。

「ここにお前の新しい名前やこれから住む部屋の鍵が入っている。分かっているだろうが今後一切我々に関わろうとするな。お前はもう誰でもない」

「ふざけるな」

 ■■は震える声を抑えられなかった。

「俺のことはいい。だがどうして先生を処分した? それが機関にとってどれだけ損失になるか分かってるのか? 俺たちは間違いなくこの戦争に負けるぞ」

「さぁな。俺も知らんが、それが上の連中の目的だろう」

「何だって?」

「まだ気付かないのか?」

 男は黄色い歯を見せて笑った。

「鈍い奴だな。もうまともに戦争を続けたがる連中なんて一握りもいないんだよ。お前があのガキを逃がしてくれたことは上の連中にとって都合がよかったろうぜ。大方もう奴らは使徒側と取引してたろうから遅かれ早かれこういうふうになっただろうけどな。一番厄介な冥坂先生をお前が解決してくれた。先生には同情するよ」

 ■■は何か言おうとした。

 だが唇が震えるだけで、うまく言葉が出てこなかった。

 男が■■の腹を蹴った。■■は車内から外の地面に転げ落ちた。激しく背中を打ち付けて目を白黒するうちに、車は排煙を巻き上げて走り去った。

 あとには■■と、なけなしの荷物と——胸の上に置いた封筒だけが残されていた。

 昼下がりの見知らぬ路地に、静寂が戻る。

 それでも■■の脳内は激しい激流に割れそうなほど煩かった。

 渡された封筒のなかにはこれから自分の住む部屋の鍵と、住所等の書かれた紙が入っているようだ。

 そこには■■の新しい名前と経歴も書かれている。

「……ふざけるな」

 かつて覚えたことのない感情が■■のはらわたを焦がした。

 車の去った方へ目を向ける。

 このままでは——終わらせない。


 

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