第八幕 無明長夜(後篇) ④

 


***


 幾度葛藤したことだろう。

 その度に幾度自戒したことだろう。

 金属バットとヘルメット、全身を包む黒いスーツを前にしてそんな自問を繰り返してきた。噂の殺人バットが身に着けていたのと同じ物だ。自室にそれを並べてしばらく見たのち、やがて己に負ける。目の前の物を身に纏って夜の町を渉猟する。

 そのとき不思議と脳裏に蘇るのは養母のことだ。

 涙を流して切々と紗綺さきに訴えかけるその姿だ。


『お願いです、紗綺さん、もう一度考え直してくれませんか? 鴉羽からすば学園は貴女が思っている以上に危険なところです。どうしてあそこへ行きたいなんて言うのですか?』


——私は何も分かっていなかった。

 鴉羽学園に来て禍鵺マガネと戦うのが自分の使命だと思っていた。四方闇島よもやみじまの土を踏むまでの自分のこころには一点の曇りもなく、進む道に何ら疑念を抱かなかった。

 いまはそんな自分が眩しいほどに遠い。


 鴉羽学園に来てしばらくは気付かなかった。だが次第に本当の敵が禍鵺などではないことを内心認めないわけに行かなかった。

 とめどなく腐敗する生徒会。

 それに対し十分な対策も抑止もしようとしない教師達。

 腐敗に侵食され闘志や正義を喪う生徒達。

 脱走を図る者、義務を怠る者が続出する。

 遂には学園内で陰湿で卑劣な暴力やいじめが起こっても、皆が知らぬ顔をした。

 それでも紗綺は禍鵺と戦い続けた。自分にはそれしかできなかった。ただ目の前にはっきりと姿を現し襲ってくる敵を倒すことだけが、頭が悪く不器用な自分にできる精一杯のことだった。

 本当の敵が蛇のように足元から這い寄って来ても、それに気付かない振りを続けた。どうしていいか分からなかった。せめて自分が規範となり生徒がついてくれば——そんな甘い考えで剣を振るい続けた。

 確かに鍋島村雲や馬更竜巻のようについて来てくれる者もいる。だがそれは紗綺の力ではない。彼らが元から正しいこころと信念を持ち合わせていたからだ。紗綺はきっかけに過ぎない。

 そうして——

 最悪の事態が起こった。

 生徒会のいじめによってひとりの少女が自ら命を絶った。

——何故だ?

 ここは化物から人類を守る最前線のはず。

 それがどうして、生徒同士のくだらないいじめなんかで命を落とさなければならない。

 紗綺は抗議した。いままで以上に激しく、生徒会長であり学園一の権力者である天代弥栄美恵神楽あましろいやさかみえかぐら舞鳳鷺まほろに食って掛かった。

 それでも解決に向かわない。夜霧よぎり七星ななほしの自殺事件は曖昧なまま霧に包まれようとしていた。

 そんなときに奴が現れた。


 殺人バットの噂は瞬く間に学園中に広まった。

 そいつは七星のいじめに関わった者を容赦なく撲って殺した。その脅威は膠着した学園の状況を一変させた。

 無論、独断と偏見で人の命を奪っていい道理があるはずがない。それでも、どうしようもなく閉塞したこの状況に風穴を開けたのはそいつだ。そいつがどこの何者か知らない。だが集めた情報から考える限り、七星のいじめに対し強い義憤を抱いているのではないか、と紗綺は考えた。

——彼をただの人殺しとして葬らせたくない。

 ちゃんと自首して罪を償う機会を与えてほしい。

 舞鳳鷺やいまの天代守護に任せていては、事故に見せかけて殺すくらいやりかねなかった。

 何より一度どんな奴か会ってみたい。そのうえで自分が説得して罪を認めさせたい。

 そのためには——彼らに捕まらせるわけに行かない。

「だから私は殺人バットになった」

 紗綺は話した。

 軛殯くびきもがり康峰やすみねは黙って聞いている。


「誓って言うが、誰も殺してはいない。精々うろついている連中にバットをちらつかせ脅した程度だ。たまに絡んで来る者がいても当身で眠らせた。すべては捜査を撹乱するためだ。同時に偽物が現れたことを知り、本物が姿を現すことを期待した。……いま思えば馬鹿げた考えだった、と思う」

 実際、殺人バットは紗綺が期待したような人物ではなかった。今日対峙してはっきりとそう感じた。

 ここまで黙って聞いていた康峰が口を開く。

「けど、お蔭で助かったんじゃないのか——先達は?」

 弾かれたように紗綺が顔を上げる。

 驚きで目を瞬かせた。

「どうしてそれを?」

「やっぱりそうか。あの日、禍鵺に襲われた先達を助けたのはお前なんだな」

 康峰が納得するように頷く。

「灰泥煉真が殺人バットだったとして、さっき奴が言っていたことが犯行の動機だったとして、辻褄が合わなくなることがひとつある。それが俺と先達が初めて会った日のことだ。先達の話では《冥浄力めいじょうりき》を使う何者かがあいつを救った。それがさっきからこころの隅で引っ掛かってたんだ。先達自身も『あれは殺人バットだった気がする』と言ってたが……殺人バットには禍鵺を倒すメリットも、先達を助ける動機もないからな」

「偶然だ。いつものように殺人バットの恰好をして徘徊していたときに襲われている彼を見つけた」

 紗綺はそう言って改めて康峰を見つめた。「驚かないんだな、先生。私が殺人バットでも?」

「驚いたよ。腰を抜かす体力もなかっただけだ。それに、厳密には殺人バットじゃないだろ。フリをしてただけだ」

 康峰は頭を掻きながら言った。

 その反応はいかにも彼らしい気がした。

 思えば先達もあの日の殺人バットの正体に気付いていたフシがある。


何度も・・・助けられてばかりですみません。本当に』


 あの言葉、あのときの視線はそんな気がする。


「で、それを話してどうしてほしいんだ?」

 康峰の質問に紗綺はかぶりを振った。

「別に。どうしてくれてもいい。自分でも何故急に打ち明ける気になったのかうまく説明できない。私を天代守護に突き出してくれても構わない」

「まさか」

 康峰は肩を竦めた。

「これ以上しんどいことに付き合わせないでくれよ。俺はもう帰ってゆっくり眠れたら満足なんだ」

「先生らしいな」

 紗綺は少し笑った。

「でも、そう言ってくれると思ってた。正直」

「それ誉め言葉か?」

「分からない」

 いまになって紗綺は思う。

 養母は分かってたのかもしれない。こうして戦場の最前線に来るということが、こうした危険や陰謀に巻き込まれる可能性を持つことを。だからこそ自分を引き留めようとしたのではないか。

——私はそんなことも考えずに……

 あの人の泣き姿がまた瞼に蘇る。


「やっぱりだめだな、私は……」

 ぽつりと呟いた紗綺を、康峰がじっと見つめる。

「戦うこと以外はからっきしだ。そもそも荻納衿狭に殺人バットの嫌疑がかかったのも私が女子寮にその姿をして戻るのを目撃されたからだ、と思う。要らぬことをして余計に騒ぎを広めてしまった」

 舞鳳鷺が衿狭を連行しようとした際に助けようとしたのも、自分のせいという思いが根底にあったからだ。生徒会の前では正義を振り翳していたが。

「私なんて本当はたいしたことはない。さっきも天代弥栄美恵神楽の言葉に動揺した。あいつのしたことが正しいとは思わない、が——私のしていることがエゴというのは真実かもしれない。……それに、殺人バットの言葉にも——動揺した」

 私たちが——使徒。

 改めてその事実を受け入れようとしても、実感が沸かない。

 ただ、使徒が自分たちを欺いていた、ということに対しひたすら動揺を覚えるばかりだ。

——私はもっとよく考えるべきだったのか。

 何が正義か。

 何をなすべきか。

 真実はどこにあるのか。

 いや、考えても到底自分に現状を変えられたとは思えない。

 結局私にできることは——剣を振るうことだけかもしれない。


「お前が何にそこまでヘコんでるのか知らないけどな」

 康峰が言った。

「案外他にもいたんじゃないのか、殺人バットは?」

「……どういう意味だ?」

「だからさ、お前と同じことを考えた奴がいてもおかしくないってことだ。お前が殺人バットの偽物に扮したように、同じことを考えた奴もいたかもしれない。そうでなくても、お前の正体を知ってて黙ってた奴くらいいたかもな」

 思わずどきりとする。先達のことを言ってるのか。

 いや——

 確かに、彼だけとは限らない。

「ええとつまり、俺が言いたいのは……お前が思い詰める必要はないんじゃないか、ってことだ。殺人バットは言うなればこの学園の現状が作り出した、みんなが作った得体の知れない化物だ。俺にはそんな気がする」

「……そうか」

「少なくとも鍋島や馬更たちのことを悩む必要はないって。あいつらは好きでお前に付いてるんだ。それに、少なくとも俺から見てお前はこの上なく『会長』がサマになってるよ。まぁ、無理に続けろとは言わないが」

 慰めかもしれない。

 だが康峰の言葉は少なからず紗綺の気持ちを軽くした。

「ありがとう、先生」

「う、うん」

「これからはひとりで抱え込まず何でも先生に相談する。ここに誓おう」

「いや、それはちょっと荷が重過ぎると言うか……」

 康峰は話を逸らすように目を泳がせる。

「しかし、殺人バットの偽物とはな。確かに目撃証言にも一致しないものが多かった。道理で……あっ、そうだ! 天代弥栄美恵神楽はどうした? あいつがくたばっちまったら今回の事件の全貌を明らかにすることもできないぞ」

 そう言った康峰が舞鳳鷺を捜すように周囲を見渡す。

 辺りの霧はもうかなり晴れている。鵺火ぬえびも既に燃えカスとなって消えようとしていた。だが周囲はそこまで暗くない。

 どうやら夜明けが近づいているようだ。

 紗綺も舞鳳鷺を捜して視線を巡らせた。

 康峰の背後に目を向ける。

 その瞬間——

 呼吸が止まった。

 瓦礫に埋もれていたはずの男が、そこに立っていた。


 

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