第八幕 無明長夜(後篇) ③
「う……」
——うまく行った……
いや、実際腰を抜かしたと言っていいかもしれない。さっきまでの痛みと疲労がどっと全身の毛穴から噴き出す思いだった。
「先生!」
声とともに駆け寄ってきた。「大丈夫か⁉」
「だ、大丈夫だ。俺は。それより
正直泣き喚きたいくらい大丈夫じゃないのを我慢して康峰は言った。
紗綺は周囲を見回した。先達の姿は砂煙ですぐには見えなかったが、「ごほっ」と咳をするのが聞こえた。
「沙垣先達! 大事ないか?」
「だ、大丈夫です……」
こっちもあまり大丈夫そうじゃない声が返ってくる。
果たして砂煙を潜って現れた少年は足を引き摺り腕を抑えていたが、一応歩けている。殺人鬼に蹴られ全速力のバイクから吹っ飛ばされたにしては掠り傷みたいなものだろう。それを見て康峰もようやく胸を撫で下ろした。
——それにしてもよく成功したな……
無線で先達に呼び掛けたときはああ言ったが、正直成功する保証はなかった。
「うっ、うげえぇぇぇ……」
安心すると吐き気が込み上げてきた。
康峰は両手両膝を地面に着く。
「本当に大丈夫か、先生?」
「先生が一番ヤバそうですけど」
「う、うるさい、ちょっと気が抜けただけだ。そんなことより」
康峰は口元を腕で拭って先達を見た。「早く行けよ。
そう言われて先達が戸惑うように紗綺と康峰を見比べる。
紗綺がふっと微笑んだ。
「ここはもう私に任せてくれ。いまのうちに奴を瓦礫から引っ張り出して拘束し、天代守護に突き出す。今度こそ」
彼女も相当重傷のはずだがそれを感じさせない力強さだった。先達を気遣ってのことかもしれない。
先達は少し躊躇するようにふたりを見つめたあと、頷いた。
「すみません、会長。先生も。僕、病院まで行ってきます」
「ああ。気を付けろよ」
「はい。……あの」
「ん?」
先達は踵を返そうとして改めて康峰のほうを見た。
血に濡れた顔を拭い、はにかむような、照れるような笑みを浮かべて言った。
「ありがとうございました——先生」
そう言って深々と頭を下げる。
康峰はどう反応していいか分からず呆気に取られた。
黙っていると、顔を上げた先達は踵を返し、病院の方角へ走って行った。
足を引き摺ってはいるが、衿狭を心配してか必死で急いでいるのが伺える。
康峰は黙ってその背中を見送った。
「……何の感謝だよ」
先達の背中が霧に呑まれてから康峰は呟いた。
紗綺がふふっと笑みを零す。
さっきまで決死の剣戟を振るっていたとは思えない表情だ。
「先生、私からも礼を言わせてほしい。先生の機転がなければあいつを倒すことはできなかった。ありがとう」
「よ、止せよ。それを言うならお前の力だろ? それに先達も……」
「そうだな。彼がいなければ危なかった。……正直、私には彼があそこまでやれるとは知らなかった。とても驚いた」
「あいつはやればやる奴だ。……多分」
紗綺が頷く。
「生徒をよく見てるんだな。さすが先生だ」
康峰は何と答えていいか分からなくなる。
「やっぱり先生は私たちの先生だ。憎まれ口を叩いていてもしっかり生徒を見てる。考えてくれている。そんな気がする」
「い、いいから起こしてくれよ。いつまでもこんな無様な格好した教師がいるか?」
康峰は地面にへたり込んだ姿勢のまま紗綺に向かって手を伸ばした。まだ自分の足で立ち上がるのも辛い。
康峰の手を紗綺が握る。
彼女の手は思いがけないほど小さい。指も細い。これがあの強さを秘めているとは信じがたい。
「……私もひとつ、打ち明けていいか?」
おもむろに声を落として少女は言った。
「何だ? こんなときにか?」
「ああ。こんなときでもなければ言い辛いことなんだ」
「言っとくが相当な衝撃の告白じゃなきゃ驚かないぞ」
康峰は紗綺の手を借りて起き上がりながら言った。「こんなときだからな」
紗綺が薄く笑う。
その表情はどこか寂しげに見えた。
小さく息を吸い込んでから、少女はぽつりと言った。
「私も殺人バットだ」
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