第八幕 無明長夜(後篇) ①

 



 ゆっくりと——

 沙垣さがき先達せんだつは目を開いた。

 白い天井がまず視界に映る。

 先達は困惑する。ここはどうやら学園の保健室のベッドの上だ。だけどなぜ自分がここに寝ているのか思い出せない。いつから寝ていたのかも。

 何だか長い夢を見ていたような、見ていなかったような。まだ頭がぼんやりする。

 周囲に人影はない。窓の外は赤い霧が覆っている。

 とても静かだ。


 何か——何かとても大事なことを忘れている気がする。それがこころをざわつかせる。それなのにどうしても思い出せない。

 しばらくベッドの上でじっとしていると、誰かの声に気付いた。

 その声はずっと遠くから響いているのに、妙に神経を刺激する。

——何だろう?

 先達はベッドを降りた。

 不意に背骨に激痛が走った。一瞬何か思い出しかけたが、やはり何も分からないままふらつく足取りで保健室を出る。

 扉の外は薄暗い廊下が続いている。

 声が大きくなった。誰かが必死で呼び掛けている。だがその内容はまだ聞き取れない。

 先達は壁に手をついて声のする方へ歩いた。


『だめ』


 背後から少女の声がした。

 足が止まる。


『そっちに行っちゃ、だめ』


 先達は振り向こうとした。

 が——寸前で思いとどまる。

 振り向いてはいけない。

 いま彼女を見てはいけない。

——行かないと……

 なぜか分からない。だが先達は強烈な思いに急き立てられて足を進めた。

 背後から寂しそうな視線を感じたが、それでも廊下を進み続けた。

 やがて死体安置室に来る。

 扉を開けると無線機からの声が益々大きくなった。冷ややかな部屋の中央に置かれた棺からその声は聞こえた。

 ごくりと唾を飲み込んで棺に近付く。

『起きろ、先達。……起きてくれ』

——誰だ。何を言っているんだ?

 棺のなかからの声は切々と訴えかける。

『お前が荻納おぎのうを救うんだ』

 荻納……

 荻納さんがどうしたんだ?

 背骨がずきずきと痛み出す。

「僕が……?」

 思わず掠れた声を出した。

『ああ。お前にしかできない』

「どうやって? 僕には殺人バットと戦うほどの力は……」

 自分でも何を言っているのか分からない。それでも先達は口を動かしていた。

『できる』

 棺のなかの男はなぜか強く言った。

『お前ならできる。いや、この状況じゃお前しかできないことなんだ。だから先達、ここを開けてくれ』

 何を言っているのか分からない。

 僕に何ができるかも分からない。

 それでも——

 先達は手を伸ばす。

 棺の蓋に手を掛けた。


***


「オラオラオラオラッ! どうした会長! 手加減でもしてんのか⁉」

 殺人鬼は金属バットを滅多打ちにしながら吠えた。

 獰猛な青い炎がその身を包んで渦巻いている。

 一方の紗綺さきは言葉を返す余裕もない。《破暁はぎょう》で攻撃を防ぎ、身を躱しているが徐々に追い詰められているのが傍目にも分かった。

 《冥殺力めいさつりき》の青い炎を纏う殺人バットの攻撃は常人なら目で追うのがやっとだ。

 咄嗟に紗綺は距離を取ろうとするように背後に跳んだ。髪がふわりと舞う。その髪をすかさず殺人バットが掴んだ。そのまま力任せに引き寄せる。

「ぐっ……!」

 紗綺が苦悶の声を漏らす。

 だがそれどころではなかった。

 殺人バットは右手を振り上げ、紗綺の脳天目掛けて金属棒を振り下ろした。

 だが凶器が脳天に届くより早く、紗綺の体が舞う。

 彼女は掴まれた腕を軸に素早く身を捻って跳んだ。

 その予想外の動きと回転の勢いに殺人バットも紗綺を逃す。金属バットは紗綺の鼻先を掠めて空振りした。

 わずか一瞬の間隙を突いた機転だった。直感、或いは本能的な動きか。やはり彼女には天賦の才と呼ぶべきものがある。

 いや——

 凶器を完全に躱したかに見えた紗綺だが、その右目が真っ赤に染まっていた。わずかに額を切っていたようだ。そこから流れる血が視界を塞いだ。

 それを見た殺人バットの眼が光る。

 間髪入れず次の攻撃を繰り出そうと踏み込む。

 その瞬間紗綺は自分の眼の血を拭い、眼前に振り払った。

 殺人バットの眼に鮮血が入る。咄嗟に足を止めた。

 しかしその体は既に紗綺の間合いの内にある。

 片目を光らせた紗綺が愛刀を振るった。

 斬撃が男の首元を強かに打つ。

「がはっ……」

 生身の人間ならば首が飛ぶような激しい一振りだった。殺人バットの喉奥から獣のような声が絞り出された。

 一瞬の沈黙ののち、男の体が前に傾く。

「……惜しいな」

 だが男は口元を吊り上げた。

 片目は紗綺の血で塞がれたままだが、もうひとつの目を見開いて笑う。そうして刀を握る紗綺の腕を掴んだ。


「《冥殺力》さえなきゃお前の勝ちだった」


「くっ!」

 殺人鬼の手を逃れようとするが、青い炎が巻き付いてびくともしない。

「人形遊びはオシマイだ、会長さん」

 殺人バットはその言葉とともに紗綺の腹を蹴った。

 紗綺の体が宙を浮き、瓦礫の向こうまで吹き飛んだ。

 派手な音を立てて、瓦礫のなかに彼女の姿が呑まれる。

 声はない。意識を失ったか、彼女が起き上がる気配はない。

 彼女が沈んだ方を見ながら殺人バットが目元の血を拭おうとした。

 その死角から——

「うりゃああああああぁぁっ!」

 渾身の気合いとともに康峰やすみねは襲い掛かった。


 

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