第三幕 真夜中のカップ麺 ⑤

 


「何だ? まだ何かあるのか」

 何か言いかけた先達に、煉真が振り返る。

 その手は既に玄関扉のノブを握っている。

 先達は頬を掻きながら言った。

「いや……その、思い出したんだ。言い忘れてたこと」

「何だよ?」

「本当は僕も好きじゃないんだ」

「何の話だ?」

「イワシだよ」

 煉真はしばらくきょとんとしたあと、鼻で笑った。


『普通に感心したように言ってんじゃねぇよ。んなマジメやってても将来イワシ工場行きだぞ。イワシ工場の工場長でも狙ってんのか?』

『イワシはそこまで嫌いじゃないけど』

『あーあーそうかよ。お前と話してると俺の頭にカビが生えそうだぜ。いっそ《結露落とし》に改名したらどうだ?』


 きっと煉真もその会話を思い出したのだろう。

 彼は「だろうな」と答えた。

「まぁ俺には分かってたぜ。あんなもん好きな奴の気がしれねぇ」

「本当か?」

「いや全然。忘れてたのはそれだけか?」

「それともうひとつ」

「まだあるのかよ?」

 再び玄関扉を開けかけた体勢のまま煉真が眉を顰める。

「いい加減早く出て行かねえと奴らが来る。何かあるなら早く言えよ、沙垣」

「その、何と言うか——夜霧さんが自殺した理由について、思ったんだけど」

 先達は探り探り言った。

「こんなこと僕が言うのは無責任かもしれないけど、灰泥の所為とは限らないんじゃないかって。もしかしたら別の理由があったかもしれない」

 先達は七星とほとんど話したこともない。彼女のことは詳しく知らない。

 それでも、遠目に見る彼女——夜霧七星は、そこまで芯の弱い少女には見えなかった。脅迫されたくらいで思い詰めて自殺を図る彼女というのがうまくイメージできなかった。

——そう思うのは、僕だけかもしれないけど。

 煉真は黙ってじっと先達を見る。

 やがて口を開いた。

「そりゃ無責任って言うよりお節介だな。励ましてるつもりか?」

「い、いや、別にそんなつもりは……」

「ふん、そうだろ。そりゃ俺も他に原因があるって思いてえけど、そんなもん思いつかねえんだよ。それとも何か、あいつが本当は——」

 そこで煉真の言葉が止まった。

 何かと思って先達は彼を見る。

 煉真は——

 まるで時間が停止したように、凝然として虚空を見つめていた。

「……灰泥?」


——何だ?

 ただならぬ様子に先達は唾を飲み込んだ。

 奇妙な沈黙がしばらく——と言っても実際はほんの数秒のことだったろうが、深夜の玄関に流れた。

 やがて時間を取り戻したように煉真はゆっくり先達に目を向けた。

「なぁ、沙垣。もう一回聞かせてくれねぇか?」

「え? 何を?」

「さっきの話だ。荻納が消えた日、猫工場で何て言ったかを」

 先達はどうして煉真がそんなことを言い出したか分からず困惑した。だが拒否しづらい空気に、もう一度衿狭の言葉を再現しようとした。

 だがすぐに煉真がそれを遮った。

「そこじゃねえ。荻納の言ったことじゃねえ」

「え? いやでも僕はそのとき何も……」

「お前でもねえ」

 煉真は首を振った。「あいつ・・・だ。あいつはそのとき何て言ってた?」

「え? それは——」

 先達は記憶にある言葉を繰り返した。

 それを聞いた煉真がかっと目を見開いた。

 何かを考えるように視線を動かす。

——何だ?

 何かに気付いたのか?

「どうしたんだよ、灰泥。何か気付いたなら教えてくれ」

「いや……」

 煉真は呟くように低い声で言った。


「もしかしたら——荻納が危ないかもしれねぇ」


「え? それどういう——」

 先達が言い終わるより早く、けたたましいサイレンが響き渡った。

 それは先達が鴉羽からすば学園に入学して以来聞いたことのない音だった。

 禍鵺マガネ出現の可能性を注意喚起する第三級警報ではない。

 禍鵺出現が確定した際の第二級警報でもない。

——まさか。

 続けざまに寮じゅうに放送が鳴り響く。


『第一級警戒事態発生! 第一級警戒事態発生!』


 声は悲鳴のように叫んでいた。


『島内に禍鵺の大群が出没! 繰り返す、島内に禍鵺の大群が出没した! 奴らは南西の方角から噴水広場方面に向かって侵攻している、戦える者はすぐさま迎え撃て! 《冥浄力めいじょうりき》未所有者も市民の避難救護に当たれ! 繰り返す、島内に……』


「マガネの……大群?」

 放送を聞いて眠っていた生徒たちが起き出したのだろう、俄かに周囲が騒がしくなった。

 先達も玄関扉を開いて様子を見る。生徒たちは驚きを隠せない顔で互いに顔を見合わせたり、声を掛け合ったりしている。

 無理もない。いくら禍鵺との戦闘訓練を積んでいるとはいえ、第一級警戒事態なんて初めてだ。それもこんな深夜に——どうしていいか分からないのが当然だ。

——どうすればいい?

 先達は振り返って煉真のほうを見ようとした。

 が、そこに煉真はいなかった。

「灰泥?」

 がらり、と音を立ててベランダ側の戸が引き開けられていた。カーテンが揺らぐ。その向こうで煉真が手摺り壁に足を乗せて外へ飛び出そうとしていた。

「は、灰泥!」

 先達が叫ぶと、煉真はちらりと振り返って先達を見た。

 一瞬、迷うような表情を見せたあと——

 再び前を向き、足を蹴って外へ跳んだ。

 暗闇の底に男の姿は溶けて行った。


——どうする。

 煉真が最後に言った言葉が脳内で繰り返す。

 衿狭が危ない?

 それはどういう意味だ?

 彼は一何に気付いたんだ?

 禍鵺は何故大勢で現れたんだ?

 いまこの島で何が起こってるんだ?

 僕は——


 どうすればいい——?



 

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