第三幕 真夜中のカップ麺 ③

 


 煉真れんまがインスタント麺を貪っている。

 食べている、というより貪っているとしか言いようのない食べっぷりだった。やはり相当腹を空かせていたらしい。

 先達せんだつは壁に背を凭れ、座ったままそれを見ていた。

——不思議なことも起きるもんだな……

 灰泥はいどろ煉真は確かに先達の同期だ。何年もこの島で一緒に暮らしている。特訓や授業でも何度も会ってるが、特別親しい間柄ではない。たまに擦れ違いざま言葉を交わす程度だ。

 だがそれも当然だろう。

 戦闘訓練では一際優れた実力を発揮し、教官や上級生からも一目置かれる存在。だが一方で何かと問題を起こし、その意味でも学園内で指折りの注目を集める問題児・灰泥煉真。

 一方で戦闘はからっきしで地味で控え目で空気のような存在——は言い過ぎと思いたいが、とにかく影の薄い劣等生。その所為で何かと雑用を押し付けられる自分、沙垣先達。

 言ってみれば真逆の存在だ。

 それも自分のほうが煉真を匿うだなんて——改めて思うと不思議で仕方ない。

 だが、いまの先達にはその状況を面白がる気力も残されていなかった。

 どうせこの状況もあと数分で変わる。煉真がインスタント麺を食って、玄関の扉を開けて、それでおしまいだ。


 やがて煉真が食事を終えた。

 水道水を喉に流し込んだ逃亡犯は言った。

荻納おぎのうの所為か?」

「え?」

「逃げ回ってるときに青色の連中が話してるのを聞いたぜ。俺が暴れてるのと同時刻に荻納おぎのう衿狭えりさが殺人バットの恰好で暴れてたってな。鬼頭きとうの野郎が捕まえたそうだが、大怪我したらしいじゃねぇか。お前の様子が変わった原因はそれか?」

 先達は何も答えなかった。

「……まぁ、別に俺には関係ねぇけど」

 煉真は気まずい空気をごまかそうとするように呟いて、また水を飲もうとした。


「まだ——起きないんだ」

 先達は呟く。

 水の入ったコップを持ったまま煉真が動きを止める。

 それはほとんど無意識に出た言葉だった。

 だがそれをきっかけに、コップから水が溢れるように言葉が出てくる。

「目を瞑ればいまでもあのときの光景が甦る。僕の目の前で鬼頭先生が荻納さんを刺したんだ。なのに僕は何もできなかった。すぐ隣にいて彼女を護れたはずなのに。それが一番大事なことだって分かってたはずなのに……」

「いや、そりゃ無理だろ。相手はあの鬼頭だぜ。頭んなかまで筋肉でできあがったような鬼ダルマだ。お前が全力で止めに入って意味あるか? それとも奴をナイフでぶっ殺してでも止めたかったか?」

「そうかも」

「おいおい……」

 実際、もしこれで衿狭が帰って来なかったら——

 先達には自分が平静でいられる自信はなかった。どうなるか全く分からない。想像もしたくない。そんなことは。

 ぞっとした。

 いままで無意識に想像するのを避けていた。

 衿狭が死ぬ——そんなことは考えたくもなかったから。あの病院のベッドの上で冷たくなる衿狭なんて——

 頬が冷たくなった。

 気付くと先達は涙を流していた。

 慌てて涙を拭い、鼻を啜った。だが一度流れ始めた涙はなかなか止まらない。

 どうしていま——よりによって煉真のいるときに。そう思っても流れるのは仕方ない。

 煉真は何も言わなかった。

 外ではヨタカが鳴いている。

「やっぱ、言うほど変わってねぇかもな」

 しばらくして煉真が呟いた。

 水を喉に流し込んで机に置く。

「あー、とにかくよ、お前が自分が悪いって思ってもどうにもならないって。悪いのは荻納を殺人バットの恰好にして暴れさせた奴だろ?」

「そんな奴が本当にいるのかな」

「そう考えるしかないだろ。それとも荻納が自分の意思で暴れまわってお前を殺そうとしたと思うか?」

 そうとは思えない。

 あのとき見た衿狭は薬物中毒の病人みたいな様子だった。普通に考えれば衿狭をあんなふうにした犯人がいるはずだ。

 だが——

 誰が何のためにそんなことを?

 先達もこの数日間それを考えた。だが心当たりのある人物は思い浮かばなかった。

 衿狭を殺人バットと疑っていた青色生徒会の舞鳳鷺まほろや他の連中だってそんなことする必要はない気がする。そもそも衿狭は人に恨まれるような性格じゃない——というのは自分の贔屓目が入っているかもしれないが。

「そもそも分からないんだ。荻納さんは殺人バット捜索中にふらりと姿を消した。灰泥君と猫工場で会ったあの日だよ。その二日後にいきなりあんな姿になって僕の前に姿を現した。どうして彼女が何も言わず消えたのか、それすら分かっていない」

「それが分かれば何か見えるんじゃねぇのか?」

 煉真は少し身を乗り出してきた。

「何か心当たりはねぇのかよ、荻納が消えた理由に?」

——またこの質問だ。

 康峰を始めもう何人から訊かれたか分からない。そもそも訊かれなくても先達自身自分に何度も問い掛けた。

 その度に衿狭との会話、衿狭の言動を思い出したが、思い浮かぶことはなかった。いい加減記憶のフィルムが擦り切れそうだ。

「何か気になることは言ってなかったのか?」

 煉真は彼なりに気を遣っているのかもしれない。もしくは一宿一飯の礼——でもないが、匿ってもらったことと飯を食わせてくれた分のお返しをしようとしてくれているのかもしれない。

 それでも今更あの日の会話を繰り返しても意味がないとしか思えなかった。

 ……いや。

 夜霧よぎり七星ななほしをいじめていた噂のある灰泥煉真。

 その夜霧七星と一番仲が良かった荻納衿狭。

——もしかしたら何か分かる、かも……?

 先達はもう一度その日の記憶を手繰り寄せてみることにした。


「さっぱり何も分からねぇな」

 先達の話を聞いたあと、煉真が返した感想はそれだった。

 恐ろしいほど呆気なく、先達の期待は粉微塵に打ち砕かれた。

——まぁ、そうだよな……

 先達は落胆しつつも予想通りの結果にある意味納得する。そう簡単にヒントが見つかったら苦労はない。

「悪いな。何か気付きゃいいと思ったけど。お前の話し損になっちまった」

「別に気にしてないよ」

 ふと先達は思いついて煉真に目を向けた。

「灰泥君」

 煉真がむっと眉を寄せる。

「そのよ、灰泥君って呼び方は何とかならないか? 気味悪くて背筋がもぞもぞする」

「そう? じゃあ何て呼べばいいんだ?」

「好きに呼べよ」

 好きに呼んでいいなら「灰泥君」もいいのでは——そう思ったが。

「じゃあ、ハイド?」

「その呼び方もやめろ」

 だが即却下された。

「何で?」

「似合わねーだろ、何つーか」

鵜躾うしつけさんや早颪さおろしさんは確かそう呼んでたけど……」

「あいつらが勝手に呼んでるだけだ。俺はやめろっつってんのに」

 どうやら気に入っているわけではないらしい。

 なかなか我儘だ。

「別にいいだろ、呼び捨てで。同期なんだし」

「ええと、じゃあ灰泥……その、この際だから訊いていいかな?」

「何だ? 聞いてみなきゃ分からねぇ」

「例の噂、夜霧よぎりさんをいじめてたっていうのは本当なのか?」

 煉真はちょっと動揺したように顔の筋肉を強張らせたが、すぐにごまかすように不敵な笑みを浮かべた。

「ふん。ずいぶん直球で訊くじゃねぇか」

「ごめん」

 だが先達も気になっていたことだ。

 煉真が夜霧よぎり七星ななほしをいじめていたという噂は当時から聞いていたし、衿狭が彼を嫌っていたのはそれが理由のようだったから。

「別に謝ることじゃないだろ。むしろ直球でよかったぜ。コソコソ裏で噂してちらちら見てきやがる連中よりよっぽどマシだ。お前らしいよ」

 誉め言葉なのかけなしているのかよく分からなかった。

 煉真は頭の後ろを掻きながらバツが悪そうに言った。

「まぁ……本当だな。別にいじめるつもりなんてなかったけど。結果的にそうなっちまったのは仕方ねえ。荻納が俺を親の仇みたいな目で見るのも文句言えねぇかもな」

「何でそんなことを?」

 煉真は空になったコップをしばらく見つめたあと、ぽつりと言った。「……まぁ別に言ってもいいか、今更」

 そうして先達の目を正面から見据える。

 ただならぬ気配に、先達は身を強張らせた。

 やがて煉真の口が開かれた。


「夜霧七星は《冥殺力めいさつりき》と《冥浄力めいじょうりき》の両方を使えた」


「——え?」

「マジだ。俺はその現場を目撃した。《冥浄力》を使えることは訓練で見せてたからお前も知ってるだろうが、あいつは実は《冥殺力》も使えたんだ。俺だけが偶然そのことを知っちまった。たまたまその現場に居合わせてな」

 煉真の目はかつてないほど真剣だ。

 その瞳を覗き込めばそこに青い炎を放つ夜霧七星の虚像が映っているかのようだ。

 先達は思わず声を潜めるようにして言った。

「見間違い、とかってことは……?」

「ンなわけあるかよ」

 煉真もまた声を潜めて言った。「……でなきゃあいつをいじめてた青色の女が消えた理由が説明できねえ」

「ちょ、ちょっと待て」

 先達は上ずった声を上げた。

「——どういう意味?」

「どうもこうもねぇ」

 煉真が言った。


「夜霧七星は《冥殺力》を使っていままで自分をいじめてた青色の女を殺したんだ。失踪扱いになってるが、そうじゃねえ。あいつは夜霧に殺されて死体を隠されたんだ」


 

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