第三幕 真夜中のカップ麺 ①

 



——眠れない。

 沙垣さがき先達せんだつは今夜何度目か分からない寝返りを打った。

 陰鬱な雨音が学生寮の屋根を叩き続けている。

 今日久しぶりに——と言っても実際には三日程度しか経っていないが、寮の自室に戻って来た。先達の感覚では一か月開けてたみたいだ。それくらい何でもない家具も、調理器具も、冷蔵庫の乾いた食べ残しも何だか違って見えた。

 結局、今日も荻納おぎのう衿狭えりさの意識は戻らなかった。

 体調は落ち着き彼女はいま静かに眠っている。

 心配だが、いつまでも帰らないわけにもいかない。見舞いに来た生徒たちに一度帰って休めと散々言われたし、最終的に文字通り鵜躾うしつけ綺新きあらに尻を蹴られる形で病院を後にすることになった。きっと彼女なりの気遣いだろう。

 そうしてここへ帰ってきた。

 と言ってもやることもないから部屋を片付けたり、食事を摂ったりしたがすぐに終わった。というより身が入らない。そのうち諦めて横になった。

 何度か意識がまどろんだが、その度に急速に覚醒する。どうしても眠りが浅い。無理にでも寝よう、寝ようとするうちに却って眼が冴えて、すっかり深夜になってしまった。


 仕方ないからいろんなことを考えた。

 康峰やすみねには悪いことをした。彼の言う通り、もっと打ち明けて相談していればよかったのだ。きっと彼も白化病はっかびょうで苦しいのに頑張っていた。そう分かっていたのに——

 鬼頭きとうに対して憎む気持ちはない。いや、正直よく分からない。何度か憎もうとした。彼が衿狭を刺したのだ。その事実は変わらない。

 だがうまく憎めない。

 感情の整理がつかない。

 いくら感情を逆立てようとしても、先達には彼が自分たちを、生徒を守ろうとして必死で取った行動だということを理解してしまっている。だからうまく憎めない。

 というより——

 単に人を憎む気力が残っていないのかもしれない。


 もし憎むなら、自分自身だ。

 あのときもっと本気で衿狭を引き留めていたら。

 あのとき鬼頭に噛み付いてでも止めようとしていたら。

 そんな後悔が尽きない。

 溜息を吐いて体をもう一回捻る。無機質な白い壁が視界に広がった。

 いつしか雨もやんだようだ。雨音が消えて静寂が一層際立つ。

 ごとり、と不意に大きな物音がしたのはそんなときだ。

——何の音だ?

 それもこんな時間に。

 明らかに上の階や隣の部屋ではない、もっと近かった。それも野良犬や鴉程度の物音ではない。

 先達は本能的に身を強張らせた。カーテンの向こうの小さなベランダを見る。音はそっちから聞こえた。

 慎重に身を起こす。

——泥棒か……?

 有り得ない話じゃない。少し前女子寮の方で下着泥棒が出没したとかしないとかいう騒ぎもあった。だがここは男子寮だ。金目のものもない。わざわざここに這入ろうとするトチ狂った泥棒はそうそういない。

 起き上がり、足音を忍ばせてカーテンに近付いた。目を凝らすと、わずかな光の動きで誰かが動くのが見える。

 ふぅ——と一度息を吸い込むと、先達は一気にカーテンを引いた。

 男が肩を震わせてこっちを振り返った。血走った目と目が合った。

 暗い闇のなか、ドブネズミのように汚れた格好、排水溝から飛び出してきたのかと思うような髪や顔ですぐには分からなかったが——

「……灰泥はいどろ君?」

 それは先達もよく知る同期の少年だった。


「誰の部屋かと思えばお前かよ、結露落とし」

 硝子戸を引き開けると、開口一番に灰泥はいどろ煉真れんまは言った。

 まるでハズレを引いたと言わんばかりの口ぶりだ。

「どうしてここに?」

 ともかく先達は訊いた。

 殺人バットの正体が煉真だったという話は聞いている。そしてその煉真は未だ逃走中だということも。恐らく天代守護や青色生徒会はいまも血眼で彼を捜していることだろう。

「要るモンを取りに来ただけだ。もう俺はこの学園にゃいられねえ。メシや武器を搔っ攫って逃げられるところまで逃げるしかねぇ」

「逃げるって……どこへ?」

「どこだっていいさ。連中が追ってこねぇならな」

 四方闇島よもやみじまのほとんどは森と山だ。そして先達たちのいるこの居住区以外、こことは比べ物にならない濃霧に覆われている。そして禍鵺マガネは霧に紛れて現れる。おちおち眠ってもいられない死の大地がこの四方闇島の真の姿なのだ。

 煉真は単身そんな死地へ逃げようとしているらしい。はっきり言って自殺行為に等しかった。

「ま、やれるだけやるさ。それにいつか警備が緩めば今度こそ島の外へ——」

 不意にチャイムが鳴り響いたのはそのときだ。

 続けて無遠慮なノックが玄関扉を叩く。

「くそっ」

 煉真が毒づく。

 先達は扉の方を振り返った。


 

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