5.海へ

 キナコに猫用のハーネスとリードをつけて連れて歩いていると、ちょうど通りかかった幼稚園バスの中から子供たちがこちらを指さして笑い転げた。少しだけ開いた窓から歓声が聞こえる。ねこだ、ねこ! ひもでつながれてる、変なのー!

 時雨がそれに応えるように手を振った。そして黄色く丸いバスは、後ろの大きな窓に園児たちを貼り付けたままあっという間に去っていく。

 たしかにリードにつながれた猫というのはよく見かけるわけではないけれど、園児たちの盛り上がりと言ったらまるで徳川埋蔵金でも見つけたのかと思うほどだった。楽しんでいただけたのなら何よりだ。

 海まではデブキナコを連れて歩けば、四十分程度の距離だ。

 夏になればそれなりに海水浴客で賑わうけれど、それ以外の季節は大体閑散としている。サーフィンをしている人は季節問わず見かけるけど、あまり多くはない。ここは海はあれど漁業の町ではないし、特産物もない。砂浜が特別きれいなわけでもなければ、海水がきれいなわけでもない。ただそこに海があるだけだ。

 わらしくんはさっき拾っていた木の枝を揺らしながら歩いている。その肩には冷たいカフェオレをいれた水筒。時雨は砂糖のたくさんかかった菓子パンをいれたバスケット、私は右手にキナコのリードを、左手にはキャリーバッグを持っている。帰りはバスに乗って帰るつもりだった。

 そうしてうろちょろするキナコをなるべく好きに歩かせていたら、やっと海岸についた頃には全然歩きたがらなかった。疲れ果てたのだろうけれど、もしかしたら砂浜が嫌なのかもしれない。とにかく私は重たいキナコを抱きかかえ灰色の砂浜へ踏み出した。

 曇り空は相変わらず水で溶いた絵の具の灰色だったし、海も鈍く濃い灰色で、砂浜までもが灰色だった。砂の上に立って水平線を見やると、そのあまりの色彩の乏しさに悲しくなるほどだった。まるでなにもかもが滅びてしまった後の景色のようだ。

 だけど隣を歩くわらしくんは何故だか楽しそうだ。やっぱりこういう薄曇りが好きなのだろう。そういえば快晴の日は自分から外へ出ようと言い出さない気がする。

 時雨の鼻歌と波音をBGMにして、私たちはしばらく砂浜を歩いた。

 穏やかな風が潮の香りを運び、呼吸するたび胸の中を浸す。スニーカーで踏みつける砂は頼りない手応えで柔らかく沈んでいった。

 ここに今、五月と吹雪がいればもっと楽しかっただろうけれど、時雨とわらしくんと三人でこういった時間を過ごすのはとても久しぶりな気がして、これはこれでとても良い。なんだか満たされたような落ち着いた気分だった。一生こんな気持ちのまま居続けられたら人生はきっととても幸せで、でも夢の中のような浮遊感に少し胸が騒いだりするのかもしれない。理想的な人生だと思った。

「結構歩いたね。おやつにしようよ」

 そう言うなり、時雨はさっさと砂浜に座り込んだ。波打ち際と低い防波堤のちょうと中間辺りの位置だ。

「そうですね」

 私とわらしくんもそれにならった。いい加減、キナコを抱く腕が疲れて痛んできた頃だった。

 そのキナコはやっとくつろげるとばかりに私の膝に乗って丸まる。ずっしりと重たい。あまり長いことこうしていられると足がしびれる。けれどとても温かくて、私よりは遥かに小さく、動きまわるものの存在はなんだかとてもいとおしい。デブであまり器量よしとは言えないけれど、まだ手乗りサイズだった頃からかわいがって世話をしてきた猫なのだ。

 バスケットからまずプラスチックのコップを取り出してカフェオレを注いだ。一口含むと、少し甘みが足りない気もしたけれど、それがこの灰色の景色に妙に似合っているように思えて気に入った。それにどうせパンが甘いのだ。ちょうどいい。

 キナコには小さなプラスチックの水筒に入れてきた水を与えた。最初はあまり飲みたくないような素振りをしていたのに、三人で寄ってたかって声をかけていたら機嫌を良くしたのか勢いよく飲み始めて、私たちは笑い転げた。波音と混ざり、それは柔らかいタオルケットみたいな感触の響きになって耳をくすぐる。

 防波堤を背に海を向いて座っていると、少しお尻が冷えてきた。砂はまだ冷たくて、デニムスカートの厚い生地さえ通り越してくる。寄せては返す波はとても穏やかだった。

「はい、どうぞ」

 手渡された砂糖のかかったパン。包みのビニールがこの場にそぐわないバリバリという音を立て、なんだか気が削がれた思いだったけれど、そのすぐ後に防波堤の向こうの道路を派手な音でバイクが通って行って、私はふとここが滅びてしまった後の世界ではないことを思い出した。

 けれどもしここが滅びてしまったって、時雨とわらしくん、五月と吹雪、あとキナコとお父さんがいれば私の世界は完璧に保たれたままだ。

 甘いパンと、少しほろ苦いカフェオレを交互に口にする。時雨のご機嫌さは黙っていても伝わってきたけれど、言葉はほとんど交わさなかった。ただ途切れない波音と、パンの包みがバリバリ鳴る音、時折背後の道路を通る車の音が響くばかりだ。時雨がポケットに突っ込んできたスマホも、鳴らないままだった。

「ねえ、あれ吹雪ちゃんじゃない?」

 体を撫でる湿った風を堪能していると、もぐもぐとパンを咀嚼しながら時雨が腕を伸ばした。お気楽そうなその口調は、今にもその吹雪へ大きな声をかけそうに弾んでいる。

 時雨が見ているのは、防波堤の向こうだ。私たちから数十メートル離れた位置に、たしかに制服の子がふたり立っていた。あれが吹雪と言われれば、たしかに吹雪のように見える。

 私と時雨も通った中学校のセーラー服。真っ黒いつやつやの髪を高い位置でポニーテールにしている。

「吹雪ですね」

 振り返ったわらしくんが頷いた。彼が言うのなら吹雪に間違いない。それにしても時雨はよく気がついたものだ。

 その吹雪の隣には、同じ中学の学ラン姿の子がひとりいる。

 男子とふたりきりとはまた、なんとも貴重なシーンだ。吹雪は学校での話をあまりしたがらないので、もてるのかそうでないのか、どういう立場でいるのか、さっぱりわからない。五月は、吹雪が時折誰かと長電話していることがあるが相手が男か女かまでは知らないしどうでもいい、と言う。

 余談ではあるが、だから「かわいい妹に悪い虫がついてたらどうするの」とからかって肩をぶつけたら、「お前はどこのオッサンだよ」と心底呆れた顔をされたことを今ふと思い出した。ちょっと悲しかった出来事だ。体内を空っ風が吹き抜けたような虚しさ。

 それはともかく、比較的謎につつまれている吹雪の学校生活を垣間見た気がして、私は少し浮かれた。なぜ話したがらないのかははっきりしないものの、いじめられているとか、仲間はずれにされているわけではないことは五月の証言からほぼ確定していたし、しつこく聞けば吹雪は怒るしで、多少好奇心を掻き立てられていたのは事実だった。

 吹雪と男の子の間で会話が交わされているのかどうかは、距離が遠すぎてわからない。けれど立ち止まっているのはわかる。ふたりとも体を海の方へと向けて並んでいるようだ。

「行ってみようよ」

 私は言うなり、さっさとカフェオレを飲み干した。

「え……でも友達といるみたいだし、邪魔しないほうがいいんじゃない? 相手男子だしさあ」

 時雨が渋っているのは、おそらく私が堂々と吹雪に会いに行こうと提案したものだと思っているからだが、生憎そうではないのだ。私は様子をうかがいに行こう、つまりは覗き見しに行こうと言っているのである。

「小夜は悪趣味です」

 わらしくんは意図を的確に読み取ったらしく、少し困った顔をしている。多数決を取れば私が少数派となって却下されてしまうだろう状況だけれど、そうする気はないので特に説得などは試みなかった。けれどもしここに五月がいれば、二対二になっていた可能性が高い。たぶんついてはこないけれど、私が覗きに行くことは積極的に支持するだろう。

 私だってもちろん、本当に終始盗み見し続けてやろうと思っているわけじゃない。吹雪はいちいちリアクション旺盛だから、どうしてもちょっかいをかけたくなるのだ。吹雪を愛するがゆえだろう。少し様子を見て、後で少しからかえば私はそれで満足する。悪癖である自覚は、なくはない。

 キナコを膝から下ろし、防波堤沿いに吹雪たちを目指して中腰で進む。なんだかんだで時雨とわらしくんも少し遅れてついてきていた。それは私の気分を良くする。なんだか楽しくてついつい笑みが溢れる。

「この辺かな」

 下手に堤防の上を覗きこむわけにもいかないので、おおよその当たりをつけて立ち止まった。後ろのふたりに確認してみるも反応はいまいちだ。わらしくんならわかるはずなのに、気乗りしないせいか答えてはくれない。ふたりの批難するような視線に私の気持ちはしゅるしゅると萎んだ。ついついくちが尖る。

「そんな顔しなくてもいいのに」

 ちょっとだけからかいたかっただけなのに、とくちには出さずに続ける。

 なんだか自分がものすごく悪いことをしているみたいだ。もちろん善い行いではないのはわかっているけれど、そこまで深刻ないいたずらや嫌がらせであるようにも思えなかった。

 こんなとき五月がいてくれたら一緒に遊んでくれるに違いない。あの人はどちらかと言えば私に近い悪人だ。

「もういいよ」

「小夜ちゃんってばー」

 拗ねてみせる私を宥めるような時雨の口調。小声でも確かにわかる。

 私は耳を澄ましてゆっくりと進んだ。波と車の音の中に、吹雪の声を探すように。こうなってはもう意地だ。

 数歩進んだところで、頭上から男の子の声がした。聞いたことのないそれはまだどこか幼い。

「あのさ、後藤」

 後藤とは吹雪の苗字だ。後藤吹雪。ついでに後藤五月。

 つまり探し当てたのだ。間違いなくここに吹雪もいる。

 観念したのか時雨とわらしくんはおとなしく防波堤に寄りかかり座っている。別に私こそ吹雪に声をかける気などなかったので、少しだけ様子を伺ったらすぐに離脱する気だった。小さくなって座り込んでいるふたりを見て、じゃあついてこなきゃよかったのに、などと内心ぶつぶつ言っていたら、頭上の男の子がまた声を発した。

「俺さ」

 そこはかとなく緊張した声音。まさかこれは。ごくり、と生唾を飲み込んだ。胸がざわつく。

「後藤のこと……」

 絞りだすようなその言葉。後藤のこと――続きはひとつしかない。好きだ、だろう。その一言ががつんと私の頭を殴りつける。

 心臓がどくんと音を立てる。それはときめきのように華やいだ鼓動ではなかった。踏みつけた足の下の氷にヒビが入った瞬間のような。なぜか、血の気の引く感覚がした。さあっと頭のてっぺんから爪先まですごい速度で。

 どうしてこんな気持ちになるのだろう。よくわからない。何故?

 思わず叫びそうになった時雨のくちを、わらしくんが押さえ込んでいる。キナコは私の足元で丸くなっていた。

 私は何故だかほんの一ミリも体を動かすことができず、ただ視線だけがすぐ下の灰色の砂浜を泳いでいた。どうしてだろう。胸の中に重たいものが沈んでいく。

 吹雪、だめ。頷かないで。頭の中が空洞になってしまったかのように、息苦しさばかりが詰まっていく。出口が見つからない。どこかないのか、どこか。苦しみの突破口みたいなもの。

 私はもうほとんどパニックだったのだと思う。突然引かれた手首に心底驚いて、つい大きな声を上げてしまった。

「う、わあ!」

 途端に口を押さえ込まれる。

 私の手を引いた正体は時雨で、キナコを抱えた反対の手で必死に人差し指を口元に当てている。しーっと繰り返される声というか音に、私は何度も頷いた。それを見てか、押さえられていた口が解放される。横を見ると、慌てた顔をしたわらしくんが手を下ろしていくところだった。どうやらとっさに私の口を塞いだが、時既に遅し。

「し、時雨ちゃん……?」

 高く震える声が降って、私たちは顔を上げる。見上げた視線の先には、普段は気の強そうなツリ目をまんまるにした吹雪。吹雪はひどく驚いて困惑した様子で、何が起こったかわからないまま頬を赤くしていた。わらしくんが嘆きの呻き声を吐いて顔を押さえた。

 見つかってしまった。

「小夜ちゃんにわらしくんまで……なに、なんで……?」

 か細い吹雪の声に怒りが乗る。

 吹雪にしてみれば、いるはずのない私たちが突然目の前に現れてわけがわからないし、おまけにそのタイミングが悪すぎて腹立たしいやら恥ずかしいやらで正気ではいられないだろう。大変なことをしてしまった。こんなつもりではなかったけれど、それを言ったところで何の意味があろう。

 その怒りや恥ずかしさでどんどん顔色の変わっていく吹雪と視線を絡ませながら、私はなかば呆然としたまま、時雨に手を引かれてその場を後にする。時雨をわらしくんはもうほとんど全力疾走で、砂に足を取られてよろめきながらも、一刻も早く吹雪の視界から消えたいとでもいうように進んでいた。迷惑そうなキナコを鳴き声がする。

 どんどんと遠ざかっていく吹雪たちの姿に、時雨はいつまでも叫び続けていた。

「ごめんねー! ほんとごめんねー!」


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