4.平日の午後
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る。時刻は正午を少し過ぎた頃だ。
この日の授業はこれで全て終わり。午前授業だと一日が長く感じて、なんだか得をした気がして楽しい。学校で勉強をしたけれど、昼食は家で取ってその後は自由だ。毎日午前授業ならいいのに。
などと考えつつ、昼食のお誘いをしに五月の教室へ迎えに行ったら「午後から講習あるから」とあっさり拒否されてしまった。その惜しむ様子の全くないさっぱりとした様が少し恨めしい。せっかく誘ったのだから、せめて残念なふりくらいしてほしいものだ。
私と時雨はふたりだけで家路につく。ゆっくり歩いても十分ほどの距離しかない。この近さがうちの学校のなによりの長所だ。
「ねえ、吹雪ちゃん誘おうか。まだおばさん達帰ってきてないし、五月くんもあれだし、一人で寂しいんじゃない?」
「でも吹雪はまだ授業があるんじゃないの?」
あ、そっか。時雨が目を丸くする。
「学校が違うんだよね。勘違いしちゃった」
私たちが帰るのだから吹雪もそうだと思ってしまうのはよくあることだけど、彼女は中学生だから事情が全く違うのだ。
吹雪は今中学三年生で、陸上部の副部長を務めている。球技は嫌いだという理由で陸上部に入り、走り幅跳びと短距離走をやっているらしい。どの程度の選手なのかはわからない。年に何度かある大会にも出ているようだけれど、吹雪は部活の話はあまりしたがらないから、よく知らないのだ。そもそも吹雪が部活に入るということ自体、私たちには意外なことだった。もしかしたら、そのことでやんややんやと私たちに言われたのが嫌で部活の話をしなくなったのかもしれない。大いに有り得る。
私と時雨は、短い帰路を肩を寄せあって歩く。手をつないで歩くことは、最近減った。
外を出歩くとき、よく手をつないでいた。それがおかしいことだとか変なことだとか思ったこともないし、親たち(うちの父と、五月たちの両親だ)も仲が良いなという反応しかしないから、普通のことだと疑いもしなかったけれど、どうもそうではないらしいと気がついたのは、友人たちの反応が予想もしなかったものだったからだ。
仲良すぎじゃない? 高校生にもなって姉弟で手とかつなぐ?
そう言う驚きの中にちょっと引いた態度が混ざっていたので、むしろ私のほうが驚いた。これはおかしなことなのか、とショックを受けさえした。
聞けば、時雨もそれより前に、私たちの手つなぎを目撃したらしいクラスメイトに問い詰められていたと言う。私たちはその時初めて、自分たちの行為があまり普通ではないという共通意識を持った。
それで話し合いの末、手をつなぐのは控えようということになったのだった。隣でそれを見ていたわらしくんは、終始口を挟まず、ただずっと真剣な顔で神妙に頷いていた。
自分たちにとってごく当たり前であったことを、そうではないと知って改めなければならないことは、とても悲しいことだった。大事なものを、もう子供じゃないんだからと取り上げられてしまったようだった。子供ではないこと以外に手を離す理由が見つからないだけに、理不尽さもひとしおだ。望んで子供でなくなったわけではないのだから。
小さい頃から私たちにはあまり友達がいなかった。五月、吹雪、それにわらしくん。その他の子とは遊んだ記憶があまりない。それはお互いがいたから他に友達がいらなかったのかもしれないし、他に友達がいなかったからお互いがますます近くなっていったのかもしれないし、どちらが先かはわからないにしろ。
私たちは二卵性だから、顔も性格もそれほど似ているわけじゃない。普通の姉弟と同じ程度だ。私が無愛想な顔や性格をしているのに対して、時雨は逆に人当たりの良い顔と性格をしている。基本的には明るく優しく、人の悪口も言わない。ちょっと集中力に欠けるし、突飛なところがあるにせよ、決定的な欠点というわけでもなし。
そんな人好きのするタイプな時雨も、どうしてか私や五月から離れたがらなかった。
前に、時雨には好きな子がいるのか、と女子に聞かれたことがあった。片手でも余るくらいではあるけれど、たぶんその回数と同じくらいの女の子が、時雨のことを好きだったのかもしれない。でも今のところ、時雨が誰かに想いを打ち明けられたことはないようだった。
五月曰く「お前たちが四六時中くっついているから、そんな隙がないんだろう」。でもそれは誤解だと声を大にして言いたい。
五月は勘違いしているのだ。私たちが学校、教室の中でもずっと一緒にいるとでも思っているのだろう。
けれどそれは違う。いくらなんだって、学校にいるときまでべったりなわけじゃない。私にも、あれほどクラスを一緒にしろと抗議した時雨にだって、お昼を一緒に食べたり、教室を移動したり、なんということもないおしゃべりを楽しんだりする友達が今はちゃんといるのだ。
だから時雨に告白しようと思えば出来る隙なんて、いくらでも見つかるはずなのだ。断じて私のせいではない。
それなのに誰も告白しないのだから、他になにか理由があるのだろう。時雨はバレンタインデーには鞄がチョコレートでいっぱいになってしまうような男なのだから。
もちろんその全てが本気なわけがなく、大半は義理とノリだ。あと、時雨はお返しが丁寧なのでそのせいもあるだろう。でも中にはひとつくらい、本命があったっておかしくはないと思う。きっと時雨をかまってただ楽しんでいるような勢いのある子たちに埋もれてしまっているのかもしれない。それでも時雨に対して真っ向アプローチというものはなかった。
だからバレンタインも誕生日もクリスマスも、お祭りとしてのイベント事という感覚しかなくて、本気の子もいるのだろうという認識は確かに私の中にあるけれど、決して現実感を伴ってはいなかった。きちんとした形で見たことがないからだと思う。
いつか、時雨が誰かに気持ちを告げられる日が来るのだろうか。それはもちろん時雨に限った話ではなく、五月や吹雪、そしてもしかしたら私にだって可能性としてはありえる話だというのに、なぜか私はその可能性を考えるだけでもやもやと嫌な気分になった。これは不安なのだろうか。胸の中がじわじわとくすぶりだす。
「良い天気ですね」
冷やしうどんを食べているとき、わらしくんがぽつりと言った。
窓の外を見上げると、薄曇りのはっきりとしない空模様だ。わらしくんの目にはこれが晴天に映っているのだろうか。それともこういう天気が好きなのだろうか。不思議だ。長年一緒にいても、わからないことはたくさんある。
「まあ、暖かいし風もないね」時雨が箸をくわえながら言う。「良い天気と言えばそうなるのかな」
ぼんやりとした時雨の声。
何も考えていなそうな、でも想像も及ばないほどに深く何かを考えていそうなわらしくんの目。
私は、胸の底の底のほうがむずがゆいような、普段なら気にも止まらないようなもやもやとしたものを持て余している。
時雨が告白されたら、などとなんとも間の抜けたことを柄にもなく真剣に心配してしまったせいだ。馬鹿らしい。でも、もしそんなことがあったら、時雨はどうするのだろう。
うどんを食べる手をとめて、向かいに座る時雨を見た。うどんを咀嚼している。薄いくちびる。薄いまぶた。短いまつげ。
限りなく他人なのに、誰よりも私に近い。でもやっぱり私とは全く別の他人で、弟だった。それは小さい頃から何も変わっていない。そしてこれからもずっとだ。
そう思うと、本当に馬鹿らしくなった。私は一体何を心配しているのだろう。もうやめだ。
不安な気持ちという存在を思い出してしまった自分に苛立って、思わず顔を歪めながら首を振り、どうにもならない心配を振り払った。それに気付いた時雨とわらしくんが、首を傾げてどうしたのかと問いかけてくる。
冷やしうどんを食べ終えた食器を洗っていると、キナコがあおんと甘えた声で足元に擦り寄ってきた。
「デブだなあ……」
改めてそう思う。
キナコは捨て猫や捨て犬を保護している団体から譲ってもらった雑種猫だ。茶色と白が絶妙に入り混じっている。もらってきた当初はほんの小さな子猫だった。今では貫禄のある立派な成猫だ。少々立派すぎるところが問題か。
「なになに? 小夜ちゃんダイエットでもするの?」
私の独り言を耳ざとく聞きつけた時雨が、ソファからのけぞるようにしてこちらを見る。テレビがついているのに、どうしてあんな小さな声が聞こえるのだろう。
それにしても、なぜ私の話題だと思ったのだろうか。
「……もしかして私太った?」
「ううん。そんなふうには見えないけど」
「僕にも見えません」
わらしくんまで振り返る。
流しっぱなしだった水道を止め、手を拭き、体ごと彼らと向き合った。これは、そのくらい真摯に向き合う必要のある話だからだ。
時雨はちょっと困ったように眉を下げる。
「でも女子ってさあ、別に太ってないのに、すぐ太っただのダイエットだのって言うじゃん。だから小夜ちゃんもそうなのかなって思って」
帰宅部で、運動の機会といえばせいぜい体育の授業くらいしかなく、コンビニやスーパーでしょっちゅうお菓子を買い、夕飯は好きなものを作って、思いついたら深夜だろうとケーキだのシュークリームだのと甘いものを作っては食べる生活をしている私なれば、もちろんダイエットをしたことはある。
その成果もあって、今の体型は自分分で許容範囲だと思っているけれど、なんだか急に焦りが出てきた。これは彼らなりの忠告なのではないだろうか?
「し、したほうがいいかな、ダイエット……」
「えっ、なんで? なんでそうなるの? 俺何かまずいこと言った?」
時雨が慌てている。首を傾げるわらしくんの肩を掴んだり、助けを求めるように辺りを見回したりするけれど、残念ながらその視線の先にはキナコしかいない。
思いの外時雨が動揺しているのがおかしくて、湧き上がった焦りなどどこかへ消えてしまった。そう、今差し当たって問題なのは私よりキナコだ。
「ごめん、何も言ってないよ。それよりキナコだよ、デブだと思ったのは」
食器洗いを再開する。ぬるい水が白い食器にぴちぴち跳ねて、ぴちぴち飛び散る。今日のように、食器が目に見えて汚れていないときの食器洗いが好きだ。スポンジも洗剤の泡も最後まで白いままなのが綺麗で良い。
「そうそう、ダイエットするのは小夜ちゃんじゃなくて、どう見てもキナコだよな」
時雨の声は満足そうだ。
するとわらしくんがぽつりと「では、キナコを散歩についれていくというのはどうでしょう」と空をぼんやり見上げて呟いた。外はまだ水をたくさん含ませた絵の具のような薄い曇り空だ。もしかしたらただわらしくんが散歩をしたいだけかもしれなかった。
「いいねえ。今日はもう何も予定がないし、海まで行こうよ。そうだ、おやつとお茶も持って行こう」
こりゃ名案だ、といったふうに時雨はソファから飛び上がった。目がとてつもなく輝いているが、きっとキナコのダイエットウォーキングがそもそもの目的であることをもう忘れているのだろう。
「小夜ちゃん、バスケット貸して。わらしくんは水筒出してきて」
「はい」
ふたりがばたばたと楽しそうに動き出したその背中に、バスケットは二階にある旨を告げて、私は終盤に差し掛かった食器洗いを続けた。
キナコはこれから何が起こるのかには興味がないらしく、縁側の陽だまりの中でその大きな体を横たえている。庭に数羽のスズメが降り立ってきたのが見えた。平日の午後はとても静かだ。
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