第10話 襲撃

 光の無い夜だった。

 星も、月も、昏く分厚い雲が全てを覆い隠してしまう。


 街灯の灯りも届かない屋根の上、ラフィネの街を疾走する小さな影が一つ。それは異様な風貌だった。子供程の小さな背丈に、顔をすっぽりと覆い隠してしまう純白の仮面。目深に被ったフード付き外套の隙間からは、僅かに金糸が溢れ靡いている。


 それはまるで風のようで。

 屋根の上という不安定な足場でありながら、その疾駆には揺らぎがない。もうすぐやってくるであろう雨の匂いに紛れながら、首刈りの風が標的に迫っていた。


 飛ぶように駆けながら、アリスは昼間の出来事を思い起こしていた。

 ミラの強い要望によって襲撃を夜と定めたアリスは、余った時間で街中を散歩していた。別に街に興味があったというわけではなく、それはただの暇つぶしでしかなかった。


 そんな暇つぶしの最中、街の広場に人集りが出来ているのを見つけた。当然、広場といえば人が集まる場所だ。ただそれだけならば、特に目を向けることもなかっただろう。だがどうにも騒がしい。聞こえてきたのは悲鳴と怒号、そして泣き声。街中の喧騒と呼ぶには些か趣の異なる騒がしさだった。


 特に興味があったわけではない。ただなんとなく、本当にただの気まぐれで広場を覗いてみれば、そこには領主邸の衛兵と民衆の姿があった。どうやら、なにかしらの揉め事があったらしかった。


 地に倒れ伏しているのはまだ幼い子供。血を流し、ぴくりとも動かないでいる。悲鳴を上げて泣いているのは恐らく子供の親だろう。怒号の主は周囲の市民達だ。状況から察するに、領主邸付きの衛兵が権力を笠に何か無体を働いたのかと思えば、どうやらそれも違うらしい。なにしろ衛兵までもが酷く申し訳無さそうな、苦悶の表情を顔に貼り付けていたのだから。


 彼らの声に耳を傾けてみれば、大凡の事情は掴むことが出来た。

 どうやら少し前に、領主であるフィルレイン伯爵がここを馬車で通ったらしい。何か急いでいる様子の伯爵は、馬車の道を阻んでしまった子供を、わざわざ馬車から降りてきてまで切り捨てたらしい。民衆の声を拾い上げれば、如何に悪名高いフィルレイン伯爵と謂えどここまでの無体は初めてのことだという。伯爵はまるで何かに怯えるような、苛立ちと焦りの色を顔に浮かべていたのだそうだ。


 ここまで聞けば、一連の出来事には想像がつく。

 つまり伯爵は、今更ながらに自分がしでかした事の重さに気がついたのだろう。下らない欲とプライドの為に聖教国へ手を出し、そうして今更刺客、つまりは自分アリスに怯えているのだ。ならばいっそ邸宅に引きこもっていればいいものを、しかしプライドが邪魔をしてそれも出来ない。そんな恐怖と焦りと苛立ちが、運悪くその場に居た民衆へと向かったのだ。どうやらフィルレイン伯爵とは、つくづく救えない男であるらしい。


 そうして民達は怒り、しかし何の力も持たないが故に、諦めて嘆くのだ。

 ───ラス様がいれば、と。


 屋根と屋根の間を一足で飛び越えながら、アリスは思う。

 別に責任を感じている訳では無い。だが、もしも街に入ってすぐに伯爵邸へと向かっていれば、昼間の件は起こらなかった事なのかもしれない。

 嘆くことしか出来ない民衆に、自分を重ねている訳では無い。だが、もしも自分がもう少し早くこの街へ来ていたら、あの子供は死なずとも済んだのかもしれない。


 全ては。意味のない妄想だ。

 自分は彼らの為に来たわけではないし、ましてや、彼らを救いたいなどと思ってもいない。だがそれでも、胸に渦巻くどす黒い感情は昼間からずっとアリスを責め立てていた。


 そうして屋根を駆けること暫し。

 アリスの眼前に、一際大きな建物が姿を見せた。言うまでもなくフィルレイン伯爵邸だ。


 伯爵邸は屋敷の大きさもさることながら、敷地そのものが広大だ。警備を行っている騎士の数も多く、忍び込む隙間など一切無いように見える。

 正門など論外だ。なにしろ見張りの衛兵が二人、魔導具のベルを携えて常駐している。仮に一方を素早く無力化したとしても、もう一方がすぐにベルを鳴らして敵襲を屋敷内へと伝えるだろう。

 外周の状況も大差はない。一定間隔で配置された衛兵は一度に無力化することなど出来ない。やはり全員がベルを所持しており、一人を処理したところで隣のベルが鳴るだけだ。


 彼らが所持している警報用のベルは、魔力にも反応するスグレモノだ。一定範囲内で行使された魔法を検知し、更にはその方角まで教えてくれる。有効範囲はそれほど広くはないが、しかし遮蔽物に干渉されることがない。故に入り組んだ市街地等での警備に広く重用され、こうして一定間隔で並べられれば、見つからずにやり過ごすことは殆ど不可能に近い。


 だがアリスにとって、そんなものは障害たり得ない。

 魔法が使えないのであれば、魔法を使わないだけの話なのだ。駆ける勢いをそのままに、アリスは屋根の側端からその身を宙に躍らせる。彼女の小さな身体はまるで砲弾のように弾かれ、そのまま伯爵邸の巨大な柵を飛び越えてゆく。暗闇の中を舞う小さな影はほんの数秒の滞空の後、音もなく敷地内へと着地した。




 * * *




 ラスが伯爵邸へと戻ったのは、日が落ち始める少し前のことだった。

 そうして帰るなり早々、昼間の一件を執事長から聞かされた。呆れて頭を抱えるよりも先に、どうしようもない怒りが彼の胸中を支配した。


「なんということを!! 父上、貴方は自分が何をしたのか分かっているのですか!?」


 愚かな父だということは分かっていた。誰よりもよく知っているつもりだった。だがそれでも、こんなどうしようもない男でも自分の父なのだ。故にこれまでは、息子の自分が尻を拭くことでどうにかやってきた。だがそんな我慢もついに限界を迎えていた。聖教国に手を出したばかりか、守るべき対象の筈の領民にまで八つ当たりをするなどと。それも相手はまだ幼い子供だったというではないか。


「ふ、ふん……たかが領民の一人や二人で大袈裟な……」


「なッ……? そこまで……そこまで腐っていたのか! 貴方は!!」


 事ここに至り、ラスは自らの過ちを悟っていた。こんな男を自分の父であるからと、これまで庇ってきた自分の責任だ、と。もはや殺してやりたいとさえ思うほどに憎かったが、それでは民を八つ当たりで殺めたこの男と同じになってしまう。たとえ貴族と謂えど、理由なく人を殺してもよいなどという道理はないのだ。このかつて父であったモノは、法に照らして裁かれねばならない。


「き、貴様ッ! 父であり伯爵家の当主であるこの私に向かって、な、なんたる無礼なッ!!」


「黙れ!! 貴方に───貴様に領民を導く資格などないッ!!」


「な、なんだと!? 勇者だからと図に乗りおって……っ!」


 そんなラスの叱責に、激昂した伯爵が剣を抜いて襲いかかる。だが所詮は無能の剣だ。無力な領民を斬ることは出来ても、世界最強の一角と謳われるラスに敵う筈もない。上段から振り下ろされたあまりに鈍い剣は、ラスの右手によって簡単に払われてしまう。運動など普段からロクにしてこなかった身体だ。ただそれだけでバランスを崩し、無様にも床へと転がるフィルレイン伯爵。


「醜態だ……我が父ながら、なんと恥ずかしい」


「ぐっ、ぐぅぅぅぅ!! きさっ、貴様……」


 もはやラスを睨みつけ、ただ唸ることしか出来ない伯爵。力でも、才でも、人格でも。何もかもがラスの足元にも及ばない。そんな惨めな父親の姿を見つめるラスの瞳には、ひどく複雑な感情が浮かんでいた。


「殺しはしない。貴方には罪を償ってもらわなければならないからな。時が来れば帝都へと引き渡し、それで終わりだ。事の経緯をお伝えすれば、陛下も認めて下さるだろうよ」


「ふざけるな! 貴様にそのような力が───」


「俺の力など関係ない。関係があるのは貴様の罪だけだ」


 冷たくそう言い放つと、ラスは衛兵を呼び出して伯爵を拘束させる。部屋へとやってきた衛兵たちは状況を瞬時に把握し、困惑して見せるどころか、漸くこの日が来たかとでも言いたげな表情をしていた。


「やめろ! 離せ! 貴様ら、私を誰だと思っている!!」


「地下牢へ連れて行ってくれ……少しでも、牢の中で反省してくれ」


 そうして地下牢へと引きずられてゆく伯爵を、ラスが悲しそうに眺めていた時だった。部屋の中へと、場違いな幼い声が響き渡った。


 ───それは無理よ。



 小さな、それでいて抑揚のない声だったが、不思議とその場にいる全員の胸に届くような声だった。


「───ッ!?」


 勇者であるラスにも、声の出どころが掴めなかった。それどころか、声が届く距離に居るはずの何者かを知覚することさえ出来なかった。ただ、ひどく嫌な気配だけがラスの心臓を激しくかき鳴らしていた。


 ラスが自らの背後、部屋で最も大きな窓の方へと瞬時に顔を向ける。それと同時に、『心象具現エスト』である聖剣を取り出し窓へと突きつける。


 いつの間にそこに居たのだろうか。

 聖剣の切っ先が向かうその奥に、仮面を被った小さな影が立っていた。


「だってその人、ここで死ぬもの」

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