第80話


 ウルス砦に馬車で到着した直後、近くにある川に興味を惹かれたリドはこっそりと集団から離れ、川岸に腰掛けて水の音に耳を傾けていた。

 壁の内側で育ったリドにとって、川という大量の水が流れている光景は衝撃の一言だった。

 これだけの水があれば、どれだけの命が救われるだろうか。少なくとも泥水や雨水を飲むしかないスラムに川があれば死者の数はグッと減るだろう。

 しばらくぼーっと眺めて、小一時間経った頃に飽きがくる。別の場所に移動することを決めた。

 

「ここが砦か」


 さらに南方へ下り、砦付近の迎撃装置らしきものや柵を見て回る。


「こんなんで大丈夫なのか?」


 切り立った丘にそびえるように存在するこの砦は、周囲を魔物の襲撃に備えて柵で囲んでいるようだが、正直これで魔物の進行を防げるとは到底思えない。

 

 記憶の中にある魔物らしきものは、アホみたいにデカく、素早く、力強い。

 天災が具現化したような存在だ。とてもではないがこんな子供の工作程度のもので防げるビジョンが浮かばない。


「今は平和だっていう話だし、考えすぎか」


 もう少し見て回りたいが、あまりフラフラ出歩いてもエマにギャーギャー怒られるだろう。それは面倒だと来た道を引き返すために踵を返そうとしたところで、


「なんだこの匂い……」


 妙な胸のざわつきを感じて林のある方向へ視線を向ける。

 嫌な臭いだ。

 何かが焦げたような臭いが鼻に突く。いや、もう薄々感づいている。『何か』ではなく『何者か』と表現したほうがいいことなど。

 スラムで嗅ぎ慣れた特有の焼ける臭い。


「行ってみるか」


 今日から一か月世話になる場所の異常事態ならば他人事ではない。こんな匂いがずっと漂っていたら飯の味が不味くなる。

 違和感の正体を探るべく林へ近づいていった。一歩進むたびに臭いが強く、鮮明になっていく。

 最初は山火事でも起きたのかと思っていたのだが、途中から違うと確信する。

 ただの火事にしてはアンモニア臭が強すぎるからだ。

 ある程度進んだところで火元の近くで人が立っているのが確認できた。


「ん? なんでこんなところにガキが? ここから先は立ち入り禁止だ」


 鎧と剣を身に付けている事からエルセレムの兵士だと分かる男がリドを止める。


「この先に何がある?」

 

「お前には関係ない。さっさと消えろ」


 手で払うように兵士はしっしっとやっていた。

 強引に突破するという手もあるが、どうにもこの場所は気味が悪い。

 

 過去の経験則から言うのであれば、スラムで30人近くの死体を路地の一角で見かけたような不気味さがある。

 戦闘の痕跡がないのに、新鮮な死体の山ができていた。

 あの時は地下道の魔物が死肉をむさぼりに来ただけだったのだが。

 とかく、この場所はあそこに似て死の臭いが濃すぎる。


 世の中には知らないほうが良いことがある。

 貴族の娘がスラムという場所に興味を持ってしまえば、そいつの人生はおしまいだろう。いつぞやのように都合よく助けが来なければ。


「チッ、まあいい。じゃあな」


 先ほどから男の背後に視線を向けようとすると、腰の剣に手を伸ばすような動作をしていた。

 隠しているようだが、殺気はバレバレだ。

 勝てる勝てないではなく、ここで手を出せばオレへ何かしらの懲罰が発生するリスクがある。

 心残りではあるが大人しく踵を返した。

 

 林から出て馬車の方へ向かうと、オレ以外の生徒たちが集まっているのが見え、慌てて近くの建物の影に身を隠す。


「なんで、整列してんだ? 何やってんだアイツら……」


 息を潜めて様子を伺うと、どうやら誰かを探しているらしい。


『リド・エディッサを最後に見た者は!?』


(……どうやらオレを探しているらしい)


『見つけたら手足を折ってでも私の前に引きずり出せ!』


 なんか長髪振り回しながらめちゃくそ怒ってる女が物騒なことを叫んでいる。


(全く……オレが何をしたというんだ……)


 仕方ない。しばらく身を隠していれば何とかなるだろ。

 リドなんてやつは最初から居なかった的な、ね。


「よし。そうと決まれば」

 

「――決まれば、なんだ?」


 突然背後から声を掛けられて思わず全身が硬直した。

 ついつい気配を探るのを忘れており、背中を晒してしまっていたようだ。

 

 これが平和ボケというやつかもしれない。

 ゆっくり視線を向けると軍服のようなものを着た30台前後の中年が一人、煙草を口に咥えながら呆れたようにリドを見下ろしている。


「だれだ、オマエ?」

 

「年上には敬語を使えよ、おチビ……。いや、リド・エディッサ君」

 

「……なんでオレの名前を知ってんだ?」

 

「今エルセレムじゃ、知らないやつの方が少ないだろうよ。それよりさっさと合流したほうが良いと思うぜ? こういうのはサッと入ってきゃなんも言われねぇって」


 おっさんは横に並んで一緒にマジキチ女の狂乱を見る。


『見つけ次第地下牢に入れてやる!!』


 今にも剣を腰から抜いて、目に映るものすべてを切り刻んでいきそうなイカれてる女は目から光線でも出しそうな具合だ。

 こんな中に『実はいましたよー! てへっ』とか言って入ろうものなら首を切られてもおかしくない。


「……あ、すまん。これは無理だわ」

 

「諦めんの早すぎんだろ」


 つか煙けむい。めっちゃ煙い。

 煙草の煙が目に刺さる。

 漂ってくる煙を手で仰いで飛ばしているのを知ってか知らずか、おっさんは大きく煙を吐き出した後、悪巧みを浮かべたような顔でリドと視線を合わせた。


「よし、仕方ねぇからこの俺様が一芝居打ってやろう」

 

「あ? 何言って――」


 ゴッ! と何かで頭を殴られて視界が一瞬揺らいだ。

 それが剣の鞘であることに気が付き、堪忍袋が弾けるように切れるのが自分でわかる。


「てめぇ何しやがる!?」


 お返しとばかりにリドは男に拳を振りぬくが、予め行動を読んでいたかのように躱された。


「おっとっ! 流石に硬てぇなおい。一般人なら頭蓋骨が割れるくらいには力込めたんだがな」

 

「今すぐ説明しろ。納得できたら全身骨折くらいで勘弁しておいてやるよ」


 飄々としているが、目の前の男は強い。

 少なくともモーリス程度なら一対一で倒せるほどに。


「お前が意識失って、俺に担がれて合流すれば怒られることはないだろ? 『林の中で見つけた』って言えばさ」


 含みのあるような言葉を口にして、煙草の煙を吐き出しながら男は口元を歪める。

 どうやらこいつはあの林に何があるのかを知っているようだ。

 猜疑心が更に膨らむ。


「随分とキナ臭いなオマエ。ただの兵士じゃねぇな?」


「心外だな。ヤニ臭いとはよく言われるけどさ。でもまあ、とりあえず他の方法浮かばないから――」


 瞬間、男はリドの視界から姿を消す。

 どこに行った? と考える前に顎に強烈な一撃を貰い地面に膝をつく。


「――ちょっと寝ててくれ」


 その言葉を最後に、後頭部に衝撃を覚える。

 先ほどとは比べ物にならないほどの衝撃。

 

 ――この瞬間、リドは思わず意識を手放した。

 

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