1‐9
気が付けば、ベオはそれまでいた林とは全く趣の異なる場所に立っていた。
足元には消えつつある白い線で描かれた魔法陣。それからして、転移の魔法によってこの場所に飛ばされたことは理解できた。
「……小僧は……無事か」
足元に、仰向けに倒れているルクスの姿を見つける。呼吸もしているようだし、見たところ戦い以外の外傷もない。彼が手にした黒の剣も、すぐ傍に転がっていた。
どうやらここは、暗い洞窟の中のようだった。上の方を見て見れば、薄っすらと天井のようなものが見える。
足元には石や何かの瓦礫が散乱していて、裸足であるベオでは歩くのにも難儀しそうだった。
灯りと呼べるものは殆どなく、ぽつぽつと点在する光を放つ草花や、魔力が含まれた鉱石の淡い光で、どうにか視界が確保されているような状態だった。
「……これは……」
ベオの立っている場所のすぐ後ろ側に、巨大なモノリスが聳え立っていた。黒く聳える巨大な長方形の壁のようなそれは、まるで石板のように表面に無数の文字が描かれている。
ベオはモノリスに手を当てて、それを見上げて書かれている文字に目を通す。
「よくぞここに参られました」
幾つかの足音と共に、そんなしわがれた声が聞こえてきて、ベオは獣の耳をピンと立てて、振り返った。
暗闇の向こう側から、その正体がゆっくりと視界に入り込んでくる。
先頭を歩くのは、腰の曲がった小柄な老人だった。顔には幾つもの皺が刻まれて、フードの付いたローブで全身を覆っている。
その後ろには五人の若者が続いている。男女数名で、いずれもまだ若々しく、人間ではない特徴を持っている。
「耳長か。まだこの世界に生き残っていたとは思わなかったぞ」
「ほぉ、よく気付かれましたな……」
老人がフードを外す。
真っ白になった髪の毛の間からは、人間の物とはやや異なる、細長い耳の先端が覗いていた。
それらはこの世界で、エルフと呼ばれる者達の特徴だ。美しく長寿で、自然との融和を第一とする彼等は、深い森の奥などを住処としていることが多いというのが、ベオの中にある記憶だった。
「まさか封印が解かれているとは思わずに、手荒な真似をしてしまい申し訳ございませぬ。魔獣は、また別の場所に送り届けました故に、ご安心を」
「その口ぶりからするに、あの屋敷での騒動は貴様達が原因ということか?」
老人は曲がった腰を更に折り、ベオに対して強い敬意を払っているようだった。しかし、周囲の若者達はそう言うわけではないようで、ベオに対する明らかな不信感が見て取れる。
「ええ、そうですとも。それも全ては貴方様を人間共の薄汚い戒めから解き放つため」
「……ほう。それは殊勝なことだ。それで、私がそれに感謝して、貴様に忠誠を誓うとでも思ったか?」
「いいえ、まさか! そんな滅相もない。ですが見たところ、お姿もすっかりと様変わりしてしまい、何かと不便を感じることもあるでしょう。その力自体も、その大部分を失ってしまったのではないでしょうか?」
「……それは、そうだな。力だけではなく、記憶も危うい。そもそも何故私がこんな姿をしているのかも……」
腕を組み、憮然と返答する。実際のところ、ベオの記憶の中では、自分はあの程度の魔獣に手こずるほど弱くはなかった。長い封印の所為か、それとも他の要因があるのかはわからないが、全盛期に比べて随分と力が劣っている。
「ですから、我々と行動を共にし、この世界のことを知りながら、ゆっくりと力を取り戻していただければいいのです。貴方様にとっても、人間共が跳梁跋扈するこの世界は、忌むべきものでしょうからな」
「ははぁ、なるほどな」
ベオは、その細い指を顎に当てて、納得が言った風に頷いた。
「何処で私のことを知ったかは知らぬが、またあの時のように暴れさせる腹づもりか」
「そうなりましょうな。他でもない、貴方自身の意志によって。見たところ、その黒の剣を通じてそちらの少年と鎖が繋がれているようですな。それも、こちらで解呪して見せましょう」
「要らぬ。そいつに掛かっている封印は特別なものだ。下手をすれば、黒の剣諸共小僧の命も失われかねん」
腕を組んで、ベオはモノリスに寄りかかる。老人はあくまでも慇懃な態度で接しているが、ベオを見るその目の奥にある闇色の光は、隠しようもなかった。
「黒の剣の存在など些細なもの。人間共はそれを英雄を生み出す遺物と考えていたようですが、それは大きな間違いです。我等の目的はあくまでも貴方様なのですから」
「こいつはどうする?」
「人造兵でしょう? 人間が我等を駆逐するために生み出したその歪な生命、どうしてそこに価値がありましょうや?」
「……確かにな」
老人の言葉には、常に暗い響きが付きまとっている。
彼は一歩歩み出て、ベオに手を差し伸べた。
それは共に道を歩もうとする同志に差し出す、親愛の証。
「貴方様の封印から幾千年。実に様々なことがありました」
「……ああ、わかっている。そこに幾つかの出来事も書いてあったようだしな」
「我等はあの忌まわしき人間に、貪欲で醜く愚かな簒奪者共によって、辛く長い雌伏の時を過ごしてきたのです! ですが、これからはその歴史は変わる。貴方様の存在が、それを変えるのです!」
拳を握り、顔を赤く染めながら老人が熱狂する。背後の若者達も彼の態度には戸惑っているようで、そのうちの一人が興奮を治めようと、その肩に手を置いた。
「貴様達もそうだろう? 亜人と呼ばれ蔑まされ、追いやられてきた歴史がある! だから、ここで全てを変えなければならない。そのための必要な力が貴方なのです! 二十年前は失敗に終わりましたが、それは準備が足りなかったから。今より長い時間を掛けて全てを整え、人間共や奴等の信仰する神を大陸より駆逐しましょうぞ!」
若者の手を振り払い、老人は続ける。
「あの英雄と呼ばれる者達を滅ぼすのは、貴方しかおりませぬ。英雄と対を成す者、『魔王』である貴方しか! さあ、魔王ベオ―ヴォルフ様、世界の全てを火の海に変えた貴方の力を、今こそ我等と共に!」
そこには、ありとあらゆる負の感情が込められていた。
怒り、憎しみ、そして悲しみ。恐らく彼は、多くのものを奪われて来たのだろう。そして、その最後の、起死回生の一手としてベオを封印から解こうとしたのだ。
それは背後にいる若者達も同様のようだった。興奮する老人にこそ驚いているものの、彼等の視線は最初とは違い、ベオに対して期待を向けるものへと変わりつつあった。彼等の中心人物の一人である老人がこうまで心酔する者ならば、何かしらの力があると信じ始めているようだった。
――だが、そんなことはベオには関係なかった。
「貴様等の憎しみなど、私の知ったことではないな」
ベオが細腕を振り上げる。
そこに灯った紅い炎が、老人の身体を下から上に引き裂くように走った。
老人の身体が吹き飛んで、その場に尻餅を付く。一撃でその身体が炭化しなかったのは、彼の身体が強固な魔法の障壁によって護られていたからに他ならない。
「何を……!」
老人が目を見開き、驚愕の声を上げた。
「いったいどのような目的かと思えば馬鹿馬鹿しい。人間を殺す? 貴様の恨みを晴らす? どうして私がそんな些事に手を貸さねばならん?」
「……ひ、一人のものではない! これは大勢の悲願であり……」
「数が増えたところで関係あるものか。その望み自体が愚かであると、私は言っているのだ。どうして他者の恨みで、この魔王が動くと思った? それが昏きものであれ、人の願いで動くのならば、英雄であろうが」
「そ、それは……! だが、貴方様は! 魔王ベーオヴォルフ様は神に仇なす存在のはず……!」
「くだらぬ。復讐に囚われた愚か者の物差しで私を測ったつもりになったか? 悲劇はもう、この世界に必要なかろう」
「ならば貴方は……なんのためにこの世界に蘇られた? 何を成すために、何のために……!」
「さてな。最早一度尽きた命だ。そこに価値があるとは思っておらん。だが、そうだな……今は、そこの無謀な願いを抱く馬鹿に力を貸すことにしている。魔王としては、借りを作りっぱなしと言うのも気分が悪い」
「わ、我等の力にならぬのならば消えてもらうだけだ!」
或いは、老人がここでなおも頭を下げたのならば、協力こそはしないものの、彼の命は助かっていたかも知れない。
懐から杖を取り出したその手首から先が、炎の刃に斬られて炭化して落ちる。
「いっ……!」
それ以上の悲鳴をあげることもできなかった。
ベオの手から放たれた熱風が、老人の包み込み一瞬にして焼き払う。後には、真っ黒になった小さな影が、地面に落ちて砕けるだけだった。
「ば、化け物……!」
若者の一人が、そう呟く。
その恐怖は瞬く間に彼等の間に伝染し、老人の死体を放置して一斉に逃げ出していった。
「やはりその程度の集団か。大方、こいつの勢いと口車に乗せられていたのだろうな。自分の頭で考えることもせずに」
果たして何を煽り何を成そうとしていたのか、それは今となっては知りようもないし、ベオにとってはどうでもいいことだった。
引き締めていた表情を緩め、倒れている少年の傍に屈みこみ、その頬に手を伸ばす。
「そんなくだらんものよりは、今はこの小僧の方が余程面白い」
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