1‐8
扉を開けて階段を降りた先は、それまでの炎の熱や周囲の音が夢であったのかと思えるほどに、静寂に満ちた空間だった。
掃除のために訪れた時とは全く違う荘厳な空気が、その地下倉庫には立ち込めている。
青白い光を放つランプ代わりの魔法石が映し出す黒い鞘に入った剣が、それまで見ていた姿よりも何倍も存在感を増して、より一層の危うさと神秘を思わせる。
「……ルクスさん? こんなところに来て、何が……」
手を放し、へたり込んだままのエレナの言葉に、ルクスは答えなかった。
答えられなかったというのが正しいのかも知れない。その視線は、一点を見つめている。
既にルクスが何度か見てきたように、彼女はいつもの通りにそうしていた。
ただ、普段と違うのはその表情。
薄く唇を歪め、全てを見通す運命の女神のように、ルクスを見ていた。
「待っていたぞ」
「……待ってた?」
「――ああ、そうだな。勘違いするなよ、別に未来がわかるわけではない。ただ、そう願っていただけの話だ」
「……どうして?」
「何かが起こっているだろう?」
ぴんと獣の耳を立てて、少女が語る。
エレナの目には、ルクスがおかしくなってしまったかのように映っていることだろう。実際に彼女に少女は見えておらず、ルクスが喋っている相手を見つけようとしてあちこちに視線を彷徨わせていた。
「こういう転機は何度も訪れてきた。その度に持ち主が変わり、しかしだからと言って誰にもこの剣を抜くことはできず……私はいつも、暗闇に封じられていた」
やはり、外の者達の目的はあの剣なのだろうか。
少女の口ぶりからは、何度も何度も同じような争奪戦が行われてきたことが窺わせられる。
「だが、今度は違う。私の声を聞き、姿を見て、そしてこの剣に魅入られた貴様がいた」
「……魅入られた……?」
「恐ろしいと感じただろう? 決して触れてはならないと、本能が訴えたのだろう?」
黙って頷く。
「この剣も貴様を選んだ。英雄ではなく、黒い穢れた心臓を持った貴様を」
「……穢れた心臓」
胸の辺りに手を当てる。
動悸は先程から、ずっと激しいままだ。
炎の中を駆け抜けてきたのだからそれは当たり前なのだが、それとは別の期待のような思いがそこには満ちている。
「貴様に問おう」
少女は語る、朗々と、楽しげに。
「ここでその女と共に朽ちるか? それとも穢れを背負い、私と共に新たな世界を望むか? 二つに一つ、言葉は要らぬ。行動で示せ」
躊躇いはない。
力のない少年は、あの日を境にたった一人になってしまった。
だから、英雄に憧れた。
未来の自分に、過去の自分を許させるために。
しかし、現実は非常で、少年は英雄にはなれはしない。
それでも、少年には大勢の人の、理不尽な死を拒む意志がある。
手を伸ばすと、剣に結びついていた鎖がボロボロと崩れて落ちる。
それを囲む光の柱は、無抵抗のルクスの手を中へと通した。
それはまるで、既に役割を終えて、朽ちていくかのようにも見えた。
少年の心臓が強い鼓動を鳴らす。
この時を待っていたと。
こうするために、生まれてきたのだと。
喜びの音を奏でる心臓を片手で抑えながら、剣の柄を握る。
黒い刀身が色を持つ。
くすんだ紅色と変わっていくその剣を、一気に自分の傍へと引き寄せた。
「ルクスさん……。その剣、大丈夫なんですか?」
心配そうにエレナがそう声を掛けてくる。
ルクスの代わりに、もう一つの高い声がそれに応えた。
「心配はいらん。この小僧は、間違いなく剣の封印を解いた。どうしてそうなったかまでは、私の知ったところではないがな」
「へ、お、女の子……? なんで、どうして急にここに!」
「久しぶりに肉体を得るとなんだか重苦しいな……。この身体も手足が短くて使い辛そうだし……まったく、どうしてこんな姿になったのだか」
手や足を伸ばして、少女は自分の身体の動きを確認してから、剣を握ったままのルクスへと視線を合わせた。
「私の名は――ベオだ。よろしく頼むぞ、小僧」
「は、はい。……ルクスです」
「うむ。それで、そっちの胸でか娘はなんと言う?」
「む、胸でか……!」
エレナがメイド服の上から、激しく主張している胸部を抑える。
名前を名乗るよりも早く、階段の上の方から破壊音と、数人の足音が響いてきた。
「見つかった……! ベオ、ここは僕が!」
「待て待て。折角こうして解き放たれたんだ。準備運動ぐらいさせろ。お前も、封じられていた私の力がどの程度のものか、知っておきたいだろう?」
ベオはルクスの答えを待っていない。
入ったきたのは獣人の男達だった。武器を持って、階段を駆け下りようとしてきたところを、飛び出したベオを見て立ち止まる。
彼等が何かを言おうとする前に、ベオがその細腕を振るう。
掌に生み出された炎が熱波となって、轟音を伴って放たれた。
その風によって炙られた男達は一瞬にして炭化し、後に残ったのは嫌な匂いを放つ黒い物体のみ。
唖然とするルクスに向けて、首を後ろに向けながら、ベオは自慢げに微笑む。
「どうだ? 貴様の人生を賭けるに足るものだろう?」
「……は、はい」
その言葉の意味もわからずに、ルクスはただ頷く。
それを聞いたベオは上機嫌に尻尾を一度だけ振ると、視線を階段の上へと向けた。
「ベオは後ろでエレナさんをお願いします!」
「おい、なんで私を先に行かせない?」
「護られてばかりは嫌だからです! それから、エレナさんを護ってあげてください! 僕がここに来た理由は、彼女を助けるためなので!」
「むぅ、だが仕方ないか……。封印を解いてもらった手前もある、大人しく従ってやろう」
叫ぶように答えて、ルクスは先んじる。
不承不承と言った感じで納得するベオを連れて、ルクスは階段を駆け上がっていく。
廊下を駆け抜けたその先に何かが佇んでいるのが見えて、ルクスはその場で立ち止まる。
こちらに首を向けているそれに意識を向けたまま、出入り口のある方向を指さした。
「エレナさんを外にお願いします」
「……わかった。だが、無茶はするなよ」
「……はい」
心臓が掴まれたように痛む。
手に持った黒い剣が、鼓動を刻むように輝いていた。
「ルクスさん……?」
「胸でか。貴様はこっちだ」
有無を言わせず、ベオはエレナを引っ張って屋敷の外へと駆け抜けていく。
見れば、その人物の足元には剣を握ったままのライナーが倒れていた。ルクスのいる位置からでは、彼が生きているのか死んでいるのかもわからない。
いや、彼だけではない。
彼の部下と思しき兵士や、屋敷で務めていた使用人達。それらの死体が、まるで獣に食い散らかされたかのような無残な姿でその横に転がっていた。
ただ、ルクスの心臓が、それに対する危険性を訴えるが如く激しく脈動していた。
ルクスの中にいる、ルクスですら知らない『誰か』が、歓喜にも悲鳴にも似た声を上げている。
炎に映し出されるその影は、エレナ達と同じメイド服を纏っている。頭にある獣の耳は、獣人と呼ばれる種族の証。
しかし、決定的に何かが違う。
女の身体が正面を向いて、それはすぐにわかった。
光のない虚ろな瞳。だらりと垂れ下がった生気のない両腕。操り人形のような動きをしながら、それはその内側に秘めている凶暴性や危うさでこちらを威圧している。
「……心臓が……」
紫色の光を放ち脈動する心臓。
ルクスの胸の部分にも、それに呼応する何かが収まっている。
「……お前がこれをやったのか?」
女は答えない。
ただ、唇が裂けそうなほどに歪めて、にい、と笑うだけ。
ドッと、重苦しい音がする。
棒立ちの姿勢からはあり得ない速度で、女の身体が加速した。
そのまま、両腕を広げたまま体当たりを仕掛けてくる。その速度と、まるで獣のように変化し爪を伸ばす両手を見るに、まともに受ければ抵抗することもできずにルクスは肉塊へと化していただろう。
だが、ルクスにはその動きが見えていた。
以前の、ゴブリン数匹に苦戦していた少年とは思えないほどの身のこなしで剣を抜き、その一撃を受け止める。
全力を持ってその身体を押し返して、そのまま擦れ違いざまに女の肘から先を斬り落とす。
紫色の血が舞って、炎の中に消えていく。
ルクスはすぐに振り返って、そのまま女と距離を取った。
「……僕、強くなってる……」
握っている剣の刀身が、鮮やかな紅色の光を放つ。
血の色を思わせる紅色の刃を、両手で握り正眼に構えた。
「……これが、封印されていた剣の力。僕を呼んで、力を貸してくれる、黒の剣」
心臓が共鳴する。
ルクスの中にある『何か』が、呪われし剣と共鳴してお互いの力を引き出しているようだった。
「ギ」
女の口から、音が漏れる。
口元だけが嫌に感情的に動き、眼球をぎょろぎょろと機械的に動かしながら、壁を蹴ってルクスへと襲い掛かってきた。
「くっ、だからって……!」
女の攻撃を、剣で弾く。
女は執拗に、獣の腕と化した片腕で攻撃を仕掛ける。
その速度も力も凄まじく、幾ら強くなったといえど、ルクスの力では受けるのが精一杯だった。
片腕を受け止めて、押し返そうと力を込めと、女は急激に頭を後ろへと振りかぶる。
「な、にを……!」
瞬間、女の口が裂けた。
まるで獣のように上顎と下顎を大きく開く。その中に見えたのは無数の鋭い牙と、赤い舌。それはもう、人間のものではない。
「口が!」
女の胴を蹴り、背後へと飛ぶ。
しかし、無理矢理に距離を取った所為で、そのまま逃げることも反撃に移ることもできなくなってしまった。
そこに、女は無造作に掴みあげた建物の瓦礫を放り投げる。
炎で崩れた石壁の瓦礫は、無数の散弾となってルクスの身体を襲った。
「つぅ!」
廊下を駆け抜けて、必死でそれから逃げる。
女は四つん這いになり、まるで獣のようにルクスを追い立てた。
いや、まるでではない。その姿はまさに獣そのものだった。最早獣人ですらない。
ルクスは駆け抜けようとする廊下の、その窓の外に銀色の光を見つけて、硝子を突き破って外へと飛び出していく。
ヤルマの屋敷の側面に、全身に傷を作りながら、少年の身体が転がる。
先程までの歪なものとは違い、狂喜に歪められた双眸を持つ獣が、その後を追って窓から全身を窓の外へと躍らせた。
その怪物に、火球が直撃する。
炎に巻かれて、獣の動きが一瞬鈍った。
「いい囮だ、小僧!」
「エレナさんは?」
「無理矢理屋敷の遠くに逃がしておいた! これで戻ってくるのなら、もう責任は持てん! それで、こいつをどうする?」
獣は、まだ死んでいない。
全身を炎で巻かれながら、既に人間の形を失った獣が両手両足で地面を踏みしめて、ルクス達に向けて疾走する。
「屋敷の中にはまだ生存者がいました! だから、こいつは引き離します!」
「それからは!」
「それができてから考えます!」
ベオの返事を待たず、ルクスは屋敷の後ろにある林へと駆けこんでいく。
木々の間を颯爽と駆け抜けながら、並走するベオが悪態を吐いた。
「幾ら何でも無鉄砲が過ぎるだろう! 私の火力と、貴様の黒の剣を持っても奴を仕留めきれる保証はないぞ!」
「だからって、屋敷で暴れさせ続けたら余計な被害が出るだけです。逃げた人達がミリオーラまで辿り付けば、誰か来てくれるかも」
「そんな弱気なことで……!」
「だったら!」
立ち止まり、振り返る。
既に全身ぼろぼろのはずの獣は、無限とも呼べる生命力を剥き出しにしながら、首だけをルクス達に向けて、その口から舌を伸ばしていた。
「ここで倒します」
「できると思うか?」
「……わからないけど、やってみましょう」
黒の剣によって、ルクスはこれまでにない力を得た。
それに加えて、ベオは自身が語っていた通り相当な強さを秘めている。
そうまでしても、目の前の獣には勝てないかも知れない。そう思わせるだけの得体の知れない何かが、目の前の獣からは放たれていた。
しかし、それでも退くことはできない。
「ここで逃げるようじゃ、英雄にはなれない」
ルクス達が諦めれば、奴はまたエレナ達を襲うかも知れないのだから。
剣を構え、踏み込もうとした刹那、獣の様子が変わった。
急に二つの足で立ち上がり、獣の物と化したその顔で、空に向けて咆哮を放つ。
獣の声は木々の間を通り抜けて、夜空に響き渡り、それから数秒もしないうちにルクス達に異変が訪れた。
足元に、何かが描かれていく。
白い線が広がり、円を作り、その内部に幾何学的な模様を作り出していく。
先のそれが何であるか気付いたのは、ベオだった。
「しまった、罠か! ルクス、こいつは……!」
彼女が何かを言う前に、魔方陣が完成する。
ルクスと、ベオ、そしてその獣。
三つの気配は一瞬にしてその場から消滅し、後には燃え盛る屋敷と、それとは裏腹に静寂を取り戻した林だけが残った。
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