第8話
その日の彼女はおかしかった。話しかけてもなにも言わず、なにか空気が尖っていた。どうしたの、と聞いても苛立たしげに頭を振る動作を繰り返すだけ。わたしの胸には不安が募った。
ああ、不意に彼女がわたしの腕をとる、治りかけのかさぶたで一杯のそこを、彼女は何も言わずに滅多切りにした。一筋、二筋、三筋、呼吸もなくされたそれに、わたしはとっさに
「やめて!」
と叫んでいた。腕をおさえた。手のひらに、溢れてくるものを感じて、ひどく泣きたくなった。彼女はわたしを見ずに空を睨んでいた。けれど、不意に脱力して笑った。諦めたような、そんな笑い方だった。
わたしはその時、突き放された、そんな気がして「どうしたの」そう何度も繰り返した。それでも答えはなくてわたしは途方にくれた。くれて、くれて、口からぽつりと出た言葉は「ちがうの」だった。
何が違ったのだろう?(いいえ、そうだ、違った、何もかもこのとき違ったのだ)
自分でもわからなかった。
「ひどいよ」
この言葉の方が、自分の気持ちに正直に思えた。事実、わたしはひどく傷ついていた。手のひらから、受け止めきれなかった雫が落ちる。わたしの目からも、溢れるかと思ったけれど出なかった。
「どうしてこんなことするの」
声はひどく涙に混ざっていても、一滴も涙は出てくれなかった。それがまたわたしを悲しくさせた。
「ひどいのはそっちでしょ」
彼女は暫くして、何かもぞもぞと呟いたあとにそう言った。
(今ふとわかった、やっぱりねと言ったのだ)
教室は暗くなり始め、窓の外だけまだ白く明るかった。二人の姿は、互いに影になって見えなくなった。わたしの腕から落ちた血が、床に点々と水玉模様を作った。それがまた、むなしく悲しかった。
「どうして」わたしはもう一度呟いた。答えはやっぱり返ってこなかった。
数日して彼女と会った。わたしの気持ちとは裏腹に、傷は治り始めていた。よほど深く切られたと思ったそこは、別段特別な処置も必要もなく、いつもより大きな跡を残して塞がり始めている。だからといって、彼女が手加減したとは思えなかった。
彼女は、比較的穏やかでわたしはかまえていた力を抜いた。久しぶりに彼女と話せた気がした。あんなことがあってから、会ってもどこかぎこちなくて、何より彼女のことがもうわからなくなっていた。そして彼女の空気はぴりぴりとわたしを拒絶していた。
「ルクセンブルクの空がみたいな」
彼女が言った。
「それってどこかな」
わたしが言った。
「わからない」
だからみたいの、そう言って彼女は目を閉じる。机の上、仰向けに寝転んでいた。
「知らないところの空は、知らない色をしてるのかな」
目を閉じたまま、彼女が言った。わたしは嬉しかった。前のように彼女の心に触れられた気がした。
彼女が目を開ける。
(わたしは思わず自分の手をぎゅっと握った)
彼女は(それに気づいたのか気づいていないのか)興味のないような顔をして、また目を閉じた。
それが彼女を見た最後になった。
彼女が死んだのは冬の日のことだった。クラスも違い、わたしたちの関係を知るものは誰もいなくて、わたしがすべてを知ったのは、週明けの学校でのことだった。
何を聞いたのかわからなかった。
それからも日常は続いていた。膜がはったように曖昧に過ぎる日々のなかで、ふとしたとき感覚が鮮明になる。
それは雑踏のなか一人佇むとき、人と手を振り別れた後、夏の木陰が、顔に模様を描くとき――――柑橘類の強く乾いた香りがよみがえるのだった。
(それは彼女のつけていたフレグランス)
そのたびにわたしは自分の腕を見つめ、または傷跡をおさえてひどく苦しくなるのだった。
次第にわたしは学校に行かなくなった。行けなくなったのが正しいけれど、対外的には、行かなくなった。
彼女はわたしをひとりにした。ひとり、置いていった。
裏切られた。傷つけられた。それに相応しい最後だった。そう思った。まとっていた心地よい空気はわたしの首を絞めるようになり、胸のうちでひどく暴れた。
すべてが幻想だった。
何もすることのない中、そう思うようになるのに、さして時間はかからなかった。何もすがなかったから、わたしはひどくその空気に疲れはてていた。
それでもまだよみがえる。
憎んでやりたかった。事実、わたしは憎んだ。絞め殺してやるとさえ思った。
それでも結局、わたしは彼女を抱きしめていた。
(抱きしめられた時のあの体温が今でも体に残る)
彼女のことをずっと、抱き締めたかった。
(Luxembourg no sora ga mitaina...)
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