第十一章 ⑤レンジの苦悩

 都内の撮影スタジオ。

 ……おかしい。何かがおかしい。レンジは違和感をぬぐい去ることができない。

 今まではすべてが順調だった。こうなってほしいという願望はことごとく叶えられてきた。

 五歳の時に子役デビューをして芸歴四十年。容貌、人格、演技に至るまであらゆる観点からの称賛を網羅もうらしてきたといっても過言ではない。

 しかし今は、絶体絶命の窮地きゅうちに立たされている。

 

 レンジは苦悩していた。

 悪意に満ちたスキャンダルが週刊誌やワイドショーを連日賑にぎわせてしまっている。

 羽衣との不倫疑惑が誇張こちょうして取り沙汰ざたされている。心苦しいことに羽衣までるし上げられてバッシングされてしまっている。

 過去に数か所の整形をほどこした執刀医しっとういが芸能レポーターの突撃インタビューに応じている。俳優レンジの顔は大金を投じて出来上がった作り物であると暴露ばくろした。

 人気女優の妻サユミとも、円満を装った仮面夫婦だとすっぱ抜かれてしまった。二人の住まいも、同じマンションの同フロアの別室だと見抜かれていた。

 さらには。レンジの人間性は最悪だと共演者やスタッフが語っている。

 レンジという男はカメラが回っていないときは不遜ふそんな態度で威張っている。

 権威者には徹底的にびる。しかし女性や弱者を軽視している。

 関係者からの評判は底辺である。多くの女優から共演NGを出されている。

 密告者の顔にはモザイクがかけられ音声変換されていた。

 こうして。善人の仮面は安々やすやすと剥がされてしまった。高かった好感度は嘘のように急落した。


 それもこれも『叙勲じょくん取消』からたんを発した。総理独断の電撃発表にマスコミが過剰反応して取り消し理由を勘ぐり始めた。

 過去を徹底的に掘り下げられて、あぶり出された結果が『今』なのだ。

 『四十年に及ぶ芸能活動と合わせて被災地へのボランティア活動や災害復興支援など多くの慈善活動への積極的貢献が国民から支持された。芸能を通じての多大なる実績はもとより、社会貢献活動が高く評価されて四十代半ばという若さでの受章が決定した』

 そう伝達されていた。

 正式発表されたときには誇らしく俳優レンジの華麗なるステータスを飾る栄誉の花がまたひとつ増えたのだと最高の心地だった。

 

 授章式の朝。

 皇居に程近いホテルの一室を予約して燕尾服えんびふくに着替えた。妻のサユミも髪をセットして白と金の色留袖に着付けを終えた。

 そのタイミングに鳴った電話は信じがたい要件を伝えるものだった。 

 ……叙勲じょくんが取り消された、というのだ。

 ニュース速報が流される。

 『俳優レンジ。紫綬褒章受章取消。総理大臣独断による受章取消は異例』

 前代ぜんだい未聞みもんだった。マスコミの嗅覚きゅうかくがレンジの身辺を探り出さないはずはない。秘匿ひとくしていた事実が次々にすっぱ抜かれていったのだ。

 受章を取り消した総理の英断には多方面から称賛が寄せられていた。


 現在の俺は世間からの誹謗ひぼう中傷ちゅうしょう白眼視はくがんしにさらされている。

 主演映画の撮影現場は『針のむしろ』になってしまった。

 スタッフや共演者からは露骨なまでの塩対応をされている。まるで今までの仕返しをされているかのようだ。

 俺の近くに人が寄り付かない。業務以外では共演者やスタッフは話しかけてこない。視線すら合わせようとしない。

 人格者である輝章は大人の対応をしてくれている。だが瞳の奥は冷ややかだ。

 

 そんな中にあっても。羽衣だけは以前と変わらなかった。

 こんな俺を慕って歩み寄ってくる。ニコニコ話しかけてくる。演技のアドバイスを求めてくる。

 休憩中にひとりパイプ椅子に腰掛ける。羽衣が差し入れのコーヒーとお菓子を運んできてくれた。横に並んで一緒に食べる。

 羽衣は俺と目が合うと嬉しそうに笑う。羽衣が近くに居るだけで心が安らいでなごむ。

 苦手なはずの甘い洋菓子が『美味うまい』と感じた。

 

 ……俺にとって羽衣は特別な存在だ。

 これほどまでに大切にしたい人間がこの世に存在していたのか。これが『父性ふせい愛』というものなのか。

 羽衣が自分の子供むすめであることを自覚認識した。途端に猛烈な庇護ひごよくがわき出した。

 ……羽衣を喜ばせたい。羽衣を傷つけたくない。羽衣に幸せになって欲しい……。

 芽生えてしまった情愛は日に日に深まる。撮影の進行と脚本に誘導されるごとくに増していく。


 『父性』は『娘』の挙動を読み取った。羽衣が輝章に恋をしていることを察知した。

 演技指導をする輝章監督を羽衣が上目遣いに見つめている。その瞳はうっとりとしていて頬は淡く染まっている。恋する乙女おとめの顔なのだ。

 輝章はたぐいまれなる才能を有しながらも偉ぶらず謙虚である。才能にあふれ人格までもともなった申し分のない好青年だ。これほど優れた人間に出会ったことがない。 

 輝章のような青年ならば愛娘まなむすめの相手として祝意を表する。

 

 しかし。羽衣に自分が父親だと名乗り出ることはできない。だがせめて。恥じない男でいたい。

 狂い始めた歯車を修正するすべはもはやただひとつ。

 輝章が脚本監督をつとめる主演映画を成功させるより外にない。レンジは真摯しんしに作品に向き合いはじめた。人間らしい感情が芽生えはじめる。

 わずかな心情変化が起こっているのだった。

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