第三章 海軍少尉朝霧和人(1943年春)
第1話
生憎の雨が、駅舎を濡らしている。
しかし駅舎に集まった人達はそんな雨など全く気にならない様子で、誰もが一様に興奮した表情を浮かべている。
そして手にした日章旗を振りながら、熱っぽい視線を汽車の昇降口に立つ青年に向けているのだった。
『武運長久』
『七生報国』
鮮やかに墨書きされた襷を軍服の上からかけた青年は、そんな人々に笑顔で敬礼を返しながら力一杯叫んだ。
「行って参ります!」
「朝霧和人君、万歳!!」
国民服の老人が声を張り上げると、期せずして全員がそれに唱和する。
「万歳! 万歳!」
「頑張れ!」
1943年(昭和18年)2月、飛行学生を卒業し、戦闘機専修として大分海軍航空隊付となった朝霧和人海軍少尉は、激励してくれる人々に笑顔で敬礼したあと、目の前で涙ぐむ女性に向かって話しかける。
「心配しないで、母さん。俺は大丈夫だから」
「和人……身体にだけは気をつけてね」
和人の母、メイは溢れ出る涙を流れるままに任せ息子に言った。
「判っているよ」
少しでも母を安心させてやろうと、和人は穏やかな笑みを浮かべた。
「俺は大丈夫。ちゃんと帰ってるから……慶子、母さんのこと、頼むよ」
「私に任せて、兄さん……頑張って来てね」
母の隣に立つ妹も、無理に作ったような笑顔で兄に言った。それから慶子は辺りを見回し、その表情を曇らせると小さな声で兄に訊ねる。
「兄さん。志乃さんは……?」
「志乃なら来ないよ」
「どうして!? 志乃さんは兄さんのお嫁さんじゃないの!?」
嫁なら当然見送りに来る筈。慶子は少しだけ非難めいた色をその瞳に浮かべ、兄を詰問する。
「別れが辛くなるからって……志乃らしいよ」
「だけど!」
そう叫んだきり、黙ってしまう慶子だった。
慶子は口には出さなかったが、もしかしたら和人はもう二度と故郷に戻って来られない可能性だってあるのだ。
志乃の気持ちも判るが、それは余りにも兄には酷ではないか?
「……いいんだよ、慶子」
しかし、和人の口調は、穏やかだった。
昭和18年2月は、前年よりも厳しい戦局が続いていた。
アメリカ軍機動部隊が実施した日本軍の拠点トラック島への攻撃、マリアナ諸島空襲で日本の航空部隊は一方的に壊滅的な打撃を受けていた。
この時代、こうして各地の駅舎で兵士を見送る光景は、もう珍しくなかった。
とは言え、和人は父の跡を継ぐように海軍兵学校に入り第70期の生徒として入校。卒業後は、少尉候補生となり配属艦として連合艦隊旗艦である戦艦『長門』に乗組んでいた。
少尉に任官され、所属も軍艦から第38期の飛行学生となり、航空隊の一員となったのは去年の6月の事だ。
『高松行急行列車、間もなく発車、間もなく発車します!』
蒸気機関車が白い煙を吹き出し、今にも走り出さんとばかりに黒い車体に熱を蓄えている中の側に立つ駅員が大声で言い放つと、再び「万歳」を叫ぶ声が人々の間から起こった。
「朝霧和人君! 万歳!!」
「万歳!!」
「しっかりやって来てくれ!」
そんな人々の感情を薙ぎ払うかのように、黒一色の蒸気機関車は、けたたましい汽笛を長く鳴らしてからゆっくりと動輪を回し始めた。
和人は笑顔を浮かべ、もう一度詰めかけた人々に向かって敬礼した。今度は無言で。
もう言葉は、必要なかったから。
「兄さん! 絶対に帰ってきてね!」
とうとう我慢出来なくなったのか泣き声で叫ぶ妹に暖かく微笑みかけ、和人は右手を下ろした。
「行って来ます……」
小さくなっていく母や妹たちを見つめ、呟く。そして車内に戻ろうとした時、和人は目にした。
線路から少し離れた場所に立って、汽車を見つめる若い女性の姿を。全身を雨で濡らしながらも、汽車の和人に向かって手を振っている愛妻の姿を。
刹那、和人は昇降口から叫んでいた。
「志乃!」
見送りには来ない、そう言っていたはずなのに。
しかし今、和人の目に入っているのは幼馴染みであり、新妻でもある朝霧志乃の姿。
見間違えようのない夕陽のような色の髪が、降りしきる雨の中で輝いていた。
「和人さん!!」
志乃は叫ぶが、汽車の轟音でかき消されてしまう。それでも、志乃は力一杯声を張り上げた。
「帰って来なさいよ!帰って来ないと、承知しないんだから!!」
和人には、志乃の口しか見えない。志乃が何を叫んでいるのか、聞こえない。
だが、和人は志乃が何と叫んだのか、すぐに理解することが出来た。
『頑張って』
『身体に気をつけて』
そんなありふれた言葉を、志乃が叫ぶ筈がない。
恐らく「帰って来ないと許さないから」などと、勝ち気なことを言うに決まっている。だから和人は、志乃に向かって大きく手を振って、大声で叫んだ。
「志乃! 絶対に俺は帰って来るから! 約束するよ!!」
「和人さん!」
声は聞こえなくても、和人の心は間違いなく志乃に届いた。だから志乃は、もう一度叫んだ。
「和人さん!!」
汽車が小さくなり和人が見えなくなっても、志乃はずっと叫び続けていた。
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