第2話 カロリナの訪問

 暖炉というものは、空気と同じように必要不可欠なものだ。部屋を暖めてくれるだけでなく、熱湯まで沸かしてくれる。


 カロリナ曰く特別に焙煎してもらったらしいコーヒー粉の上に2、3滴お湯を垂らすと、蒸気とともに鼻腔びこうを刺激するかぐわしい香りがふわっと舞い上がった。その香りに誘われるようにさらにお湯を注いでいくと、布フィルターを通じて金色のラインが施されたカップにポタポタと滴が落ちていく。その音までもが美味しそうだった。


 香り、音と続いて視覚でも美味しさを堪能しようとするが、その試みに邪魔が入る。


「だから、私が淹れてあげるって言ったじゃない!」


 スルノア国第一王女であるカロリナ・カールステッドのその漆黒の瞳には、赤い怒りの焔が宿っていた。


「ですから、王女であるカロリーナ様にコーヒーを淹れてもらうなど、執事の身分では到底お願いできないことでありまして──」


 カロリナは花にたとえるのならまさにバラのように赤の似合う女性だった。大きく開いた瞳に高い鼻、そして分厚い唇と遠目からでもわかる目立つ顔立ちに、肩まで出した真っ赤なドレス姿の似合う抜群のプロポーション。それらを腰の高さまでのシルクのようなしなやかな黒髪が際立たてせている。すぐ紅潮し怒り出すところすら、カロリナらしかった。


「──それにいくら『帰還の日』とはいえ、早朝からドタバタと人の部屋に上がり込んで、唯一と言っていい至福の時間を奪ったんだから、文句を言われる筋合いはないと思うが」


 睨み付けるカロリナの視線を合わせないようにもう一つのコーヒーカップにもお湯を注ぐ。


「む……まあ、それはほんの少し配慮が足りなかったわ。けれど、いいじゃない。貴方は私の執事なんだから。執事の部屋に入るのは私の権利よ」


 ワガママな論理だが、そこは王女様なのだから仕方がない。僕の吐いた息を肯定と捉えたのか、カロリナの顔に上品な微笑みが戻った。


「いい香りね」


 並々と注がれたカップを手元に引き寄せながらカロリナは言った。 僕も暖かみのある椅子に軽く腰掛け、コーヒーを一口、口に含む。美味しい。深いコクと渋味が口奥へ流れ込み、その香りとともに心を落ち着かせてくれた。こうやってよく憎まれ口を叩くものの、わざわざ自分用に豆を用意してくれたカロリナには感謝しているのだ。……いや、実際に市場から手配してくれているのは、シェフたちなのだけど。


 カロリナも目を瞑ってコーヒーを飲むと、くもった窓の外を眺めながら深い息を吐き出した。


「それで、鉄製のスケート靴は買えたのか?」


「スケート? ああ、そう、ちょうどそのことでも話があってきたのよ」


 そのこと……でも?


「今日の午後にギルドから何人か鍛治師が来るのよ。それで子どもたち一人ひとりに合わせた靴を作ってもらえることになったの!」


 なんと豪華な。オーダーメイドの靴なんてそれなりにお金が掛かるだろうに。おそらく大臣たちは眩暈めまいを起こしているに違いない。


「それで急なんだけど、貴方にもその場に立ち会ってもらうことにしたわ。午前中のご帰還以外何の予定もないでしょ?」


「いや、普通に講義が──」


「休めばいいじゃない。その代わりに私が時間をつくって特別演習してあげるわ」


「また特別演習か……」


 あの王宮防衛戦以降、カロリナはなにかとレッスンをつけたがっていた。推測すると理由は3つある。1つは国内各地で散発的に起こっていたゲリラとの衝突事件が、王宮防衛戦以降、明確な「解放軍」という名の下に組織だって行われるようになったこと。2つは、僕が非公式ながら一部隊を率いる部隊長の任務を得たこと。そして3つめは、僕が未だに音楽魔法──つまり、楽器を用いた上級魔法を使えないということだ。不安定な情勢下で仮にも部隊長が十分な戦力を持たないというのは問題なわけで、懸命に努力はしているつもりなのだが、残念ながら全く成長が感じられなかった。


 とは言え、この寒さの中で雪を割って──カロリナの魔法を使えば一瞬で雪を融かすことはできるのだろうが──までレッスンを受ける気にはなれなかった。それに口が割けても言葉にはできないが、カロリナのスパルタ式の教え方よりは、オーケ先生やマリーの教え方の方が僕には合っているような……気がする。


 カロリナはガシャンっと音を立ててカップをソーサーの上に置いた。真っ直ぐ見つめる瞳のなかにはまた炎がほとばしっている。


「何かご不満でも?」


「いや」


 少しばかり焦った気持ちを呑み込むようにコーヒーを飲む。


「ところで、他にも用事があったんじゃないのか?」

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