第44話 生きる方策

「なんだって!?」


 ここを置いて後ろへ戻れと言うのか? いくら弦楽三重奏があっても兵士達が一斉に攻撃しようとも、あのグラティスと名乗った少年の圧倒的な暴力の前には、万が一にも勝ち目はないだろう。そんなこと──。


「いいから行って! ここで手をこまねいて見ているよりは全然いいでしょ! ハルト!!」


 ルイスの叫ぶような声に体が動き出していた。


「あらら、逃げるのかい? 稀人くん。楽しくないなぁ」


 その言葉を背に受けて止まりそうになる足を無理矢理前へと動かし、僕は王宮に向かって走った。そこには、空に轟く魔物の姿に恐れる者、武器や楽器を構え臨戦態勢に入る者、突然走り出した僕を訝しげに見る者、いろんな顔が心が音が入り乱れていた。けれど、そのどれ一つをも僕はまともに見ることができず、下を向いて走った。僕は、動けなかった。見ているだけだった。何も、何もできなかった。悔しさで奮い立つことも守るために身を呈することもできず、ただ、恐怖に呑み込まれるばかりだった。音楽が、もう、途切れてしまったんだ。


 そんな僕の手を誰かがぐいっと引っ張る。顔を上げると、髭もじゃの顔がそこにあった。


「何やってるんだ! ハルト!!」


 オーケ先生は僕の顔を見るなり、怒声を上げた。そりゃそうだろう。状況がわからない先生からしたら敵前逃亡したようなものだ。


「すみません。敵があまりにも強くて、カロリナの防壁が解けてしまったので、助けに」


「だったらもっと胸を張れ! 何を負けたような顔をしてる! そんな後ろ向きな状態ではカロリーナ様の足手まといになるだけだ!!」


 オーケ先生の大きい手が僕の肩をつかむ。


「いいか、ハルト。戦場において、たたかいにおいて最も大切なことは諦めないことだ。勝つか負けるかの話ではない。生きることを諦めるな。どんなときでも生き抜く方法を考えろ。最後までしぶとく生き抜いたものが勝者だ。お前が生き抜かないと、お前のために死んでいった兵士達の死が無駄になる。ルイスもカロリーナ様も、エドガーも、そしてマリー様が永遠にお前を恨むことになる。無論私もだ。だから胸を張れ! 生きる方策を考え抜け!!」


 オーケ先生の太い低音の声は、優しくしかし力強く響き、全身を貫いていった。


 そうだ。ルイスも言っていた。「後ろにはまだたくさん味方がいるじゃない」と。


 何もできなかったなら、今から何かすればいい。それだけだ。


 前を見据えた途端、大量の音が雪崩のように流れ込んできた。人々が大声で叫ぶ声、地面を鳴らす音、ルイスたちの戦闘の音、そして弱々しく途切れがちなカロリナのピアノの音色。オーケストラのような音の合間に一つだけ微かに不気味な不協和音が聞こえる。


 その音の源を見上げると、空中で演奏を続けるカロリナの姿が見えた。魔法で創った簡易的な足場の上で赤色の半透明なピアノが揺らめく。


 カロリナの音が弱っている理由ははっきりとしていた。赤壁がなくなったときからずっと鳴り続けている悪寒が走るような不協和音だ。


 敵にとって最も重要な攻略対象は、カロリーナ・カールステッドだと言うことは作戦会議でも指摘されていた。その対策は何か戦いが始まるまでわからなかったが、不協和音がその答えだったようだ。


 「天使の手」と評され、どんな難解な曲でも完璧に弾きこなすカロリナは、おそらく絶対音感を持っている。人よりも音に敏感で学校の生徒たちの演奏にも眉をひそめるほどだ。不協和音はたいていの曲に含まれており、協和音と不協和音のその妙が心を動かす演奏になる。だが、今ずっと流れているこのフルートの音の羅列は全てが不協和音だった。


 おそらく、この相手はパーフェクトなカロリナにとって最も苦手な相手。


 王宮の目の前まで来たところでヴェルヴに緑色に光るリベラメンテを装着した。浮かべるのはもちろんエドのティンパニ。ここにエドがいればどんなに心強いかと思いながら。


 心臓を鷲掴みにするような重低音。それなのにティンパニのヘッドを弾くごとに華やかに色鮮やかな世界が広がる。聞いていると勇気が湧いてくる演奏だ。


「エド、お前の音を借りるぞ」


 背丈の2倍ほどの大きさに伸びたヴェルヴを横に払うと、何もない空間に岩が集まり人一人分の足場が出現した。そこへ飛び上がり、また足場を創る。


 それを何度も重ねるのと比例して不協和音が大きくなっていった。わかるのはそれがフルートの音色だということと、演奏者が一人だけということ。そして、そこから類推されるのは、敵が優秀だということだ。いくつもの音を同時に出せるピアノと違ってフルートは基本的に一つの音しか出せない構造になっている。特殊な運指、息遣いを駆使して複数の音をそれも持続的にブレない音として出すには長い訓練が必要となる。


「カロリナ!」


 ようやくカロリナの元へたどり着くと、カロリナは片手で耳を塞ぎながらもう片方の手でなんとか鍵盤を押していた。まともな演奏すらできていない状態だった。


「ハルト……」

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