第36話 王子はメイドの実家に辿り着いた

 徐々に山の傾斜が緩くなり、しばらく進むと、急に視界が開けた。


「おお! 地上から行くのも悪くないな!」


 アイビーが歓声を上げる。なだらかな裾野はやがて農地に変わり、その向こうに、人工の建物群が見えた。

 全体的に白っぽい街並みの中に、数本の高い塔のようなものが見える。そして、


「あれが海かあ」


 町の更に奥には、きらきらと日差しを反射する青い世界が広がっていた。


「ノクスは、海を見るのは初めてか?」

「うん。山越えはしたことなかったから」


 いくら高速で無限に走り続けられると言っても、サースロッソとガラクシアを往復するにはそれなりの時間が掛かる。ナーナとパスカルにさえ予定を告げておけばノクスの所在を気にする者はいなかったが、万が一エドウィンにバレると面倒なので、一週間以内に帰って来られる場所までしか行ったことはなかった。


「さすがに公爵のいる土地は結界が広いのう。もう既にちくちくする」


 不快そうに腕を擦るアイビー。


「会議はどこであるんだ?」

「海の上じゃ!」

「規模が違うなあ……」


 人間や下位の魔物が簡単に立ち入れず、結界を設置できない場所として、海上に専用の会議場が作られたらしい。


「人間の町に用がある時はどうしているのですか?」

「我慢じゃ。入れぬわけではないからな」


 ちくちくを我慢してでも手に入れたい面白そうなものが人間の町には多くて困ると、アイビーは眉間に皺を寄せた。


「それなんだけどさ」


 ノクスは少し考え、アイビーを見る。


「日光ですら防げるんだから、結界の効果くらい防御魔法で防げるんじゃないか?」

「わらわもそれは考えたことがある。しかし人間の結界は、魔力そのものに反応してきよるからな……」


 防御魔法もアイビーの魔力から構成されている以上、ちくちくは免れないのだという。ノクスたちがやるようにドーム型に張ると、今度はドームに触れたものに被害が及んで、魔物由来の魔力を使っていることがバレてしまう。


「……俺がアイビーの外側に防御魔術を張って、アイビーがその中でしか魔法を使わなければ、反応しないんじゃないか?」

「……なるほど!? やってみせよ!」


 バッと腕を広げて受け入れ態勢を示したアイビーを見て、ノクスは考える。


「魔術を弾く効果でいいかな……。いや、弾くと摩擦が発生するか? 吸収……だと、結界の維持に使われる魔力を壁が吸って無駄になる。受け流すのがいいか」


 真剣な顔でブツブツと呟いた後、


「『障壁』」


 白い光がアイビーを包み、すぐに消えた。


「おお! ちくちくがなくなった! やるなおぬし」

「俺から離れるとどれくらい保つかわからない。効果が切れたら教えてくれ」

「うむ、わかった!」


 快適になり腕をぶんぶん振りながら先を歩いていくアイビーの後ろ姿を眺め、


「……魔物の侵入幇助になりませんか?」


 ナーナがぼそりと呟いた。

 密輸や飼育目的で魔物を結界内に持ち込んだだけでも、三年以下の懲役または罰金だ。よりにもよって吸血鬼の侵入を手伝ったとなれば、割と重罪だった。


「敵意はないし、助けなくてもどうせ侵入するんだから、見逃してほしいな……」

「確かに……」


 地元をやんわり危険にさらしているような気もしたが、ノクスの魔術研究の役に立つならと、ナーナは気付かなかったことにした。


 *****


 ガラクシアとも首都とも違う、どこか陽気な雰囲気を纏った街並みを、ナーナの案内で歩く。

 アイビーはというと、不快感なく人間の町を歩き回れるのがよほど嬉しいようで、「効果が切れたら公爵家へ向かう」と告げて雑踏に消えた。


「山一つ隔てるだけで、本当に文化が違うなあ」

「魔導船のおかげで、山よりも海を越えるほうが早いもので。ゼーピアの色が濃いのです」

「船も魔術で動くのか。見てみたいな」

「その前に、私の家です」

「わかってるって……」


 明らかに優先順位が逆になっている観光気分のノクスを、ナーナはジトッと見つめた。




 サースロッソ公爵家の屋敷は、町の中心部から少し離れた郊外に建っていた。

 やはり建築様式や装飾もゼーピア風で、華やかではないが堅牢な雰囲気が漂っていた。


「お嬢様!?」


 こちらから声を掛けるよりも早く、門番が気付いて駆け寄ってきた。


「今お戻りでしたか! では、そちらの方が?」

「はい」

「旦那様も奥様も、お待ちしておられました。すぐに知らせてまいりますので、中でお待ちください」


 そう言って、ガラガラと音を立てて重い扉が動いた。


「これも術具かあ」


 ノクスは目を輝かせ、予測していたナーナは満足げだった。

 広いアプローチを歩きながら、どういう構造だろうかと遠巻きに門を眺めていたところで、ふと気付く。


「そういえば、先に知らせておかなくて大丈夫だったの? 出直したほうが良くないか?」

「構いません。ガラクシアを出る前に、二ヶ月ほどで帰ると知らせておきましたから」

「それって……」


 ノクスを連れてサースロッソへ向かうことは、サースロッソ家の中では確定事項だったということだ。


「門番の様子からすると、きっとここしばらくは――」


 ナーナが言い終わる前に、入り口付近がばたばたと騒がしくなった。


「奥様! そんなに慌てると転んでしまいます!」

「扉はわたくしどもが開けますから!」


 使用人の慌てる声と、ガチャガチャと扉の金属と何かがぶつかる音。


 そして、


「ナーナ! おかえりなさい!」


 大きな扉が開かれると同時に、ナーナと同じ赤い髪の女性が飛び出してきた。

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