第13話 お母さん
家に帰る途中に妹から電話があった。
「お兄ちゃん」
と呟いた声は震えていた。
「どうしたの?」
とぼくが尋ねる。
「お母さんが倒れた」
お母さんが倒れた。
「お医者さんが、お兄ちゃん、どうしよう? お母さんが」
文法がめちゃくちゃになっている。
「お母さんが?」
「……早く来て」
それから妹に病院名を聞いて、すぐにアイフォンで調べて電車に乗った。
エチエチな事をして浮かれていた気持ちが一瞬で無くなる。
電車が芋虫の歩行の速度のように遅く感じた。
目的地に着く。
走ったところでお母さんの病状が変わらないのに、走った。
こんな顔でアユに会ったら不安にさせるだろう。
コンビニのトイレを借りて顔を洗った。
走って稼いだ時間をトイレに流して、鏡の前でニッコリと笑う。
別に大したことないはずだ。ただの疲労で倒れただけだろう、と自分に言い聞かせながら病院に向かった。
病院の受付のところで、小学生の面影を残したまま中学一年になった妹がマネキンのように1点を眺めながら立っていた。
ショートヘアーの少し茶色い髪。ジャケットはいらない季節なのに華奢な体が小さく震えている。
「アユ」
とキャッチボールができるぐらいの距離で呼びかけた。
彼女は釘つけになっていた空中から、ぼくに視線を向けた。
「お兄ちゃん」
妹は遊園地で迷子になった時のような顔をして、ぼくに近づいて来て腕を伸ばした。
おにぃちゃん、おにぃちゃん、と言いながら助けを求めるように泣き始める。
「お母さんは?」
と尋ねても、妹はしばらく返事をせず、ひたすらぼくの胸で泣いていた。
「……集中治療室」
「事故?」
泣いて言葉を出せない妹に連れられて、母親が手術している集中治療室の前までやって来た。
「ハイジ君?」
集中治療室の前にいたレディーススーツー姿の女性に名前を呼ばれた。
歳は30前半ぐらいの人で、心配そうにぼく達を見ていた。
お母さんの仕事場の同僚の人だろう。
「はい。そうですか。お母さんの会社の人ですか?」
彼女が自己紹介をした。
彼女曰く、営業を回っている時に母親が倒れたらしい。
「仕事が忙しいのに付き添ってくれて、ありがとうございます」
とぼくは頭を下げた。
いえいえ、と女性が首を横に振る。
「お母さんにはぼく達が付き添っていますので」とぼくが言う。
あまり他人に干渉されたくない。
彼女は床に置いていたカバンを持った。
帰り際に「頑張って」だとか「絶対に金木さんは復活します」だとか色んな励ましを言われたけど、あまり耳に入って来なかった。
飾り気のないソファーにアユと並んで座った。
まだ中学生になったばかりのアユ。
不安で仕方がないのか、ずっとぼくの肩に顔を押し付けている。
ぼくはアイフォンで集中治療室を検索する。
そしてウィキペディアに書かれている文字を読んで、また不安になる。
もう検索するのはやめよう。
集中治療室から出て来た母親はベッドの上に寝かせられてドラマでしか見たことがない機械を装備していた。
口にホースが取り付けられ、キノコのような帽子を頭に被っている。
瞑った目は糸で縫いつけられているみたいだった。
「おがあさん」
震えた声で妹が追いかける。
ぼくの足が震えていた。
プールで溺れているような感覚。
見ているモノが全てボヤけ、音が遠く感じる。
目の前で何が起こっているのかがわからない。
追いかけて行くと個室に辿り着く。
「金木さんの身内の方ですか?」
看護婦さんに尋ねられた。
「……はい、そうです」とぼくは答えた。
アユはぼくの腕をギュッと握りしめた。
「お話がありますので、こちらに来ていただけますか?」
看護婦さんに連れられ、診療室なのか、あるいは別の部屋なのかわからないところに連れて行かれた。
青い服を着たお医者さんが椅子に座っていた。
お医者さんの目の前の机には汚い字で書かれた紙がある。
看護婦さんに用意された丸椅子に座った。
「他に家族の方は?」
「ぼく達だけです」
「そうですか」
ずっとアユがぼくの腕を掴んで泣いている。
先生はぼく達に病状の事を伝えた方がいいのか考えているのかもしれない。
アユに母親の病状を聞かせてもいいのか?
「アユ」とぼくが言う。
「お兄ちゃんがお医者さんの話を聞くから、ちょっとお母さんを見て来てくれないか?」
アユが丸椅子から立ち上がる。
妹が小さく頷き、鼻水を啜った。
彼女が部屋から出て行く。
ツカツカツカ、と足音が遠ざかって行く。
ポケットからアイフォンを取り出す。
「わからない事は後から調べるんで録音してもいいですか?」
今の状態で話が聞ける気がしなかった。
耳にカナブンを詰め込んだみたいに音が遠い。
だから録音して落ち着いた時に聞く事になるだろう。
「結構ですよ」と先生が言った。
それからお医者さんはお昼ご飯のメニューを読み上げるように病名を語り、これからのことを話した。
これから先も通院が必要なこと、病気が進行していること。もう治らないこと。
先生の話を聞き終えると母がいる個室に向かった。
だけど看護婦さんに今は病室に入れないと言われる。
アユはエレベーターの前に設置されたソファーに負けたボクサーのように座っていた。
妹の隣に座る。
なぜか小学二年生の時の出来事を思い出した。
川遊びの帰り道の車のこと。
服の中には砂が入っていて、川遊びをしたせいで体が鉄のように重たく、車の振動の音が子守唄のように心地よかった。
3つ下の妹は幼稚園の年長さんで、お気に入りのプーさんのぬいぐるみを抱っこして眠っていた。
ぼくも瞼が重たく、眠りと現実の狭間を行ったり来たりしていた。
ぼく達は後部座席に座っていた。
助手席にはお母さんがいて、運転席にはお父さんがいた。
車のステレオからはラジオが流れている。
ただ、それだけの事を、ぼくは思い出していた。
あの時のぼくは完全に安心していた。
時折聞こえる2人の喋り声。
ただ、目を瞑っていれば目的地まで運んでくれる。
なんで今そんな事を思い出すんだろうか?
もう運転してくれていたお父さんはいない。ぼくが小三の時に事故で亡くなった。
お母さんはベッドの上で細いロープのようなモノを口に詰め込まれ、テープで固定された状態で眠っている。
働き者で、優しくて、大好きなお母さん。
最後に会話したのは、どんな会話だっただろうか?
ぼく達のせいで苦労ばかりかけさせてごめんなさい。
いつかぼくは母を幸せにしてあげるつもりだった。
作家になって、いっぱいお金をもらって、そしたら母親に仕事をやめてもらって、……みたいな事を考えていた。
バカだった。
ぼく達の幸せは母の頑張りで成り立っているだけだった。
ぼくは母に何もしてあげていない。
してもらってばっかりだった。
「お母さんは大丈夫だから」
と自分に言い聞かせるようにぼくが言った。
「本当?」
「うん」
とぼくは頷く。
「先生は何て言ってたの?」
「ただ少し過労が溜まっただけだって」
本当?
本当、とぼくが言う。
嘘である。
ぼくはアイホォンを手に取り、いすずが投稿しているはずの小説のサイトを検索した。
今やるべきことではない。
だから今なら見る事ができると思った。
ランキングのジャンル検索でホラーを選択する。
すぐに見つかってしまう。
簡単に見つかるってことは、そういう事なのだ。
クソ。見つかるなよ。
本当は見つからないや、よかった。そう思いながらアイフォンをポケットに仕舞いたかった。
タイトルはぼくが読んだ時のままだった。
ペンネームは『あばずれピンク頭』だった。クソ。ふざけるな。
ホラーのジャンルで彼女の小説がランキングに入っている。
たまたま同じタイトルのモノが上位になっている可能性だって考えられるから、確認するために1話をクリックする。
間違いなく、ぼくがファミレスで読んだ時の小説だった。
誰かに読まれるためにネットに投稿するか、新人賞に応募するかススメたのはぼくなのに、読まれていることを知れば下唇をハムでも食べるように噛んでいた。
こんな時でも悔しいと感じている自分がバカらしくかった。
彼女は誰かに読まれている。そして評価されている。
いつかぼくが書いた小説は誰かに評価されると思っていた。だから、今は誰にも評価されなくてもいい、と思っていた。
そう思っていたからこそ小説を書き続ける事ができた。
苦しい事もあるだろう。不満な事もあるだろう。泣きたい事もあるだろう。目の前が真っ白になる事もあるだろう。それをジッとこらえて書き続けるのが作家への道だと信じていた。
だけど彼女は簡単に人に読まれている。
誰かに読まれることが、どんなに羨ましいか。
ぼくが書いてきた物を1人でも知っているんだろうか?
誰かに読まれたい。
それだけで胸がミンチのようにエグれた。
彼女は誰かに読まれている。それだけで羨ましかった。
ぼくは何のために書いてきた?
第一希望の彼女を作るためという目標はすぐに消え失せ、次に目標にしたのは誰かを楽しませるためだった。
新人賞に応募しているだけの今の現状では誰にも読まれていないのに。
何のためにぼくは時間を使ってきたんだろうか?
母親を助けるためにぼくが時間を使っていたら、もしかしたら母親は倒れなかったんじゃないか?
病気になっていたとしてもココまで酷くはなっていなかったんじゃないか?
1人の頑張りだけで成り立っている幸せだった。
だから次は誰かが運転手にならなくてはいけない。
ぼくは何をするべきなんだろうか?
ぼくが溺れていたら妹も溺れてしまう。
今まで母親が1人で抱えていたものをぼくが抱えなくてはいけない。
ぼくは家族に何ができるのだろうか?
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