第41話 お泊まりする佐藤⑧

「ね、猫……?」


 ぽかん、と豆鉄砲を喰らったかのように、佐藤はおうむ返しに呟いた。


「そう、猫」


「ねこ……」


 もう一度呟いてから、佐藤はぼっと顔を赤くした。


「ね、猫!? 猫ですか!? 私が……!?」


「嫌だったら別のお願いにするけど」


「え、や、い、嫌というか、恥ずかしいというか……。……で、でも、やりますっ」


 驚きはしたようだが、もともと断るつもりなんてなかったのだろう。佐藤は力強い表情でグッと握り拳を胸の前に作ってみせる。

 まあ、仮にもなんでも券を用意してくれたほどだ。色々と想像はしていたのだろう。佐藤の言う、心の準備というやつだ。


「な、鳴き声を真似したらいいですか……?」


 言いながら、佐藤の姿勢はすでに少し低めになっていた。

 猫背……いや、背中を丸めたと言うべきか。

 出会った頃のような自信のない猫背ではなく、純粋に俺の願いを叶えようとしてくれている低い姿勢。


「じ、じゃあ、一回それで」


「……わ、分かりましたっ」


 小さな声で返事する。それから、佐藤はゆっくりと時間を使いつつ、右手を持ち上げ可愛らしく丸め込んだ。おおよそ「猫の真似をしてくれ」と言われた人間のほとんどがするであろうポーズを佐藤がしていた。


 ……やばい。何これ。普通に俺まで恥ずかしい。


 思っていたよりもずっと火力が高い。まだポーズを取ってくれただけなのに。

 さらに佐藤は恥ずかしそうにしながらも、しっかりと俺の目を見つめてくれていた。優しさとサービス精神旺盛な彼女は、恥ずかしいのでこれで許してくださいと言わんばかりに頬を赤く染めて微笑んだ。

 そして、小さく口を開く。


「……に、にゃあ……」


「……」


「あ、あの、日向くん……?」


 完全にオーバーキル。

 俺はもうダメだった。


「……そ、その。感想とか、言ってください。で、できるだけ、早めに……っ」


 沈黙に耐えかねた佐藤の顔がかぁぁっと真っ赤に染まっていく。

 俺はシンプルに答えることにした。なにせ頭が回らない。


「好きだ」


「……ほ、本当ですか?」


「ああ、本当に。今すぐ抱きしめて撫で回したいくらい」


「な、なでまわ……!」


「い、いや、ごめん。口が滑った。……って、それもダメだな。えっと……」


「ふふ、ふふふっ」


 もはや自分でも何を言っているのか分からない。と、そんな状態の俺を見て、佐藤は柔らかく目を細めて笑った。


「私、猫の真似なんて初めてだったので……でも、日向くんの好きな感じにできていたなら、嬉しいです……にゃ」


「く……っ」


 思わず変な笑いが出そうになった。

 ダメだ、紳士になれ。下唇を噛んで我慢する。

 ……まあ、大好きな彼女に猫の真似をさせている時点で紳士というには相当におかしいが。


「いいですよ。……撫で回しても」


「……え?」


 無防備に、佐藤が言った。

 ごつんと俺の腕に優しく頭突きしてくる。


「い、今の私は猫ですから。……ねこは、大好きな人に撫でられるの、大好きですから。日向くんの満足いくまで、たくさん、撫でてください……にゃんっ」


 そう言って、佐藤は俺の膝の上に横たわった。

 じっと上を向いて、小動物のように俺が何かするのを待っている、と、そんな様子だった。決して重くはないが、大好きな人の重さを膝の上でしっかりと感じる。


 ぴくり。

 右手が不覚にも反応してしまう。


 ああ、本当に……甘えん坊すぎて困る。

 俺はそっと佐藤の頭に手を乗せた。


「ん……っ」


「……あんまり変な声出さないでくれると助かるんだけど」


「ご、ごめんなさいっ。……気持ちよくて、つい」


 体を縮こまらせ、恥ずかしそうにぐぐぐと密着度を増してくる。可愛い。照れ隠しのつもりなのかもしれないが、膝枕をされている側が表情を隠すのは決して容易なことではなく、今の佐藤も例に漏れず真っ赤な耳と頬が俺の位置からは丸見えだった。


 それにしても、佐藤の髪は本当に柔らかい。

 するぅーっと指が通るのは言うまでもなく、その触り心地はきっと天女の羽衣にだって劣らない。柔らかく、どこか撫でている指が包み込まれる感覚すら覚える。

 根本から毛先まで一切の乱れがない。その上、撫でるたびに佐藤が気持ちよさそうに目を細めるのも、胸の奥にグッと来るものがある。


 俺は次に、佐藤の頬に優しく手を当てる。

 すると彼女は「ふふっ」と嬉しそうに笑ってから、そっと自分の手を重ねてきて、自分から俺の手にすりすりと頬を寄せてくる。


「……これからもずっと、一緒にいてくださいね」


「……ああ、必ず。……ってか、俺の方こそよろしくな」


「ふふっ。……はいっ」


 可愛いなぁ本当に……。撫でる手が頬から顎、顎から首へとズレていく。

 乳白色の綺麗な首筋を人差し指でそっとなぞると、さすがにくすぐったかったのか、佐藤は「んんっ……」と声を漏らした。


「ごめん、これは俺が悪い」


 謝ると、佐藤は膝の上で小さく首を振った。


「ううん。いいんですよ、全然。……その、声は、出ちゃいますけど……っ」


 俺になら聞かれても構わない、と暗にそう言ってくる。

 どうしたものかと悩んでいると、佐藤が俺の手を優しく握ってきた。


「ねえ、日向くん。……おなか、撫でてくれませんか?」


「……え?」


「わ、私、いちおう今は猫なのでっ。好きな人には、お腹を触られるのだって、だ、大丈夫です……にゃん」


 思い出したかのように語尾を付け加えた佐藤だったが、仰向けになって向けてくる視線は至って真面目なものだった。至って真面目に恥ずかしそう。


「……わかった」


 俺は小さく頷いた。佐藤がそれを見て嬉しそうに微笑む。

 早まるつもりはもちろんない。ただ、好きな人に触れたい気持ちも、触れられたい気持ちも今の俺にはよく分かる。我慢させ続けるのではなく、佐藤のして欲しいこともできる限りしてあげたい。付き合ったのならそのくらいの責任は果たして当然だろう。

 それにあの佐藤のお腹に触る機会なんて自分からじゃ簡単には作れない。というか触りたい。


「じゃあ……触るよ?」


「……はいっ」


 確認してからゆっくりと手を伸ばす。

 この触れるまでの僅かな時間が、一番緊張する。

 ドクドクと心臓が騒ぎ、そして……


 ぴたっ。


 と、触れた途端に時間が止まる。


「……うっ」


「ご、ごめん。強かった?」


「ち、ちがいます。……気持ちいい、というか。不思議な感じがして。……つ、続けてください。大丈夫ですから……っ」


 そうして、止まっていた時間がじんわりと溶けていく。

 佐藤のお腹。……もちろん服の上からではあるものの、初めてちゃんと手のひら全体で触れたそれは、なんというかとても小さくて、温かかった。

 細い。手を乗せているだけなのになんでそんなことが分かるのか、自分でもよく分からない。

 ただただ細くて温かい。それなのに、健康的な柔らかさはしっかりと感じられる。ほんの少しだけ手を押し込むと、佐藤はビクッと気持ちよさそうに足を持ち上げた。


「日向くんにお腹を触られると、すごく……変な感じがしますっ。好きな人にお腹を触ってもらうのって……言葉にならないですけど、いいですね。……猫もこんな気持ちなんでしょうか」


 さするようにゆっくりと手を動かしていくと、やがて佐藤も慣れてきたのか気持ちよさそうに目を閉じて全身から力を抜いた。呼吸もどんどん落ち着いてくる。


「そろそろお風呂入らないとだな」


「……」


「佐藤?」


「……」


 いつの間にか、佐藤は俺の膝の上で眠っていた。

 慣れない環境で一日を過ごし、感情の動きも激しかったんだから、疲れ果てているのも当然のことだろう。俺のために豪華な料理とケーキまで作ってくれたのだから、その疲労は押して測るまでもない。

 できることならこのまま眠らせてあげたいが、生憎ともう夜も遅い時間帯。まだお風呂に入っていない佐藤をこのまま眠らせておくわけにはいかない。

 けど。


「……まあ、少しくらいなら、いいよな?」


 朝までこのままというわけにはいかないが、疲れ切った彼女を少しの間寝かせておいてあげることくらいなら構わないだろう。


「……すぅ…………すぅ………………」


 それに、佐藤の寝顔が見放題というこの状況は、少しばかり……いや、かなり、捨てるにはもったいない。

 可愛らしく寝息を立てる佐藤を起こさないように注意しつつ。もう少しだけ撫でさせてもらおうと、俺は佐藤の髪にそっと触れた。

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