第26話 過去と佐藤②

26 「過去と佐藤②」


 しばらくして。

 佐藤の嗚咽がおさまり、ゆっくりと俺の胸から体を起こした。


 一旦二人で飲みやすい温度になったお茶を飲み、口を潤す。


「……すみません、急に、泣いたりして。その……制服、汚れちゃったりしてませんか?」


「まあ、多少はな。でも全然平気。佐藤はどう?」


「おかげさまで、スッキリした気がします。……その、ありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げてから、ぎこちなく笑ってみせる佐藤。

 少しは気持ちが晴れただろうか。


「一つ、聞いてもいい?」


「……はい?」


 掘り返すつもりはないが、どうしても聞いておきたいことがある。


「なんというか、佐藤は俺のこと……怖く感じてたりしないのか?」


「日向くんを、怖く……?」


「えっと、じゃあ、聞き方を変えようかな。……どうして佐藤は、俺のことを信じてくれたんだ? もちろん信じてくれるのは嬉しいし、佐藤を傷つけたりとかは絶対にしないつもりだけど……本心はそうじゃない"可能性"も、ないわけじゃないっていうか。……でしょ?」


 俺に佐藤を傷つける意思は微塵も無いし、優しく接してるのだって俺がそうしたいからしているだけだ。それに仮に損得で考えたとしても、佐藤が笑ってくれればその時点で天秤は得に傾く。

 と、本心ではそう思っているが、佐藤にそれを確かめる術はない。

 極端な話、俺が佐藤の体だけを目当てに優しく接している可能性だって、佐藤からしたらあり得ることのはずだ。

 それこそ佐藤の過去と同じように。


 でも、佐藤は俺を信頼してくれている。

 手も繋ぐし、肩も使うし、抱きしめもする。お弁当だって作ってくれる。

 人を信じるのが怖くなったと言っていたが、どれも信頼のない他人にできることじゃない。


 どうして俺は彼女の"例外"になれたのだろう。

 と、そんな疑問だった。


「日向くんを信じられた理由、ですか」


「うん。だって俺、ほら……そこそこ佐藤に遠慮なく、可愛いとか言ってたし……」


「ま、まあ、そう、ですね」


 気恥ずかしくて俺は頬を掻きながらそう言った。

 すると佐藤もいつもの調子で頬を染め、目が逸れた。

 しかし、すぐに再び俺を見上げ、嬉しそうに微笑むと、今度は俺の手に触れてくる。

 何かを懐かしむように吐息をこぼし、呟く。


「『安心して。今は俺がそばにいる』って、覚えてますか……?」


「げ……」


「日向くんが、私を痴漢から助けてくれた時に言ってくれた言葉です。ふふっ、その様子だと、覚えていてくれたみたいですね」


「いや、まあ……そんなカッコつけたことを言っていた時代も、あったかもしれない」


 佐藤を痴漢から助けた後、俺の制服を掴んで離さなかったのを落ち着かせ、安心させるために、そんな恥ずかしいことを言った記憶は一応ある。

 なにせ酷い怯えようだったので、佐藤には安心できる理由を提供する必要があった。


 ……まあ、それで咄嗟に用意した理由が『俺』っていうのが頼りないところだけど。


「日向くんがあの言葉をどんな気持ちで言ってくれたのかは分かりませんが、私は、本当に救われたんですよ。本当に、本当に、救われたんです」


 佐藤の過去を聞いた今だから分かることだが、痴漢というのは佐藤との相性が悪すぎる。

 もちろん痴漢は誰にとっても悪いものだが、『色恋沙汰を断った』ことをきっかけに起こってしまった佐藤のトラウマを考えれば、特別最悪な組み合わせであることは間違いない。


「私……触られてる時、声が出なかったんです。全部のどの奥に詰まって、怖くて……でも、呼吸だけはどんどん苦しくなって。そんな状況だったのに、嫌がったらまた嫌われちゃうかもって……ほんと、意味わからないかもしれませんが……そう思ったんです」


 意味わからないなんてことはない。

 そう伝えるために佐藤の手を握り返すと、彼女は嬉しそうにふわりと笑った。


「だから、助けてくれて、本当に嬉しかったんです。その後に、安心してって言って、私のそばにいてくれたことも」


「……でも、それが下心からだった可能性もあるだろう?」


「……ない、と思いますよ」


「どうして?」


「それは……日向くんに助けてもらった頃の私は、決して清潔感のある女の子じゃなかったと、自負しているからです」


「あぁ……」


 なるほどなと理解する。


 あの時、俺が痴漢から助けたのはクラスメイトの地味子だった。

 佐藤彩音という名前はかろうじて思い出せたが、その程度。

 可愛いという印象はなく、綺麗という印象も特になく、佐藤はただたまたま同じ電車に乗っているクラスメイトに過ぎなかった。


 しかしそれは、人と関わるのを避けるために、佐藤が意図的に作り出していた『可愛くない』外見だったのだ。

 男子に好かれるはずがないと自負する程の、だらしない身だしなみ。

 だから下心なんて抱かれるはずがなく、それゆえに俺の優しさは純粋に自分に向けられたものだったと、佐藤は理解したのだ。


「まあ、でも、日向くんを信じてる理由は他にもたくさんありますけどね」


「そうなの?」


「はいっ」


 自信を持って頷く佐藤。


「ちなみにその詳細は……」


「秘密、です。……でも、日向くんが私にしてくれたことや、言ってくれたことを思い出してもらえたら……きっと、その全部が理由です」


「全部って。……じゃあ、これからも佐藤のこと、可愛いって言ってもいいのか?」


「な、なんですかそれは…………当たり前です」


 薄っすらと頬を赤く染め、少しだけ呆れたように佐藤が言う。

 そのままこつん、と俺の肩に寄りかかってくるので、腕を回して軽く抱き寄せる。


「こういうのもあり?」


「……ない方が、嫌です」


 要するに、今まで通り。

 話を聞いたからって、何も遠慮して欲しくないということだ。


「これからも、たくさん、甘えさせてください」


「俺で良ければ。喜んで」


 それから俺達はしばらくの間、お互いが満足するまで肌を寄せ合った。

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